松木村(読み)まつぎむら

日本歴史地名大系 「松木村」の解説

松木村
まつぎむら

[現在地名]九重町松木

見良津みらつ村の北方にあり、玖珠川支流松木川が流れる。平家へいけ山の北西麓とたから山の南東麓にわたる村で、府内・日田往還が通る。寿永二年(一一八三)一一月二日の清原通房退文(大友文書所収帆足文書)に「求珠郡内松木内野司狩庭」とあり、この地を佐賀殿に去渡している。佐賀殿は豊後大神一族の佐賀四郎惟憲か。野司のじ狩庭は帆足氏と松木氏とが領有をめぐって相論を繰返していることから、帆足ほあし郷と飯田はんだ郷の境、松木川の最上流域、現松木の旧中須なかす地域から玖珠町日出生切塞ひじうきりふさぎ辺りの山間草原地帯をさすものと思われる。相論は玖珠の御家人松木時光と帆足道員によるもので、正嘉二年(一二五八)四月五日、大友頼泰は裁決を下しているが、それによると時光は建久六年(一一九五)中原親能から自分の父家時が野司狩場の下作職を拝領したと主張、これに対し道員は狩場の地頭代官職は自分の祖父家道が存命の頃からのもので、建久六年・同七年・正治元年(一一九九)などに親能より安堵されていたと反論、この安堵の下文を証拠として道員の勝訴とした(「豊後守護大友頼泰書下案」帆足文書)。しかし嘉暦四年(一三二九)八月の帆足通勝重目安状案(醍醐寺文書)によれば、「野司」の境をめぐって飯田道一と争っており、道一の建保(一二一三―一九)・貞永(一二三二―三三)などの文書を謀書と難じている。


松木村
まつぎむら

[現在地名]八王子市松木・南大沢みなみおおさわ

大栗おおくり川に村中むらなか(大田川とも)が合流する南岸の低地に立地。西は下柚木しもゆぎ村。村内を相州津久井つくい(現神奈川県津久井町)から江戸に至る往還が通る。むかし松木七郎師澄がこの地に住んだことに由来する村名というが(風土記稿)、馬継の転訛とも考えられる。「風土記稿」の稲荷社の項に天正五年(一五七七)二月願主松木村井草織部と記した棟札がみえ、当地を支配した大石信濃守の屋敷跡があるという。所在地は大田おおた川と大栗川が合流する内側の高台で、松木地区のだいにあたる。昭和六三年(一九八八)から行われた発掘調査で八〇メートル×七〇メートルの範囲に方形の溝や多数の掘立柱建物、井戸などの遺構を確認(多摩ニュータウンNo.107遺跡)


松木村
まつのきむら

[現在地名]南小国町中原なかばる

中原川沿いに集落が広がり、南は中原村、北東は赤馬場あかばば村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)には、「かふりかた」のうちに「一所松の木お二とう 百文 まめ五升」とあり、また近世に当村の小村とされる轟木とどろき出羽でわさかしたも麻・大豆・銭などをそれぞれ負担している。寛永二〇年(一六四三)月日未詳の細川光尚判物(沼田文書)で当村は山本やまもと郡内の三ヵ村とともに沼田小兵衛(延将)に宛行われている。


松木村
まつきむら

[現在地名]熊山町松木

円光寺えんこうじ村の西にあり、吉井川へ小野田おのだ川が合流する氾濫原上に集落がある。坂長さかなが(現備前市)から西へ続いた古代山陽道は、ここから北西へ方向を変えたと考えられる。「延喜式」兵部省に載る珂磨かま駅があったことから馬継がなまって村名となったと伝え、村内に馬次うまつぎの地名があり、古瓦が出土する。「備前記」には枝村松原まつばら新田が載る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)川田かわた庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高二二〇石余。


