日本社会論(読み)にほんしゃかいろん

改訂新版 世界大百科事典 「日本社会論」の意味・わかりやすい解説

日本社会論 (にほんしゃかいろん)

現代の日本は,高度に産業化された先進国の一つに属している。都市化も著しく,全人口の4分の3に当たる9000万ほどの人たちが〈市〉に住んでいる。狭い国土であるが,整備された行政組織があり,交通や通信のシステムも発達している。低資源国であるにもかかわらず,第2次大戦後の復旧は目覚ましく,その後において急速な経済成長を達成し,現在では世界の国民総生産(GNP)の約10%を占めるに至った。中流意識をもつ人が多く,平均寿命の伸びも著しい。国民全体の教育水準も高い。先端技術の開発も盛んであり,優れた商品を大量に輸出しており,今やニューメディアの発展とともに,世界に先駆けて高度情報社会に突入しようとしている。

 このような日本社会の現状は,江戸時代から培われてきた社会文化的な潜勢力の顕在化と解しうるが,開国後,主として欧米との接触をとおして達成した近代化の成果とみることもできる。さらに,明治維新および第2次大戦敗北後の民主化改革による大きな社会変動がもたらしたものともいえる。確かに政治,産業,技術,教育などに関して,日本が世界の先進諸国と軌を一にする発展を遂げてきたことは事実である。この点だけを考えれば,その歴史は,他の文明社会の場合と同じく,普遍的原理にのっとって近代社会に向かう収斂(しゆうれん)過程の一つを示すにすぎず,少なくとも制度的な面では,欧米諸国との間に本質的な違いはないといえよう。

 しかし日本社会が,それ独自の編成原理をもって,ユニークな史的展開をはかってきた事実を見逃してはならない。近代日本が他の資本主義社会と同様の構造的矛盾を宿していたとしても,また日本が近代産業社会に共通した組織形態(たとえば株式会社のような企業体)をもってはいても,そこでの社会構成の原理,人間関係の特性,組織運営の方法などは,欧米におけるものとはかなり様相を異にする。やはりそこには伝統的な文化が反映されているとみなすべきであろう。普遍的〈文明〉と個別的〈文化〉とを同等視することはできない。それゆえ,社会構造,文化型,国民性などに関して,どのような日本的特性が存しているのか,あらためて比較社会学的に検討することが必要となろう。

 しかしながら,これまで,国際比較をするとき,日本の社会文化的特性は,かなり特殊なものだとする見解が多かった。いわゆる日本特殊性論である。それは,世界(とくに欧米社会)が普遍であるという前提に立った議論である。だが日本もまた人類社会の別のタイプの普遍形態であると考えられるし,そしてまた,イギリスの社会学者R.P.ドーアが示唆したように,今後,日本社会が他社会のモデルとなりうる可能性もあるのだから,最初から日本的特性を特殊なものと極めつけてはならない。さらに言えば,近代化を急ぐあまり日本は,西洋社会から思想・学問,また政治・行政・司法・経済・軍事・技術・教育・医療などの制度を直輸入してきた。その際,伝統的な生活様式をそのまま残していたから,導入された近代的な方式や理念(タテマエ)と並んで,現実の慣行(ホンネ)もあるということになる。この和洋折衷的な併存状況は,日本社会における近代的側面(新しさ)と封建的遺制(古さ)との二重構造として理解されてきた。しかし,日本の近代化は,両要素の織り成す単一の動態だと解することもできる。それは,欧米型とは異なる新たなタイプの近代化ルートなのである。このような把握をすれば,日本社会に固有な要素もまた,その近代化を促進した要因だということになる。そうした内発的な要因は,日本人だけが内在的な立場でつかみうるような文化のイーミックスemics,すなわち固有属性であるかもしれない。けれどもそれを,欧米起源ではない新たな概念と理論でもって正しく分析し,外国人にもわかるような形で,つまりイーティックスeticsに転換して,科学的に説明することが必要である。
近代化

