今井村(読み)いまいむら

日本歴史地名大系 「今井村」の解説

今井村
いまいむら

[現在地名]富士市今井・今井一―四丁目

鈴川すずかわ村・依田橋よだばし村の東に位置し、南は駿河湾に面する。地内をぬま川が西流する。南部に広い砂丘(砂山)があり、天香久山あめのかぐやまともいわれたという。東海道が砂丘の北の裾を通り、道沿いに人家があった。

中世は加島かじま庄のうち。正安二年(一三〇〇)成立の「遺塵集」に弘安(一二七八―八八)頃東国へ下った選者高階宗成が東海道の宿々を詠んで、「旅人はみつけいま井にゆきつれて」と記している。見付みつけ吉原よしわら(現田子の浦港)に隣接した宿と考えられる。今井は見付の後背地にあたり、吉原湊に注ぐ沼川と和田わだ川の合流地点より南側、駿河湾に面している。「太平記」巻一四に建武二年(一三三五)一二月一二日の「箱根竹之下」の戦の後、「今井・見付ヲ過ル処ニ、又旗五流差揚テ、小山ノ上ニ敵二千騎計控タリ」とみえ、京都に敗走する新田義貞らは今井・見付近くの小山に陣取った武田・小笠原軍と戦っている。


今井村
いまいむら

[現在地名]本庄市今井・共栄きようえい

本庄台地の末端に近く、台地形成期の洪積世台地上と沖積世に形成された水田地帯に広がる村。南部は水田地帯、中部は集落地域、北部は田畑が入交じる。東は四方田しほうでん村・西富田にしとみだ村、北は賀美かみ七本木しちほんぎ(現上里町)、南は蛭川ひるがわ村・高関たかぜき(現児玉町)。南部の水田地帯には条里の畦畔を残す水田が広がる。南側の境界は条里区画を破壊した水路により蛇行し、北部では久城ぐじよう堀の水系が境界となっていたが、圃場整理により消滅した。南部の水田地帯は下田しもだ壱丁田いつちようだ塚田つかだ川越田かわごえだ久城田ぐじようだ前田まえだなどの条里関連地名が多く、中部に集落が東西に点在しながら延び、北部は畑地帯となる。元禄郷帳・天保郷帳などには東今井村・西今井村とみえるが、分村は中世末期頃の可能性もある。天文二一年(一五五二)三月一四日の北条家印判状(鈴木文書)によると、「今井之村」の百姓等を還住させ耕作にあたらせることが、小幡憲重に命じられている。


今井村
いまいむら

[現在地名]橿原市今井町一―四丁目

八木村西南に位置。村内の蘇武そぶ(井戸)は四〇〇戸の水を賄ったといわれ、「日本書紀」天武天皇元年七月条の「金綱井」を当村にあてる説もあるが、小綱しようこ村とする説が多い。当村は街道筋から若干離れた集落であるが、天文一〇年(一五四一)石山本願いしやまほんがん寺の家衆今井兵部豊寿が農民門徒を背景として本願寺の道場(称念寺の前身)を建て、境内に町割を敷き、武装宗教都市今井寺内いまいじない町を建設したのに始まる。「大和軍記」に

<資料は省略されています>

とある。戦国末から織豊期にかけては米穀・繰綿・綿布・味噌・醤油・油などの取引が活発で、「かわし」の組織もあり、大和一円と取引があった(多聞院日記など)


今井村
いまいむら

[現在地名]丹原町今井

周桑平野の西部に位置する。東は丹原町たんばらまちに、南は北田野きたたの村・高松たかまつ村に、西は高松村・久妙寺くみようじ村・池田いけだ村に、北は池田村・丹原町に接する。松山道が村内を通る平坦な水田地帯の農村。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)周布しゆうふ郡の項に、高三三九石八斗五升二合、うち田方三一二石七斗四升六合、畠方二七石一斗六合とあり、「今井村」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも同石高で、松平隠岐守知行とある。天保郷帳では高四二三石七斗八升八合と八三石余も増となっている。正保元年(一六四四)村の一部の原野を丹原町たんばらまちの一部とした。

