(読み)はら

精選版 日本国語大辞典 「原」の意味・読み・例文・類語

はら【原】

[1] 〘名〙
① 平らで広いところ。特に、耕作してない平地平原
※十巻本和名抄(934頃)一「原 毛詩云高平曰原〈音源 和名波良〉」
② 林(はやし)
書紀(720)天武七年一〇月(寛文版訓)「風の随(まま)にて松林(ハラ)及び葦に飄(ひひ)る」
[2] 静岡県沼津市地名江戸時代東海道五十三次沼津吉原の間にあった宿駅
[語誌]上代において、単独での使用例は少なく、多く「萩はら」「杉はら」「天のはら」「高天のはら」「浄見はら」「耳はら」など、複合した形で現われる。したがって、「はら」は地形地勢をいう語ではなく、日常普通の生活からは遠い場所、即ち古代的な神と関連づけられるような地や、呪的信仰的世界を指す語であったと考えられる。この点、「の(野)」が日常生活に近い場所をいうのと対照的である。

げん【原】

〘名〙
① はら。〔詩経大雅・緜〕
もと根源根本。連体詞的にも用いられる。
※造化妙々奇談(1879‐80)〈宮崎柳条〉四「婦人蕃育の原(ゲン)也と」 〔礼記‐孔子間居〕

はら【原】

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デジタル大辞泉 「原」の意味・読み・例文・類語

げん【原】[漢字項目]

[音]ゲン(漢) [訓]はら もと
学習漢字]2年
ゲン
はら。「原野高原湿原草原氷原平原
(「」と通用)みなもと。水源。「原泉
物事のもと。起こり。始め。「原案原因原稿原作原子原始原色原則原油原理原料起原語原根原病原
「原子」「原子力」の略。「原潜原爆原発
〈はら(ばら)〉「海原うなばら野原松原高天原たかまがはら
[名のり]おか・はじめ

はら【原】

草などが生えた、平らで広い土地。野原。原っぱ
[類語]野原平原広野ひろの広野こうや広原高原原っぱ松原草原そうげん草原くさはら草地野中野良野末野面田野

はら【原】[地名]

静岡県沼津市の地名。駿河湾に臨み、東海道五十三次の宿駅として発展。

げん【原】

(連体詞的に用いる)もとの。もともとの。「判決」「著者」

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日本歴史地名大系 「原」の解説


はら

[現在地名]小野田町 原

小野田本郷のうちで、東流する鳴瀬なるせ川左岸にあり、南は長清水ちようしみず、西は門沢かどさわ、北は宮崎みやざき(現宮崎町)、東は長清水と小泉こいずみ(現宮崎町)に接する。かつては当地に田地はなかったが、寛文一〇年(一六七〇)新田が開発され原と名付けられたという。この時承応元年(一六五二)当地に移住した上原屋敷の高橋長右衛門が肝入に任ぜられ、以後世襲した(安永風土記)。「安永風土記」によれば、田二二二貫七四四文・畑一一貫一〇二文で、蔵入は一二〇貫六一五文、給所は一一三貫一三一文、人頭九二人(うち沽却禿一五)、家数七八(うち借屋一)、男二三八・女一九四、馬一一五で、用水として当村一円の渡ノ沢堤(溜高一三貫九八九文)、門沢との入会の沼頭堤・内子沢堤・歩坂堤・梨沢堤があり、合計当村分溜高一三貫九八九文、上野目かみのめとの入会堰である大堰(溜高一八二貫七五六文)の当村分溜高は一七七貫六四七文であった。


はら

[現在地名]津和野町後田うしろだ

亀井氏藩邸から御菜園所にかけて重臣屋敷が配された地。東は津和野川に沿いかみの原・中の原からなる。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では藩邸東門から菜園に至る幅三間の南北道の西側に三千三一八坪の亀井宮内(高崎亀井家)邸、竹蔵と重臣屋敷三軒が並び、東側に慈雲じうん院屋敷跡・藩上屋敷および重臣屋敷五軒が並ぶ。