松木村
まつのきむら

[現在地名]富山市松木・松木新まつのきしん

神通川下流左岸の低地に位置する。北は宮尾みやお村・本庄ほんじよう村。やや離れて南西方は山岸やまぎし村。村名は開拓当時当地に松の木が多かったことに由来するという(婦負郡志)。松ノ木とも記された。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。寛永一〇年の牛ヶ首用水管理約定書(牛ヶ首用水土地改良区蔵)に肝煎新三郎の名がみえ、早くから開かれた。このほか享保(一七一六―三六)の頃八郎兵衛、文政九年(一八二六)久三郎などの肝煎がいた(「御郡役所留要文抜書」前田家文書など)


松木村
まつのきむら

[現在地名]大山町松木

常願寺川左岸の段丘斜面に集落を形成し、水田は常願寺川河川敷にある。東はまき村、北西は岡田おかだ村。正保郷帳松ノ木村とみえ、高一三石余、田方二反余・畑方七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二六石、免四ツ七歩、小物成は山役四二匁・蝋役一匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)でも高・免に変化はない。文政八年(一八二五)島組、天保一〇年以降も島組に属した。安政五年(一八五八)二月の大鳶おおとんび崩れと三月・四月の大泥流によって当村と牧村の水田の多くは埋没し、その水源も失った。同年夏松木村兵助らが小口おぐち川を水源とする新用水の掘削を提唱し、牧村・才覚地さいかくち村との協議が成立し郡役所に申請した。


松木村
まつのきむら

[現在地名]海津町松木・田中たなか

神桐かみぎり村の北西に位置する。東は瀬古せこ村、村内に横江よこえという地名がある。天正一一年(一五八三)九月一日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)に一四ヵ所三千貫余のうちとして「松の木」「よこへ」とあり、氏吉は同一四年七月二三日に松木郷三六五貫二五八文、「横江但里無之」一八一貫二六七文などがあらためて宛行われている(「織田信雄黒印知行目録」同文書)


松木村
まつのきむら

[現在地名]新湊市松木

庄川下流、川口かわぐち村の東方に位置。寛永(一六二四―四四)頃の村立てという。中曾根なかそね(現高岡市)の枝村かつ川口村からの出村である(新湊市史)。当地一帯は低湿潤地帯で帯状の沼沢が北東方向に延びる。灌漑は牧野まきの用水に依存(「郡事摘要」折橋家文書)。正保郷帳では高一千三七石余、田方五二町余・畑方一七町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一千五八石、免四ツ八歩(三箇国高物成帳)。所属組は六渡寺ろくどうじ村と同じ。寛保二年(一七四二)の百姓数三〇・頭振二〇(「高免等書上帳」折橋家文書)


松木村
まつぎむら

[現在地名]今治市松木

今治平野南西部にある平地村。村の形は矩形で、東は徳久とくひさ村・高市たかいち村、南は町屋まちや村・新谷にや村、西は中寺なかでら村・八町はつちよう村、北は辻堂つじどう村に接する。

弥生後期から古墳期にかけての遺跡が散在しており、律令時代は高市たけち郷の地域と推定され、条里の遺構も明瞭である。松木を官道越智おち駅の駅次にあてる説もある。戦国期には、河野通直に仕え永禄一一年(一五六八)に没した松木武村と、その子重村の館があり、付近はその知行地であったという。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「松木村 日損所、小川有」とみえ、村高は三六七石六斗二升である。


松木村
まつきむら

[現在地名]大館市松木

大館盆地の北西部、山麓沿いに南流する下内しもない川流域に位置する。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「斎藤掃部九拾壱石 松木村」とある。また「秋田風土記」に「古城有、高館と云。実季の臣工藤信久居すと云。実季に随て常州に赴く」ともある。中世後期の館跡が現存し、付近に高館下たかだてした高館平たかだてひらの小字名が残る。享保一五年(一七三〇)の戸数は一六で、「支郷八幡館」とある(六郡郡邑記)。枝郷の位置は館神八幡はちまん社の周辺であろう。以後の村勢は寛政一二年(一八〇〇)二〇戸、一一〇人、安政四年(一八五七)四三戸、二三〇人、同七年四七戸、二三三人(大館市史)