古代から周敷すふ一円の神として鎮座していたとされる福岡ふくおか八幡神社があり、源頼朝も神領を認めたとも伝えられる。


今井村
いまいむら

[現在地名]行橋市今井・北泉きたいずみ三丁目・文久ぶんきゆう

金屋かなや村の東に位置し、はらい川西岸の沖積平野に立地する。祓川対岸は真薦まこも村。北は周防灘に面し、近くにみの島が浮ぶ。今居とも記される(元和八年人畜改帳など)。中世以来港湾都市今井津を構成する中核地で、当村の中心地域を構成する今井市場いまいいちば町・今井西いまいにし町・今井東町には半町から一町規模の街区が並び、街道沿いの両側町を思わせる美しい景観を呈している。この家並と街路は七小路八御池ななしようじやおいけと称され、浜小路はましようじ観通寺小路かんつうじしようじ権現小路ごんげんしようじなどの通称が現在も用いられている。元和八年人畜改帳では御蔵納分の高九七五石余、家数二四五・人数六〇一(うち庄屋・肝入四、百姓四〇、町人・商人一五、仏師・念仏・鍛冶・座頭四、名子七五)、牛一二・馬二三。


今井村
いまいむら

[現在地名]栄町今井、三条市大野畑おおのはた

信濃川がなかくち川と分流する右岸に位置し、南は今井野いまいの新田、西はいずみ新田・尾崎おさき新田。古い信濃川河道の自然堤防地上に開けた村で、大永四年(一五二四)三月七日尾崎守家証状(本成寺文書)本成ほんじよう(現三条市)領分の「今井新田江代」を二〇〇疋と定めたとあるが、当時のものとは認めがたい。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には、本成寺知行として、新堀にいぼり吉野屋よしのやとともに「今井川前野」がみえる。

近世を通じて新発田藩領で、慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)には「今井村」とあり、道金どうきん村・尾崎村・鬼木おにぎ村など一二村で一千五一石二斗余とある。


今井村
いまいむら

[現在地名]鏡村今井

小浜こはま村の北、あな川に沿った南北に細長い村。「今居村」とも書く(元禄郷帳)。「土佐州郡志」に地頭分じとうぶん郷の一とあり「東限大利、西限白岩狩山村、南限小浜村、北限土佐山(中)切村、東西三十町余南北一里半」と記され、小村として長崎ながさき長野ながの穴川あながわ貞永さだなががみえる。

天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳に今井左近給の穴川村・永野ながの村・しも村・永崎ながさき村・定永さだなが村がみえ、これらが近世に今井村となったと考えられる。五村の総地積は九町八反余で、うち田六町六反余・畠一町二反余・屋敷一町九反余。


今井村
いまいむら

[現在地名]宇佐市城井じようい

葛原くずわら村の北にあり、東は畑田はたけだ村、西はじよう村など。天文二三年(一五五四)三月三日の吉村哉勝契約状(吉村茂助文書)によると、吉村哉勝は大内義長から辛島からしま郷・高家たけい郷内の下作職を安堵されているが、この地のうちに「シモツマキ一所五段」「タカイワキ一所弐段」「宮法師一所弐段」などがあり、それぞれ地内の字下妻木しもつまき高井脇たかいわき宮帽子みやぼうしと考えられる。なお「宇佐郡地頭伝記」によると、応永年中(一三九四―一四二八)吉村伊惣左衛門尉弘義なる者が当地に塁を築いて住し、今井を名乗ることもあったという。

天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇)中津藩主細川氏が主城を豊前小倉に移したため小倉藩領となる。


今井村
いまいむら

[現在地名]嬬恋村今井

本白根もとしらね(二一六四・八メートル)南麓緩斜面の吾妻川左岸に位置する。東はあか川を挟んで羽根尾はねお(現長野原町)。集落は同川沿いに半出来はんでき、高台に今井・滝の上たきのうえ、北に石津いしづがある。貞治元年(一三六二)一〇月一八日のしゝ大夫旦那職譲状(下屋文書)に「いまいのきやうはんた・きやう三郎・たんとう四郎」、嘉慶二年(一三八八)二月一四日のともやす旦那売券(同文書)にも「いまいのきやうこさふ郎」がみえる。「加沢記」の鎌原・羽尾合戦のなかに石津の地名がみえ、また永禄七年(一五六四)二月一七日武田信玄から鎌原氏に宛てた書状写(同書所収)によると赤川以南に二〇〇貫文の地を宛行っている。


今井村
いまいむら

[現在地名]熊谷市今井

埼玉郡おし領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地上に位置し、北は幡羅はら下奈良しもなら村・四方寺しほうじ村、西は小曾根おぞね村。村の北方にある利根川の水除堤は、享保一四年(一七二九)に築かれた四方寺堤の南端にあたる。正和四年(一三一五)五月二三日の上野世良田長楽せらだちようらく寺住持崇喜の文書注進状(長楽寺文書)にみえる「今居郷弐段田状一通中条伊賀禅門」は当地にかかわるものであろうか。元亀四年(一五七三)八月三日、稲村内蔵助は「今井之内」の七貫文の百姓職と居屋敷一間を安堵された(「成田泰親印判状写」稲村文書)


今井村
いまいむら

[現在地名]中央区今井一―三丁目・今井町・南町みなみちよう一―三丁目・宮崎みやざき二丁目・白旗しらはた一―三丁目・鵜の森町うのもりちよう若草わかくさ一丁目

宮崎村の西にあり、西方は江戸湾に臨む。集落は房総往還沿いに営まれるが、往古は堂屋敷どうやしきに住しており、文禄期(一五九二―九六)に海辺近くに移った際は家数八、寛文一〇年(一六七〇)検地を受けた頃は家数二六であったという(「今泉地録集」水野家文書)。寛永一七年(一六四〇)から下野国皆川藩領になったとみられ、寛文四年の松平重利領知目録(寛文朱印留)に村名がある。


今井村
いまいむら

東は虎御門の南、南は西久保にしくぼ飯倉いいぐら竜土りゆうど、西は青山、北は一ッ木ひとつぎ(赤坂溜池)に囲まれた地域にあった村。北条氏所領役帳に江戸衆太田新六郎(康資)知行のうち九貫八〇〇文として江戸「今井伊佐分」、松山衆渡辺丹後知行として二七貫五〇〇文「江戸今井」とある。天正一九年(一五九一)・寛永五年(一六二八)あるいは慶長年中(一五九六―一六一五)には一部が浅草東光とうこう院薬師堂領の替地になり、寛永一八年一反余を真田伊豆守信之の添屋敷に給与し、五町二反余になった。同二一年には総反別一七町八反余とする記録もあったという。正保二年(一六四五)二二歩を番所屋敷二ヵ所、同三年二畝余を新番所屋敷三所の敷地とした(風土記稿)


今井村
いまいむら

[現在地名]赤堀町今井

西野にしの村の南、かす川と鏑木かぶらき川に挟まれた台地と西方の粕川右岸と多田山ただやま丘陵(標高一五九メートル)の間を占める。西は勢多せた東大室ひがしおおむろ(現前橋市)、東は鏑木川を境として西久保にしくぼ村。中世は淵名ふちな庄に含まれ、文和四年(一三五五)九月五日赤堀時秀に「佐位庄之内今井郷」が安堵された(「足利尊氏御教書」赤堀文書)。元和八年(一六二二)の検地帳(今井区有文書)によると、反別田方七町二反余、畑方上畑五反・中畑七反余・下畑五町三反余・下々畑五町二反余。


