新開村(読み)しんがいむら

日本歴史地名大系 「新開村」の解説

新開村
しんがいむら

高田町の中央やや西寄り、西鉄ひらき駅の西方一帯に広がる中世の干拓地。戦国時代初期には肥後阿蘇社(現熊本県一の宮町)領。文明一三年(一四八一)九月一〇日の三池北郡新開検見目録帳(阿蘇文書/大日本古文書一三―一)によると、惣田数は四五町、内訳は定田三二町二丈中・佃二町・刈上一町・夫米二町、神田・講田七町、代官給田一町で、定田の年貢以下の納米九九石一斗七升五合、および段別銭・屋敷銭から笠勢衛門尉下給の一貫文を引いた三八貫五〇文が阿蘇社に進納された。これを分担した名主は小宮式部・小宮弾正以下一八名。現在南新開みなみしんがいのうちの西鉄開駅の西三〇〇メートルほどの所に弾正屋敷だんじようやしきの通称があり、環濠集落の形をとどめるが、ここはおそらく小宮弾正の屋敷跡と思われる。


新開村
しんがいむら

[現在地名]宇土市新開町

東・北は緑川が流れ、西は下新開しもしんがい村、南は鶴見塚つるみづか村に接し、四方が平坦な地形である。村の中央に今村いまむら、東に堂免どうめん、西に無田むた、北に新潟しんがた南西立石たていし、北西に築籠ついごめなどの字地がみえ(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳によれば田方六一四石五斗余で「水損所」とあり、畠方一一四石一斗余。「国誌」に「三丈村徳満新開村大新開村本村今村中島村等小村アリ」とある。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると、宇土知行所の村で、竈数七四・人数三七四・役男八四、本方高六〇五石三斗余、田二七町七反二畝余・畑一〇町七反四畝余、新地田畑五町三反八畝、永荒畑一反、諸開五町二反七畝余。


新開村
しんがいむら

[現在地名]美里村三郷みさと

長野ながの川右岸にあり、栗原くりばら村の北西にあたる。集落は村域の東部の長野川沿いの平地にある。「五鈴遺響」は「此神封ノ地ニ拠テ村名トス」と村名の由来を述べるが、文字どおり新しく開発された土地の意とも考えられる。「宗国史」には「旧作新谷」とある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「六百三拾三石七斗五升 新開・柳谷」と出る。江戸時代を通じて津藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)には、「新開村」として田方一三七石余、畑方三四石余であった。


新開村
しびらきむら

[現在地名]浦和市新開一―三丁目・新開

町谷まちや村の西にあり、荒川沖積低地に立地する。天正一八年(一五九〇)岩付いわつき(現岩槻市)落城後、その麾下の士が浪人してここに土着して新たに一村を開いたので村名となったと伝える。平野原ひらのはらに持添新田があり、与野領に属した(風土記稿)。田園簿では田四二石余・畑三石余で、幕府領寛永(一六二四―四四)の見沼水いかり(水没田)の替地として、承応三年(一六五四)当村四五石余などが大宮氷川神社領となった(「見沼水没地知行所替地覚」岩井家文書)


新開村
しんがいむら

[現在地名]御薗村新開

宮川河口右岸、王中島おうなかじま村の東に接する。「神鳳鈔」記載の「新関御薗」はあるいは新開の誤記か。「外宮神領目録」に「新開御園塩九斗」とあり、早くから塩の生産地であり、伊勢神宮へ塩を納めていたことがわかる。長禄二年(一四五八)一月二二日の田地売券(太田文書)によれば、新開四郎大夫は「箕曲郷新開御薗之内字上寺東」の田地を「大塩屋東殿」に売渡している。


新開村
しびらきむら

[現在地名]福井市新開町

文殊もんじゆ山北麓に近い福井平野にあり、下河北しもこぎた村の南に位置する。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高四〇五・七六八石とある。正保郷帳によれば田方三七〇石余・畠方三五石余。福井藩領。


新開村
しんかいむら

[現在地名]久保田町大字新田しんでん

嘉瀬かせ川に接し、現久保田町の中東部。

正保絵図に村名がみえ、天保郷帳にも新開村とみえるが、貞享四年(一六八七)改、天明三年(一七八三)、万延元年(一八六〇)改の郷村帳には「新田村」の名前で記載されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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