はら

[現在地名]丸子町大字御岳堂・大字生田

御嶽堂みたけどう村より塩田に通ずる二ッ木・久保両峠の東にある集落、南原(現大字御岳堂)と北原(現大字生田)に分れる。南原は単に原組ともいい御嶽堂村の枝郷。

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百科事典マイペディア 「原」の意味・わかりやすい解説

原【はら】

駿河国駿東(すんとう)郡の地名。現在は静岡県沼津市の大字(おおあざ)。地名の由来は,かつて沼津市から富士市にかけて広がっていた浮島ヶ原にちなむという。《源平盛衰記》にみえる〈はらなかの宿〉(原中宿)が前身とみられる。戦国期には木綿の産地としても知られた。1601年に原宿として東海道の宿駅に指定されたが,1611年の高潮の被害で北方300mの現在地に移転した。《東海道宿村大概帳》によれば,宿内町並みは北側17町余,南側19町余,人口は1939人,家数は398軒で,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠(はたご)屋25軒があった。宿内にあった松蔭(しょういん)寺は,臨済宗(りんざいしゅう)中興の祖とされる白隠慧鶴(はくいんえかく)が住持した寺として知られる。1968年に沼津市に合併。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「原」の意味・わかりやすい解説


はら

静岡県沼津市北西部、愛鷹山(あしたかやま)南部の一地区。旧原町。駿河(するが)湾に面して千本松原が広がる。中世以来、東海道の宿駅で、漁業も盛ん。江戸時代は箱根越しに江戸へ魚荷を送る商人仲間が活躍。現在、東海道本線原駅を中心に住宅、商店、工場が密集している。国道1号が通じる。松蔭寺(しょういんじ)に白隠慧鶴(はくいんえかく)の墓(県指定史跡)、自画像(県指定文化財)がある。

[川崎文昭]


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世界大百科事典 第2版 「原」の意味・わかりやすい解説

はら【原】

耕作していない広く平らな草原。野原といわれるように,野と特に大きな差はないが,1129年(大治4)の遠江国質侶牧(しどろのまき)の立券文(りつけんもん)に,原210町,野291町とあり,43年(康治2)尾張国安食荘(あじきのしよう)の立券文に,荒野(こうや)434町余,原山108町とあるように,一応区別されて丈量されている点からみて,地形的,視覚的に区別はあったものと思われる。【網野 善彦】 原の地名は藍原,高鷲原,坂門原(《日本書紀》)のように古代以来広く用いられ,現代でも単に原と呼ばれるものをはじめ,非常に多い。

はら【原】

駿河国(静岡県)駿東郡の東海道の宿駅。愛鷹(あしたか)山南部,沼川流域に位置し,地名は浮島ヶ原に由来する。鎌倉時代に宿駅として形成され,〈はらなかの宿〉が《源平盛衰記》に見られる。駿河湾に面し,1548年(天文17)の今川氏印判状に〈阿野庄之内原駅船壱艘之事〉と見え,今川氏がこの地の領主上松由兵衛に船役と定使を免除したこと,また53年の今川氏印判状により木綿の産地・売買地であったことが知られる。1601年(慶長6)東海道の宿駅に指定された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原」の意味・わかりやすい解説


はら

静岡県東部,駿河湾にのぞむ沼津市の集落。旧町名。 1968年沼津市に編入。千本松原で知られる砂丘に立地し,江戸時代には東海道の宿場町として繁栄。 1900年東海道本線の原駅が開設。第2次世界大戦後,工場・住宅地化が著しく,コンクリート加工,印刷の大工場の進出がみられる。北部の浮島ヶ原は新田開発の多い水田地帯。

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事典・日本の観光資源 「原」の解説

(静岡県沼津市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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世界大百科事典内のの言及

【野】より

…〈野〉と〈〉とは区別されて扱われている場合もあるが,その相違は明確でない。日本の律令制においては,山川藪沢とともに野は公私共利とされたが,天皇の支配権の下におかれ,天皇は鷹狩などの狩猟のため河内国交野(かたの),山城国嵯峨野・栗栖野(くるすの)・美豆野(みずの),美濃国不破・安八両郡の野,播磨国印南野(いなみの),備前国児島郡の野などの禁野(きんや)を各地に設定し,また,河内国大庭御野(おおばのみの)のような蔣(まこも),菅,莞(い)を刈る御野を占定している。…

【宮崎[県]】より

…北は大分県,西は熊本県,南西は鹿児島県に接し,東は太平洋に臨む。
[沿革]
 県域はかつての日向国の大部分にあたり,江戸時代末期には高鍋藩,延岡藩,佐土原藩,飫肥(おび)藩のほか,薩摩藩領(諸県(もろかた)郡),人吉藩領(米良山(めらやま)),天領,預地があった。1868年(明治1)旧天領は富高県となり,次いで日田県に併合され,71年豊後の延岡藩領と換地された。…

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