日本の社会構造を,社会的活動や社会関係のパターン,もしくはそれらを規制する規範的原理に関して分析し,日本社会の基本的な構成原理を探る試みがなされている。たとえば,社会人類学者,中根千枝の〈タテ社会〉論がそうである。

中根の説によれば,日本人の集団参加の基準は,個人の保有する〈資格〉よりも当人の属する〈場〉にウェイトがおかれる。集団構成の要因も,成員における特質attributeの共通性よりも,枠frameの共有性に求められる。生活共同体ないし経営体としての日本の〈家〉は,居住もしくは経営という〈枠〉によって構成された集団であり,また終身雇用制でもって人を丸抱えにする日本の大企業も,同じ原理に従っている。個人の多面的な〈資格〉(性別,老若,地位,職業など個人を識別しうる何らかの質的基準)に応じて,複数の集団への所属が可能な場合とは対照的に,日本社会では,現に所属している〈場〉からの離脱は,集団成員性の喪失を意味する。したがってそこでは,単一集団への一方的・全面的な帰属が必然化され,成員はみずからの集団に対して強い一体感をもつ。このような一方的帰属に特徴をもつ日本社会は,〈単一社会〉だと規定される。〈資格〉を同じくする者どうしから成る集団では,成員はお互いに同質的だから,ヨコの関係のネットワークが発達する。だが〈単一社会〉では,同一集団の中に相異なる〈資格〉をもつ者を含むから,理論上,タテの関係(上役-下役,先輩-後輩,親分-子分など)が発達する。そこでは序列意識が強く働くが,リーダーとフォロアーとは,保護と依存,温情と忠誠といった情緒的な〈きずな〉によって結ばれている。もっとも,その際リーダーは,権力の独占者というよりも,特定集団の代表者(かなめ)であるにすぎず,集団の〈和〉を保つ責務を負う。しかしそこでは派閥(党中党)がつくられやすく,それらは相互に孤立化し,連帯性を欠くきらいがある。それは,政治学者の丸山真男が評したタコツボ型の組織形態である。日本社会は,このような意味で典型的な〈タテ社会〉なのである。

 しかし,中根によるこの〈タテ社会〉モデルは,現実の日本社会のすべてに妥当するわけではない。西南部農村の講・組や京都の町衆を対象にすれば,日本はむしろ,対等・平等な関係が支配的な仲間集団から成る,非〈単一=タテ〉社会だともいえる。〈場〉に基づく集団に種々の〈資格〉の持主が包含されるからといって,上下の関係が強くなる論理的な必然性は見当たらない。仮にタテ社会だとしても,現実をよく眺めれば,日本社会はもっと柔軟性を帯びた〈場〉的集団(小集団の緩やかな連合体)から構成されていることがわかる。後になって中根自身が比喩的に認めているように,その社会は,古い石垣のありさまに似ている。そこでは,形,大きさこそ違え,互いに同質的な石が相互になじみ合って一つの石垣を形成している。また,そのような組織形態にあっては,まるでヒトデの動きのように,それぞれの腕が周口神経環によって相互にうまく調整されるのである。つまり日本の組織では,タテの関係は,権力的な上下関係ではなく,上位,下位の者がうまく組み合うような形のものであって,組織外に対してのみ儀礼的な序列が守られる,と中根は修正コメントを付け加えている。実際の日本社会はそのようなソフトな社会システムだというべきであろう。

このようなソフト社会を構成する基本単位は,中根も示唆するように,欧米におけるように〈個人〉ではなく,いつも顔を合わせて生活や仕事をする人びとの集り,すなわち〈小集団〉である。具体例としては,〈家〉という世帯的単位とか,〈課〉〈係〉といった職場の小単位が挙げられる。実際それらが,日本の社会組織の基本要素なのである。なかでも〈家〉が日本の組織の原型(つまり作田啓一のいう〈原組織〉)の拠点であるとする説が有力である。

