コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

桜田治助(初代) さくらだ じすけ

2件 の用語解説(桜田治助(初代)の意味・用語解説を検索)

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

桜田治助(初代) さくらだ-じすけ

1734-1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎作者。
享保(きょうほう)19年生まれ。江戸の人。壕越二三治(ほりこし-にそうじ)に師事し,一時京坂で上方狂言をまなぶ。明和6年市川団十郎一座の立(たて)作者となり「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」などの当たり狂言をかく。浄瑠璃(じょうるり)の作詞者としても知られ,作品に常磐津(ときわず)「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」など。文化3年6月27日死去。73歳。号は柳井隣,花川戸。屋号は成田屋。俳名は左交。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

桜田治助(初代)

没年:文化3.6.27(1806.8.11)
生年:享保19(1734)
江戸歌舞伎中興の祖と位置づけられる歌舞伎狂言作者。初名田川治助,津村治助,堀越治助。俳名左交。江戸本石町一丁目河岸の薪炭商の子。通称を笠屋善兵衛,幼名治三郎などと伝えられるが不詳。狂言作者三宅(津村)清蔵の世話で劇界に入り,25歳で狂言方見習いとなる。29歳から4年間京都で修業し,江戸に戻ってのち明和4(1767)年11月3代目市川団蔵の取り立てで立作者となる。2年後には4代目市川団十郎を中心とする「市川揃え」と呼ばれる大一座の作者に抜擢され,安永2(1773)年11月の「御摂勧進帳」の大当たりで人気作者の地位を不動にする。「天明ぶり」を代表する作風で,ことに4代目松本幸四郎に書いた顔見世狂言二番目の世話場「雪ふりの場」などは,洒落た台詞,華やかな趣向,思い付きのよい見立てなどで人気を呼び,「花の江戸の桜田」とたたえられた。52歳から3年ほど劇界を離れたが,復帰してのちは73歳で死ぬまで台本を書いた。最盛期は安永~天明期(1772~89)で,戯作者の山東京伝と共に,町人出身の作者として文壇,劇壇に新風を起こした。 根っからの芝居好きで,勘当されて預けられた上野国佐野(高崎市)でも,手習いの師匠をしながら子供たちに芝居を教えたという。また,大の吉原好きで,毎夜廓に行かねば寝られなかったともいう。芝居と遊里が生んだ作者であった。江戸の豊後節浄瑠璃の作詞もよくし,常磐津の「戻駕色相肩」,富本の「花川戸身替の段」などに,その特色がよく表されている。語り物としての浄瑠璃のなかに,局面本位の長唄の所作事の小唄尽くしの性格を取り込み,舞台面に多彩な変化を可能にした。また,浄瑠璃の詞章に漢語や俗語を入れた壕越二三治の「菜陽風」を慕い,その堅い表現を廓言葉などで和らげ洗練した。その作風は「桜田風」と呼ばれ,没後,本所柳島妙見(法性寺,墨田区業平)に治助の辞世の句「花清し散ても浮む水の上」を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は,門弟の福森久助,2代・3代目桜田治助らの所作事のなかに継承されていった。<参考文献>大久保忠国「初世桜田治助研究資料」(守随憲治編『国劇研究』1942年9月号),河竹繁俊歌舞伎作者の研究』

(古井戸秀夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

桜田治助(初代)の関連キーワード女歌舞伎歌舞伎草子遊女歌舞伎江戸歌舞伎歌舞伎唄歌舞伎狂言歌舞伎子歌舞伎芝居歌舞伎役者歌舞伎踊

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone