出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
恩はほんらい〈恵み〉を意味し,神の恵み(愛)や仏の恵み(慈悲)をさしたが,のち中国や日本では君主や親の恵みという考えが強調されるようになった。インドの仏教は縁起(相互依存)の思想によって人間の横の結びつきを重視したのにたいし,中国の儒教は忠孝を説く五倫五常(精神的秩序)の思想によって人間の縦の関係に注目したが,この考え方の違いが恩の観念にも反映した。仏教ではインド以来〈四恩〉が説かれたが,それは《正法念処経》では母,父,如来,説法の師の恩とされ,《大乗本生心地観経》では父母,衆生,国王,三宝の恩とされている。このうち父母と国王の恩を強調する《心地観経》の思想は中国や日本で重視され,封建道徳と結びつけられた。日本で恩の観念が鋭く意識されはじめたのは中世になってからであるが,そこには二つの考え方があった。一つは親鸞や道元などの場合で,父母の恩や国王への礼拝を否定して,如来や衆生の恩を強調する宗教的な考えである。もう一つは封建社会の主従関係にみられるもので,主君の恩と従者の奉仕(忠誠)が一種の契約関係にもとづくとされた場合である。だが日本では前者の宗教的な恩の観念は発展せず,後者の上下の権力関係にもとづく恩がしだいに重視されるようになった。もっとも日本の儒学は中国の場合と同様に恩をあまり問題にすることがなかったが,近世の中江藤樹や貝原益軒にいたって恩の考えが積極的にとりあげられ,忠孝があらゆる徳目の根源とされた。近世末になって二宮尊徳が天地人の三才の徳に報ずることを説いたのも,そのような精神がうけつがれたためと考えられる。
こうして主君にたいする報恩(忠)と父母にたいする報恩(孝)の強調は,制度的には人倫の上下関係を秩序づけるとともに,家父長制と封建体制の安定化に貢献した。そして心理的には上位のものが下位のものに恩恵をほどこす半強制的な温情主義(パターナリズム)を生みだした。アメリカの文化人類学者R.ベネディクトは《菊と刀》のなかで,近世以降に発達をみた恩のあり方に注目し,人が全力をあげて背負わなければならない負担,債務,重荷であると分析した。上位のものが下位のものにほどこす恩も,下位のものがその恩に報ずる行為も,ともにけっして普遍的な道徳的義務であるのではなく,むしろ借金とその返済という関係に還元することができると考えた。しかもそこにみられる恩返し(借金返し)の義務は無限の義務と感じられており,そこに日本人に固有の支配と服従の諸関係が胚胎するのだという。これは要するに〈恩〉と〈恩返し〉の行為には,もともと経済関係的側面と心理関係的側面が重層していたということなのである。経済関係的側面でいえば恩は返済可能の債務であるが,心理関係的側面でいえば返済不可能という負担感覚が底流しているのであって,その矛盾する反対感情の共存が日本人の義理と人情の世界を方向づけていると考えられる。
→恩寵 →御恩・奉公
執筆者:山折 哲雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
『日本書紀』や『古語拾遺(しゅうい)』などの日本の古典に出ている「恩」は「めぐみ」「みいつくしみ」「みうつくしみ」などと訓(よ)まれている。そして「めぐみ」は、草木が芽ぐむなどというときの芽ぐむを名詞形にしたものとされているが、草木が芽ぐむのは冬眠していた草木の生命力が陽春の気にはぐくまれて目覚めることによる。そのようにある者が他の者に生命を与えたり生命の発展を助けることが恩を施すことであり、その逆が恩を受けることであるとみられる。したがって恩の存在するのは人間の間だけでなく、われわれは天地人の三者から広く恩を受けていることになる。しかしこれは広義の「恩」で、普通にはある人によって示された好意とその良好な結果とに対して感謝するという狭義の感恩が考えられ、この感恩の対象は父母と君主であると貝原益軒(かいばらえきけん)などは考えていた。つまり感恩の究極は忠孝にあるというわけであるが、日本思想における感恩の観念は仏教の影響によるところが大きく、中国の儒教は恩を説くことはまれであった。
[古川哲史]
サンスクリットのウパカーラupakāra(他の者を思いやること)、またはクルタkrta(他の者から自分になされた恵み)の漢訳。仏教では、人は恩を知り(知恩)、心に感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)とされる。具体的に、『正法念処経(しょうぼうねんしょきょう)』では母、父、如来(にょらい)、説法の法師から受ける四種の恩があげられ、さらにのちには『心地観経(しんちかんぎょう)』で父母、衆生(しゅじょう)、国王、三宝(さんぼう)の四種の恩が説かれた。いわゆる四恩思想である。親子や夫婦間の愛は恩愛といい、出家修行者には断ち切るべきものとされる。中国では親から受ける恩が孝の思想と関連して強調され、『父母恩重経(ふぼおんじゅうきょう)』の偽経が制作されるに至った。
[新井慧誉]
『仏教思想研究会編『仏教思想4 恩』(1979・平楽寺書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…この二元論的対比が,非欧米社会の典型としてとらえられた日本に機械的に適用されて,恥辱回避傾向としての〈恥の文化〉という類型化がなされたのではあるまいか。
[〈恩〉と〈義理〉]
〈恥〉という文化型の中核としてのエートスethosが,必ずしも日本文化を特色づけるものでないとしたら,何が日本の文化型を規定しているのであろうか。日本人の対人関係を規制するモラルとして,古来,〈恩義〉という観念が存在している。…
※「恩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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