 たとえば,法社会学者,川島武宜の〈日本社会の家族的構成〉説がそうである。川島の説によれば,日本の家族制度は,(1)家長の権威と家人のそれに対する恭順という関係に支えられた封建武士的=儒教的制度,(2)家人が互いにむつみ合う協同体的雰囲気(それ自体が一つの権威的秩序)の中で,それぞれが職分に応じた固有の地位を保つ民衆的制度,これら二つが混合・相互浸透したものである。これらの家族制度的な生活原理は,当人たちには無秩序に映ずる家族外の社会に反射され,そこに家族的秩序を模した擬制的親族関係,すなわち〈親分・子分〉〈兄弟分〉関係などを生む。このような形の家族的に構成された日本社会は,(1)親分の権威・親心と子分のそれらへの無条件的服従,(2)主体的行動の欠如と個人的責任感の稀薄さ,(3)絶対的・なれあい的な秩序を乱す批判,すなわち〈ことあげ〉を禁ずる社会規範,(4)親分・子分的結合での家族的雰囲気と外部に向かっての敵対的意識との併存,などによって特徴づけられる。

 川島は,社会制度としての〈家〉に注目したから,それが個人の自主性を抑圧する機構として作用する点を強調した。〈家族制度〉は封建的遺制であり,それの投射された全体社会は非近代的=非民主的な社会関係を必然的にもたらす,と判断している。しかしそこでは,〈家〉自体がかなりの団体的自立性をもつ組織体であること,ならびにそれの近代化に対する意義が見過ごされている。この点に配慮したうえで,〈家〉の主たる人間関係をベースにして日本の〈原組織〉の編成過程を眺め,そこでの運用原理を明らかにしたのが,中国生れの心理人類学者であるシューF.L.K.Hsu(許烺光)であった。
 →家族制度

シューによれば,日本に限らず,どの社会でも,親族体系(とくに核家族構造)における中心的な人間関係とその属性によって,当該社会の〈原組織〉が決定される。日本に関しては,単子相続を行う〈家〉では,父親(家長)-嗣子の関係が最も優性を示しているが,それに備わった権威・排他性・選択意思などの属性によって,〈家〉に,単なる家族集団ではない,団体としての性格が付与される。そして,〈家〉における嗣子-非嗣子間のヒエラルヒー関係に基づいて,本家-分家から成る〈家〉の連合,すなわち〈同族〉が,一つの親族団体として形成される。日本の〈原組織〉イエモトというのは,大都市などで,この〈同族〉に模してつくられた協同団体corporationのことなのである。それは,芸道の家元制度(流派)を分析上の範型とするような,親族類似の組織体(自発結社)を指している。家元は,川島や西山松之助も指摘するように,宗家を家父長に見立てる大擬制家族であるとともに,師匠-門弟という主従関係の連鎖から成るヒエラルヒーである。イエモトにおいても,世代的な序列関係が,制度として固定化されるが,それ自体は,目標志向団体として加入希望者をかなり自由に受け入れ,またそこからの離脱をも認めている。

 シューの見解に従えば,日本の〈原組織〉イエモトの編成・運用原理は,それの複合的な性格を反映した〈縁約の原理kintract principle〉ということになる。それは,中国の〈原組織〉である〈族(ツウ)〉における〈親族の原理kinship principle〉と,欧米の〈原組織〉であるクラブ(自由結社)の〈契約の原理contract principle〉との折衷であって,血縁集団におけるような,固定化されたヒエラルヒー的秩序への自動的な全面参加と,自由結社への義務づけられた限定参加との接合化された形態を指している。日本人がみずからの自発的意思に基づいてイエモトに加われば,その擬似親族組織に対して,自発的に,また無限定的に忠誠を尽くすことになることをいうのである。しかし,この〈縁約の原理〉は,日本の組織編成の必要条件だとしても,必ずしも必要かつ十分な条件ではないことに留意すべきであろう。