松木村
まつきむら

[現在地名]国分市松木町・松木・松木東まつきひがし中央ちゆうおう三丁目・同五丁目・福島ふくしま一丁目・同三丁目

野口のぐち村の南東、国分平野の中央部に位置する。松之木まつのき村とも称し(「薩藩政要録」など)、近世には国分郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高二九七石余、「三州御治世要覧」によると延享(一七四四―四八)頃の高八六一石余。嘉永五年(一八五二)の国分諸在万志らべ帳(秋山家文書)によれば宝暦三年(一七五三)に検地が行われ高八八七石余、うち諸人作職一五八石余。


松木村
まつのきむら

[現在地名]福光町松木

八幡はちまん村の北にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に「松野木」とみえ、広瀬組に属し、役家数九。正保郷帳では高四三四石余、田方二八町余・畑方九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇八石、免五ツ、小物成は山役五五匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には三清元組に属し、家数二一・頭振家数三、惣人数一二七、馬七、肝煎藤左衛門(西正寺村)、組合頭九十郎・六兵衛であった(「三清元組覚帳」川合家文書)


松木村
まつのきむら

[現在地名]志賀町松ノ木

直海のうみ村の南にあり、西は五里峠ごりとうげに至る山地。集落は東端の平地にあって、直海村の家並と続く。慶長一一年(一六〇六)から土方領。土方雄久知行目録によると高九九俵余、百姓取分五割。貞享元年(一六八四)から幕府領となるが、元禄二年(一六八九)鳥居忠英に与えられ、同八年再び幕府領に戻り、享保七年(一七二二)加賀藩預地となって幕末に至る。正保郷帳の高四九石余、田二町八反余・畑四反余、免三ツ五歩。


松木村
まつのきむら

[現在地名]那珂川町松木一―三丁目・松木・王塚台おうつかだい一―三丁目

今光いまみつ村の南、梶原かじわら川流域にある。東は中原なかばる村。慶長石高帳に松木村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高は四二二石余。元禄五年(一六九二)には高四三三石余、家数三五・人数一七二(田圃志)


松木村
まつきむら

[現在地名]春江町松木

金剛寺こんごうじ村の東にあり、集落は九頭竜くずりゆう川の支流磯部いそべ川の南岸に沿う。中世は春近はるちか庄の地。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「針近之郷」に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方四二〇石余・畠方四五石。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領、のち再び幕府領、文政三年(一八二〇)福井藩預領となる。


松木村
まつきむら

[現在地名]大刀洗町菅野すがの

筑後川支流の小石原こいしわら川下流右岸に位置し、南は下川げかわ村に接する。久留米藩領古図に松木村とある。本高は四〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高五〇石・役高三九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三九石、文化四年(一八〇七)畝付帳では田一町八反余・畑田七反余・畑一町余・居屋敷四畝余。


松木村
まつのきむら

押付新田おしつけしんでん村北西に所在。江戸時代の領主変遷は大平だいへい村に同じ。寛文年間(一六六一―七三)新利根川開削に際して移転を命ぜられ、還住しなかったといわれる(→新利根川が、耕地は残存したらしく、元禄郷帳・天保郷帳に村名がみえ、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には天領で、村高一五・一九二石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松木村の言及

【足尾鉱毒事件】より

…政府は第1次鉱毒調査委員会を設置し,古河に鉱毒予防工事命令を下し(以後,全国の鉱山に不十分ながら鉱毒予防施設の設置が義務づけられた),農民には翌98年に地租の減免措置をとった。だが予防工事はきわめて不完全なまま認可され,煙害の被害地である上流の松木村は1901年ついに全村移転し消滅した。鉱毒被害地では免租によって納税資格を欠き,公民権や衆議院議員選挙権を喪失する者が続出し,また地租の付加税であった町村税の減収により町村自治が破壊された。…

※「松木村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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