松林寺(読み)しようりんじ

日本歴史地名大系 「松林寺」の解説

松林寺
しようりんじ

[現在地名]岡山市庭瀬

鴨方かもがた往来の南、庭瀬藩陣屋跡の北東にあり、清水山と号する。臨済宗東福寺派。本尊地蔵菩薩。暦応二年(一三三九)別峰大殊(円光国師)白幡しらはた(現兵庫県赤穂郡上郡町)城主赤松円心の援助を得て開いたと伝える。古くは高蔵寺と号し、栗坂くりさか(現倉敷市)にあったが、寛永年間(一六二四―四四)現在地より南東にあたる中田なかだ長野ながのに移り、延宝(一六七三―八一)の頃清水山松林寺と改号したという(備中誌)。元禄一五年(一七〇二)庭瀬藩主板倉重高が高峰士格を招き、菩提寺として現在地に中興、享保一二年(一七二七)画僧として知られる鰲山恵が再興したという。

鎮守は伊勢皇大神宮。

松林寺
しようりんじ

[現在地名]岡崎市赤渋町 蔵西

赤渋あかしぶのはずれの水田地帯の中に、松の木立に囲まれて建っている。常行山と号し、浄土宗鎮西派。本尊は阿弥陀如来。もと寺領五石。

開基大樹だいじゆ寺第五世真誉南香で永正一一年(一五一四)にこの地に阿弥陀如来を安置し、草庵を設けて常行三昧の修行に入るという。このため常行山と号し、松林の中の一宇なのでまた松林寺ともいう。松平七代清康の姫随会院の霊を祀るところから随会ずいかい院とも称したという。

松林寺
しようりんじ

[現在地名]石鳥谷町松林寺 門前

奥羽山脈の山裾にあり、松宮山と号し、本山修験宗。本尊地蔵菩薩。境内は広く、かつて付属寺院として東西南北の坊や南勝なんしよう寺があったといい、今もそれが地名として残る。「御領分社堂」によれば,仁寿年中(八五一―八五四)建立で、天文年中(一五三二―五五)堂宇・本尊・縁起焼失したという。慶長一一年(一六〇六)八月一〇日の松林寺金蔵坊宛の北松斎霞免許状(松林寺文書)があり、「和賀稗貫両郡之行人之かすミ望之間相渡申候」とある。

松林寺
しようりんじ

[現在地名]北川村柏木

柏木かしわぎ集落の山側の高台にあり、万年山と号し、真言宗豊山派。本尊観音菩薩。建久元年(一一九〇)悟庵了公の開基と伝え、北川家の菩提寺とされた。「南路志」に「棟札文明三修覆、其後の棟札有、大般若経一部文亀元年酉五月善日北川浄珍興と奥書有」とある。天正一五年(一五八七)の北川之村地検帳の柏木村に松林寺屋敷三〇代が記され、寺領も三筆一反四四代があった。

松林寺
しようりんじ

[現在地名]上京区分銅町

浄土宗、竜護山と号する。慶長一三年(一六〇八)に清印が創建(蓮門精舎旧詞)。初め東山黒谷くろだに(現京都市左京区)辺りにあったが、以伝のとき「洛陽川原町」(現中京区)に、信誉のとき当地に移建した(浄家寺鑑)。その時期を「坊目誌」は元禄(一六八八―一七〇四)初年と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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