 イエモトの現実的な形態としては,芸道の家元以外に,日本の大きな組織体,たとえば,官庁,政党,企業,労働組合やその連合体,大学,大病院,宗派,やくざ組織などを想定することができる。それらは,多くの場合,シンボル化されたトップをいただくヒエラルヒー組織であって,形態的には近代官僚制機構(ビューロクラシー)に似るが,その本質は異なる。支配-服従の位階的なヒエラルヒーとしての官僚制は,人的資源の権力的独占を行うキャピタル・モノポリーである。これに対して,イエモトは,シンボル的権威の連結的ヒエラルヒーでしかない。したがってイエモトのトップは,人的資源の統括的象徴であるにとどまる。その組織形態は,シンボリック・モノポリーというべきであろう(天皇制も,この意味では,一種のイエモトである)。前者の至上目的は,人的資源を最大限に活用して組織目標の効率的な達成をはかることにあるが,後者では,業績の達成よりも,組織そのものの永続化に重点がおかれることが多い。たとえば,企業の場合,利潤の追求よりも,単に売上高や市場占有率で他社と競争することに熱中する傾向がある。その際,組織内で人の〈和〉が非常に重んじられる。

 イエモトのような日本的〈原組織〉にあっては,組織自体の意思決定は,いわゆる〈根回し〉に基づく全会一致方式によってなされるのが普通である。そのやり方の制度化された形態が,稟議(りんぎ)である。稟議制といわれる意思決定法は,組織のミドル・マネージメントが,事前の〈根回し〉によって関係者の了解を取り付けたうえで,文書として起案し,所定の上司などの決裁を得て,事業の実施をはかる手続を指している。それは,日本的経営の重要な基盤ともなっている。イエモトにはこの方法がうまく適合しているが,他企業などとの関係に〈根回し〉的な手法が用いられると,公正な競争関係が損なわれて,いわゆる〈談合〉問題が生ずることにもなりかねない。

社会構造における以上のような日本的特色は,文化とパーソナリティのレベルに,その成立基盤をもっていると考えられる。

日本の文化の基本的特徴を最初に指摘したのは,アメリカ文化人類学者,R.ベネディクトであった。ベネディクトは,その著《菊と刀》の中で,日本文化の型を,欧米の〈罪の文化guilt culture〉と対比して〈恥の文化shame culture〉だと断定した。両者の違いは,行為に対する規範的規制の源泉が,内なる自己(良心)にあるか,それとも自己の外側(世評とか知人からの嘲笑(ちようしよう))にあるかに基づいている。つまり,恥の文化では,善いとされる行動が何であるかは,それが外側から是認されたり,制裁を受けたりすることによって決まる。罪の文化でのように,心に宿る罪の自覚によって決まるのと,まるで反対である。人がそうした制裁としての恥を感じるのは,あからさまにあざけり笑われて除け者にされるか,嘲笑されていると思いこむ場合にである。要するに,西洋は,道徳の絶対的標準を説き,良心の啓発を頼みにする社会だから〈罪の文化〉をもち,他方,日本の社会は,外面的強制力に基づいて善行を行うような〈恥の文化〉に属している。前者の文化では,悪い行いがたとえ人に知られなくてもみずから罪悪感にさいなまれ,後者の文化では,人前で恥をかかないようにすることが道徳の原動力となる。モラルの根拠が内にあるか外にあるかの違いである。

 だが,社会学者の作田啓一が鋭く批判したように,行為基準に関するこの概念分割の根拠はきわめて不明確である。作田によれば,人間はまず外側から罰を受けることによって,何が罪であるかを知るようになるのであり,また〈恥を知る〉人というのは,自分自身で自分をコントロールしうる人のことなのである。日本人にとって〈恥を知る〉ということは,すでに行ったみずからの行為に対してひそかに〈我が身を恥じる〉こと,つまり羞恥心(しゆうちしん)を抱くことを指している。こうした恥は,ベネディクトのいうような恥辱としての恥ではなく,自己制御機能を備えた自律的な行為原理だとみなしうる。かくて,〈恥の文化〉では,行為基準の外在性にもかかわらず,自律的行為もありうるということになる。ベネディクトはそれを見落としていると作田はいう。

 東洋思想の研究家である森三樹三郎もまた,恥の意識の本家である中国において,名(名誉)の裏面としての恥が,人間を悪から善に向かわせる内面的な動力と考えられている,という指摘をしている。森は,ベネディクトとは反対の立場から,罪の観念は,刑罰という強い外面的強制力によって生み出されるものであるが,恥の観念は,道徳や礼儀によって養われる内面的な倫理意識だとする。そこでは,行為基準の内在性と外在性の関係は,ベネディクトの場合とちょうど反対になっている。

 作田や森のこうした見解からも明らかなように,古来,日本や中国において,自律的な行為を支える倫理として恥が重要視されてきた。このことは,罪と恥が文化の型を分けるうえで決定的な要因となりえないことを示唆する。にもかかわらず,ベネディクトは,もっぱら外在的な行為基準としての恥を取り上げ,日本文化を強引に類型化しようと試みたのである。日本人にとっては,そもそも,罪と恥とがなぜ対概念とされるのかということすら,よくわからないのではないか。

 ベネディクト説においては,個人は自律的存在であらねばならないという欧米人一般にとって自明な観念が,文化の東西比較の拠点に据えられている。その際,罪(良心)という意識は,そうした自律的な個人の自我構造の中核を形成する。これに対して,恥は,ベネディクトにとっては,罪とは対蹠(たいしよ)的な,非自律的な態度を表明する格好の概念であった。この二元論的対比が,非欧米社会の典型としてとらえられた日本に機械的に適用されて,恥辱回避傾向としての〈恥の文化〉という類型化がなされたのではあるまいか。

〈恥〉という文化型の中核としてのエートスethosが,必ずしも日本文化を特色づけるものでないとしたら,何が日本の文化型を規定しているのであろうか。日本人の対人関係を規制するモラルとして,古来,〈恩義〉という観念が存在している。厳密にいえば,〈恩〉と〈義理〉に分かれるが,それを意識せずに行動した場合には,世間的な非難をこうむることになる点では共通している。

 一般に日本人の身近なところでの人間関係は,自我-他我(我と汝)という二者関係dyadでの単なる一時的な互酬的相互作用(取引的なギブ・アンド・テイク)ではない。したがってその関係は,〈契約〉に基づき個人間の等価交換をめざして取り結ばれるようなものでもない。仮に〈契約〉が結ばれても,川島がいうように〈契約〉であるような,ないようなあいまいな状態を現出するだけである。むしろ日本人では,相互の関係は,〈縁〉という契機によって,時間的にも空間的にも無限に広がる対人ネットワーク(その全体についての合理的認識は不可能)の下位システムであることが確認された場合に,初めて成り立つのである。〈ご縁があった〉とか〈これも何かのご縁で〉といった挨拶は,このような関係の認識の仕方を示しているといえよう。そこでは互酬よりも互恵がめざされ,また対人関係の脈絡そのもの,すなわち〈間柄〉の保全と発展に関心がもたれる。その際に,互恵関係の公正さは〈恩義〉の観念によって支えられるが,〈恩〉という任意的な片務サービスがスムーズに交換されない場合,やや強制化された双務サービスとしての〈義理〉に移行する。しかしそれは,〈個人〉間の権利-義務にかかわる〈契約〉とは根本的に異なる。

