旧幕臣、明治政府の政治家、外交官。通称釜次郎(かまじろう)、梁川(りょうせん)と号した。天保(てんぽう)7年8月25日、幕臣榎本武規(たけのり)(1790―1860)の次男として江戸に生まれる。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に入り、ペルス・ライケンG・C・C・Pels Rijcken(1810―1889)、カッテンディーケに機関学などを、ポンペに化学を学び、1858年築地(つきじ)軍艦操練所教授となる。1862年(文久2)からオランダに留学。フレデリックスについて万国海律を学ぶ。語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を得て、1867年(慶応3)、幕府の注文した軍艦開陽丸に乗って帰国、同艦の船将となる。1868年(慶応4)海軍副総裁となる。江戸開城、上野戦争で幕府が崩壊したのちも、幕府軍艦の明治政府への引き渡しを拒否、旧幕軍を率いて品川沖から脱走。箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に拠(よ)って政府に反抗、新政権を宣言したが、翌1869年5月官軍に降伏、投獄された。黒田清隆(くろだきよたか)、福沢諭吉(ふくざわゆきち)らの尽力により1872年出獄。まもなく北海道開拓の調査に従事。1874年特命全権公使としてロシアに駐在、翌1875年樺太千島(からふとちしま)交換条約を締結した。1882年駐清(しん)特命全権公使となり、李鴻章(りこうしょう)と折衝、天津(てんしん)条約の調印に助力。1885年帰国。以後、同年逓信(ていしん)、1887年農商務、1889年文部、1891年外務、1894年農商務の各大臣、1892年枢密顧問官を歴任。1887年子爵。
1878年ロシアからの帰途シベリアを横断、各地の地質などを視察。1879年地学協会の創立を唱えて副会長となる。語学に優れ、科学知識も当代一流であった。北海道の地質・物産の調査報告が多く、外地の視察報告もあって、科学・技術官僚としても注目される。五稜郭において、玉砕を決意するに際し、『万国海律全書』が兵火のために烏有(うゆう)に帰すことなきよう、これを官軍に贈ったことは世に知られている。明治41年10月26日没。
[片桐一男 2018年9月19日]
『榎本隆充編『榎本武揚未公開書簡集』(2003・新人物往来社)』▽『加茂儀一著『榎本武揚』(中公文庫)』
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(岩下哲典)
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幕末・明治の軍人,政治家。幕臣の次男で通称釜次郎,号は梁川。江戸生れ。1856年(安政3)長崎海軍伝習所に派遣され,62年(文久2)オランダへ留学し自然科学,法学などを広く学んだ。竣工した開陽丸で67年(慶応3)帰国,幕府海軍幹部の道を歩み68年1月徳川新体制のもとで海軍副総裁。江戸開城後も軍艦の引渡しを拒否,主力艦を率いて北海道に渡り蝦夷島総裁に選ばれたが,69年(明治2)新政府軍の総攻撃を受けて降伏した(五稜郭の戦)。出獄後,黒田清隆開拓次官の下で72年開拓使出仕となって北海道開発をてがけ,74年海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き,樺太・千島交換条約を締結した。帰路シベリアを横断し《西比利亜日記》を記す。80年海軍卿。82年清国駐在全権公使。天津条約では伊藤博文大使を助けた。85年逓信大臣,以後歴代藩閥内閣で農商務,文部,外務の各大臣を務めたが97年足尾鉱毒事件の責めを負って第2次松方正義内閣の農商務大臣を辞任した。
執筆者:松浦 玲
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1836.8.25~1908.10.26
幕末期の幕臣,明治期の政治家。通称釜次郎。号は梁川(りょうせん)。幕臣の子として江戸に生まれる。箱館奉行所に勤め樺太探検に参加,長崎海軍伝習所をへてオランダ留学,1868年(明治元)幕府海軍副総裁。江戸開城後,幕府艦隊を率いて脱走し北海道に蝦夷島政府を樹立,総裁となるが,翌年五稜郭で降伏。このとき黒田清隆に助命され親交を結ぶ。72年出獄,開拓使に出仕ののちロシア公使となり,樺太・千島交換条約を結ぶ。外務大輔・海軍卿・清国公使を歴任。内閣制度創設後は黒田系の政治家として活躍,第1次伊藤・黒田両内閣の逓信相,第1次山県内閣の文相,第1次松方内閣の外相,第2次伊藤・第2次松方両内閣の農商務相を歴任。植民問題にも深い関心を寄せた。
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…1875年5月7日,ペテルブルグで榎本武揚,ゴルチャコフ両全権の間で調印され,日露両国間の領土問題を解決した条約。同年8月22日批准,11月10日布告。…
…新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。一方,旧幕府海軍副総裁榎本武揚は,1868年(明治1)8月19日,旧幕府軍艦8隻で旧幕臣やフランス人士官らとともに品川沖を脱し,途中仙台で前老中板倉勝静,同小笠原長行,前歩兵奉行大鳥圭介らを加え,総勢2800余人を乗せ,10月20日蝦夷地鷲ノ木(現,茅部郡森町)に上陸した。ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。…
※「榎本武揚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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