法雲寺(読み)ほううんじ

日本歴史地名大系 「法雲寺」の解説

法雲寺
ほううんじ

[現在地名]新治村高岡

高岡の根たかおかのねの台地縁辺部にある。境内は杉などの巨木に覆われ、山門正面から関東平野を一望できる。臨済宗建長寺派、大雄山と号し、本尊観音菩薩(もとは釈迦如来)開山は小田氏四代民部少輔宗知の子大光禅師復庵宗己。復庵宗己は松島瑞巌ずいがん寺空厳禅師に師事し、のち延慶三年(一三一〇)入元して中峰明本国師に師事した。正慶元年(一三三二)帰国にあたり、時の領主小田民部少輔治久はこの地に楊阜ようふ庵を設け、復庵宗己を招いた。建武二年(一三三五)復庵はこれを正受しようじゆ庵と改め、師中峰明本を招請して開山とし、自らは第二世と称した。文和三年(一三五四)正受庵は法雲寺と改称した。法雲寺建立当時は「境内方半里、松杉鬱密緑四囲」(法雲寺濫觴雑記)といわれる。復庵宗己の名声は高く、後光厳天皇尊崇を得、足利尊氏は小田治久に命じ城形の寺を建てさせたという。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]上郡町苔縄

千種ちくさ川を望む山裾にある。臨済宗相国寺派、金華山と号し、法雲昌国禅寺という。本尊聖観音。「雪村和尚行道記」によれば、建武の乱がいったん鎮まった建武四年(一三三七)七月、赤松則村(円心)が本拠苔縄こけなわ城の麓に新寺を建立し、高倉範秀の仲介によって京都嵯峨西禅さがさいぜん(現京都市右京区)の雪村友梅を開山住持に招請した。寺領として円心は元弘の乱での最初の勲功の賞として得た高田たかた竹馬ちくま(竹万)の両庄を寄進した。境内には利生塔が設置され、暦応二年(一三三九)光明天皇の勅額を得、諸山に列せられたという。当時仏殿開堂供養について「峯相記」には「供養ノ時、檀越下洛シ、一国馳集リ、諸国群ヲ成テ、万人耳目ヲ驚シ畢」とあって、円心も下国し「一国馳集」まったといわれるほど盛大なものであった。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]越廼村大味

大味おおみ集落の東山麓に位置する。高田山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。大味川中流の畠中はたけなか(現福井市)にあった真宗高田派専修せんしゆう寺の流れを汲む。寛文三年(一六六三)専修寺(法性寺)は高田派本山伊勢の高田専修たかだせんじゆ寺と本末を争って敗れ、寺は破却され、真教・専誉父子は国外追放となった。法性ほつしよう寺門徒は畠中北西の向山むこうやま(現福井市)に難を避け、翌年仏光寺派に転派した。しかし仏光ぶつこう(現京都市下京区)が大味川上流の武周ぶしゆう(現福井市)に建立した西雲さいうん寺との間に確執が生じ、同一一年門徒らは東本願寺派に転じ、法雲寺と号した。延宝六年(一六七八)御坊格に引上げられ、貞享三年(一六八六)現在地に寺基を移した。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]村岡町村岡

村岡市街の南西部、昆陽こんよう川の最下流左岸、湯舟ゆぶね川との合流点付近にある。東林山と号し、天台宗。本尊は釈迦如来。創建の経緯は不詳であるが、古くは臨済禅寺であったとされ、元和四年(一六一八)日蓮宗に改めて丹波福知山常照ふくちやまじようしよう寺の末寺となった。寛永一九年(一六四二)領主山名矩豊が参詣し、当寺を菩提寺と定めて祖先の回向供養のために茶湯料を供え、また山号を受潤山から東林山に改め、養安院の院号を授け、矩豊自筆の写経八巻を奉納したという。元禄四年(一六九一)に天台宗に改宗。延享二年(一七四五)には山名家の御霊屋が建立され、寺領一〇〇石、および境内地を拝領したという。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]日野町西大路

中野なかの城旧堀跡の北側、西大路にしおおじ集落のほぼ中央に位置する。天正山と号し、浄土宗。本尊は正観音。安永九年(一七八〇)の由緒書(寺蔵)によれば、天正一二年(一五八四)に没した中野城主蒲生賢秀は同城近くの「中野岸之上」に葬られ、嫡子氏郷は同所に廟堂を建て、近侍の茶人法雲を堂守として仏餉料米七石と「中之桜之馬場」の地(現興敬寺付近)を与えたという。同年氏郷は伊勢まつしま(現三重県松阪市)へ国替となったが、法雲は当地にとどまり、法雲の死後、廟堂は法雲庵とよばれるようになった。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]美原町今井

単立、山号大宝山、本尊木彫三千仏。もと黄檗山萬福まんぷく(京都府宇治市)末で中本山格。寺伝によると開基は空海。当初は神福山長安ちようあん寺と称し真言宗の巨刹であったという。長安寺は当寺西方にあったと伝えるが、現在地北方に長安寺ちようあんじの字名が残存する。元和年間(一六一五―二四)長安寺は西除川の洪水によって流失。寛文一一年(一六七一)、僧宗月が霊夢によって長安寺の観音像を地中より救出し、草堂を建立して安置した(寺蔵の地中出現観世音菩薩縁起)。同一二年、宗月は萬福寺の隠元や木庵の弟子であった慧極を招請し寺を再興した。


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]久留米市中央町

庄島しようじま小路にある。仏教系単立寺院(旧真宗大谷派)。崇谷山と号する。本尊は阿弥陀如来。元和七年(一六二一)柳川の西琳さいりん寺順正が久留米藩初代有馬豊氏から庇護を得て亀屋かめや町に創建、二世良春が寛永一五年(一六三八)当地に移したという(寛文十年寺社開基)


法雲寺
ほううんじ

[現在地名]小浜市四分一

四分一しぶいちの北側山裾にある。曹洞宗。山号瑞光山。本尊は松永まつなが保地頭惟宗氏の守本尊と伝える延命地蔵。当初は草堂であったが、寛文四年(一六六四)玄休が堂宇を建立したという。明和元年(一七六四)当寺の玄鳳が霊夢を感じ、以来六月一日の払暁に中風除けの呪式を行うと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「法雲寺」の解説

法雲寺(第30番)

(埼玉県秩父市)
秩父三十四箇所指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の法雲寺の言及

【越廼[村]】より

…55年自然休養村に指定された。大味(おおみ)の法雲寺にある親鸞書写の尊号真像銘文は重要文化財。【上田 雅子】。…

【神宮寺】より

…文献上の初見は,《藤氏家伝(とうしかでん)》に藤原武智麻呂(むちまろ)が715年(霊亀1)越前の気比(けひ)神の託宣をうけて建てたという気比神宮寺であろう。つづいて養老年間(717‐724)に和宅継(やまとのやかつぐ)が若狭の若狭比古(わかさひこ)神のために建てたという神願寺,763年(天平宝字7)に満願(まんがん)禅師が建てた伊勢の多度神宮寺(法雲寺),また同じ満願が天平勝宝年間(749‐757)に建てたという常陸の鹿島神宮寺がある。時代の下降とともに神宮寺は増え,おおむね諸国の神社に設けられた。…

※「法雲寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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