 ベネディクトも,《菊と刀》の中で忠犬ハチ公の物語を引きながら,日本人の〈恩〉の意識に触れ,それを,受けた恩と,それに対する返報としての献身的愛情や忠誠的な態度だと解釈した。社会関係における〈恩〉は,受恩-報恩としてよりも,施恩-報恩として把握するほうがよいが,いずれにせよ日本人の〈恩〉は,互恵的相互作用を,当事者の一方の自発的好意にゆだねる形で維持しようとする社会意識だといえよう。この片務的サービスの任意的交換が,形式化されたり,相互拘束的に強制化された形で遂行される場合に,それを支えるモラルとして〈義理〉を考えることができる。〈忘恩の徒〉は,世間から劣位者のラベルをはられた者であるにとどまるが,〈不義理な人間〉〈義理をわきまえぬやつ〉という非難を浴びれば,その当人は所属する集団からの逸脱者として閉め出されるはめになる。

 〈義理〉は,好意-謝意,給付-反対給付などの形をとる相互交換関係として現れるが,ベネディクトの見解のように,自分の受けた恩恵に等しい分量だけを返せばよく,また時間的にも限られている負いめだとはいえないであろう。むしろ儀礼的に交換関係が成立すればよいケースも多いし,お返しが時間的に限定されているわけでもない。高価な贈物に対して半紙1枚の〈おうつり〉を返すだけで済むこともありうるし,相手が待ってさえくれれば,何十年先でも〈義理〉は果たせるのである。〈義理〉はまた,人情と相いれないとされるが,それはもともと人情がらみの情緒的関係なのである。
贈物 → →義理

しかしながら,〈恩〉や〈義理〉が,日本社会における社会関係や社会意識の鍵概念であるとしても,文化型を包括的に表明するものとは思えない。その文化型は,日本人の行為の基本原則としてとらえられるべきであろう。ベネディクトは,《菊と刀》の中で,日本人の行為の基準が,それぞれの状況に応じた個別的なものであり,しかも各基準は,いずれも正しい妥当なものとされ,状況相対的(非絶対的)な性格をもつことを指摘している。また日本人は,同一人の行動としては相矛盾するかにみえることをしているが,各基準を自己のおかれた状況との対応で器用に使い分けているのであり,基準の内容も状況の変化に応じたものに絶えず変えている,とする。要するに,日本人は,個別的・状況相対的な行為基準を弾力的に設定し,それに準拠して志向している,とみるわけである。この志向傾向を〈個別・状況主義〉と呼ぶならば,そうした状況倫理こそ,日本の文化型の基体を成すものであるといえよう。

日本人の国民性または民族的性格については,〈甘え〉という分析概念でもって論じた精神医学者,土居健郎の理論が有名である。土居によれば,〈甘え〉は日本語にしかない語彙(ごい)であって,他者に対する依存欲求,ないし相手との一体化の願望を指している。その〈甘え〉理論は,次の4点に要約される。(1)〈甘え〉の原義は,母子未分化から脱却した乳幼児が,なおも母親に愛着し,一方的に依存することにある。(2)〈甘え〉の欲求は成人にも拡散され,日本では,それを基盤にした対人関係が家族外にも遍在する。(3)日本社会では,うらむ,すねる,ひがむ等のネガティブな形に転化されやすいアンビバレントな〈甘え〉感情が,相互作用の原理として容認されている。(4)日本人では,所属集団への埋没(すなわち,そこでのたっぷり甘える体験)なしには,アイデンティティ(〈自分がある〉という確かな感覚)をもちえない。

 土居によれば,この第4点にもかかわらず,依存度の高い〈甘えん坊〉は,精神発達における口唇期段階の性格を示す人間であり,したがって〈甘え〉は,たとえ民族的性格だとしても,究極的には克服されなくてはならない心的状態だとする。土居の分析では,まず最初に,自我の確立された〈個人〉が人間の自然態として措定され,ついでそれの欠落態として〈甘えん坊〉が取り上げられたきらいがある。だが,同じ精神医学者である木村敏は,この土居説に疑問を投げかけている。土居のいうように〈甘え〉が他者に対する依存願望を指す用語だとするのは,日本語の慣用法から外れており,〈甘え〉の本質は,自他間ですでに一体化が成立している状態にあって,相手との情愛にもたれ,馴れ親しんで気ままをすることにある,と木村はいう。関西でよく使われる〈甘えた(がり)〉という言葉は,そうした一体化された状態の中で,人に〈甘える〉術にたけていると同時に,自分が安心して〈甘える〉ことのできる相手を敏感に選択する感受性を豊かに備えた人を指している,ともいう。そうした〈甘えた〉は,日本人としての世渡りのこつを十分わきまえた大人だと評することもできる。

 確かに,〈甘え〉とは,成人の場合,相手の好意を当てにする態度をいうのであって,相手の情のあるなしを,つまり他人の好意の程度を,自分なりに見分ける分別がなければ成り立たない。人と人との相互依存にとっては,個々人のレベルでは,かなり高度の自律性と欲望の節度が必要なのである。この点は,評論家青木やよひの言うとおりであろう。かくて土居の見解とは逆に,日本社会では自律性を前提とする〈甘え〉が存在することになる。

〈甘え〉の問題は,日本人の価値観が,集団・組織への全面的な依存・隷属・没入を求めていく〈集団主義〉だとする見解の誤謬(ごびゆう)とも似ている。日本的集団主義というものは,実際には,集団至上主義ではない。仕事のうえで他成員と協調したり,集団へ自発的に参加することが,組織活動の成功への早道であり,かつそれが自己自身の得となることを知ったうえで,あえて集団のために尽くすことなのである。それは,ある意味では,わが身が可愛いからこそまずは互いに協力しようという動機に発している。むしろそれは,〈協同団体主義corporativism〉として理解されなければならない。欧米近代の〈個人主義individualism〉と二元的に対比されるような全体主義holismなのでは決してない。

 現実の日本人は,集団の中でそれぞれに独自の意思を押し通そうとする欧米型の個体的自律性を示さない。自己依拠的にふるまう唯我的主体としての〈個人〉ではなく,既知の人,身近な人との有機的な相互期待の関係を,いつも良好に保とうとする,いわば関与的な主体性の持ち主としての〈間人(かんじん)〉である。それは,自分自身を考えるとき,他の人とのかかわりまでも自分の一部として包含するような人間の類型を指している。木村敏の表現を借りれば,〈人と人の間〉における〈ひと〉のことである。対人的な意味連関の中で,連関性そのものを自己自身だと意識するような,〈にんげん〉のあり方だともいえる。和辻哲郎が示唆したように(《人間の学としての倫理学》),日本語で〈ひと〉のことを,〈人〉だけではなく〈間〉をつけ加えて〈人間〉と表記するのも,ゆえなきにはあらずである。

 〈間人the contextual〉としての日本人が対人関係に関して抱く価値観は,〈間人主義contextualism〉と呼ぶことができる。それと対照化されるのが〈個人主義〉であって,その属性は,(1)自己中心主義,(2)自己信頼主義,(3)対人関係の手段視である。〈間人主義〉は,(1)相互依存主義(社会生活では親身の相互扶助が不可欠であり,依存し合うのが人間本来の姿だとする理念),(2)相互信頼主義(自己の行動に対して相手もまたその意図を察してうまく対処してくれるはずだとする互いの思惑),(3)対人関係の本質視(いったん成り立った〈間柄〉は,それ自体値打ちのあるものとして尊重されるべきだとする見解。無条件でその持続が望まれ,相手にわざと注文をつけたり,陥れることをはかったりするのは論外の沙汰とされる)という三つの属性を備えている。日本社会とその文化型,国民性を,〈間人〉概念によってとらえるならば,おそらく〈間人主義〉的な特性をもつものとして把握されることになろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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