今井村
いまいむら

[現在地名]青梅市今井

木ノ下きのした村の東に位置し、かすみ川が流れる。南西の藤橋ふじはし村境を秩父道(鎌倉街道)が通り、これに町屋まちや街道・河岸かし街道が交差する。また南部を青梅街道より分岐した所沢への道が通り、これに上州道が交わる。七日市場なのかいちば正福しようふく寺に弘安五年(一二八二)銘の板碑(青梅市域最古)や、馬場先ばばさきの八幡社跡の同七年の銘など中世の板碑一五五基がある。正福寺の応永一〇年(一四〇三)代の宝篋印塔以下十数基は今井氏の墓と伝え、鎌倉期造像とされる脇侍仏の足裏に応永二年「今井四郎為菩提」の銘があったという。


今井村
いまいむら

[現在地名]松本市今井

鉢盛はちもり(二四四六メートル)を水源地とするくさり川の中流の右岸を中心に立地し、近世から明治初年にかけて赤松の平地林が多かった。

長享二年(一四八八)諏訪社下社の春秋之宮造宮之次第に「今井」の名がみえる。天正検地の際は、今井郷四八八石二升と高付けされているが、元和三年(一六一七)に伊那高遠たかとお藩の所領にはいった時は、八二九石一斗三升四合五勺二才と増加し、同藩元禄三年(一六九〇)の検地では一千二三五石二斗五升二合となった。


今井村
いまいむら

[現在地名]大野市今井

真名まな川扇状地の扇頂部近くに位置し、北は五条方ごじようほう村、西は平沢地頭ひらざわじとう村・平沢領家ひらざわりようけ村。永正元年(一五〇四)一二月二五日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)に「蓮乗名小山庄内今井」「今井五条方同今井」などとみえる。洞雲寺寄進分田地目録(洞雲寺文書)の同一二年六月七日の分に「一、壱石之所 在坪、野中之東、今井村倉屋作職也」、弘治元年(一五五五)一二月二六日の洞雲寺領寄進分田地目録(同文書)には「壱石之所 有坪、野中今井村、桑原左衛門三郎寄進」とみえる。


今井村
いまいむら

[現在地名]小田原市寿ことぶき町一丁目・同四―五丁目・ひがし町五丁目・おうぎ町二丁目・同四丁目

東南を酒匂さかわ川が流れ、西は井細田いさいだ村、南は町田まちだ村と接する。「風土記稿」は、中島なかじま村の福厳寺記により古名を「飯島」と伝えるという。大永三年(一五二三)四月の願成寺再興勧進状写(県史三)に「今井・一色・小田原風景在目下矣」とあり、天文一一年(一五四二)四月の北条氏康判物写(同書)によれば、鴨宮かものみや村との間の酒匂川河原にできた新田一〇貫文分を松原まつばら大明神へ修理料として寄進している。


今井村
いまいむら

[現在地名]美原町今井

丹南郡に属し、八上やかみ小寺こでら村の東にある。村内を西除にしよけ川が北流。至徳三年(一三八六)一月二九日の輪憧売券(国会図書館編「貴重書解題」四)に「いまひのきたのあんのたのそゑしやう」とみえる。「河内志」に「今井今井村清潔徹底」とある井戸より村名が生じたという。小字名につぼ長安寺ちようあんじが残る。文禄三年(一五九四)一二月二日の北条氏規宛の豊臣秀吉知行目録(北条家文書)によると、今井村三一六石が氏規領。


今井村
いまいむら

[現在地名]石和町今井

東高橋ひがしたかはし村の南に位置し、笛吹川と鵜飼うかい川の氾濫原に立地する。北部をほぼ東西に若彦わかひこ路が通る。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「今井河内」とみえる。「甲斐国志」に「天正廿年加藤ノ一紙黒印ニ今井河内妙玄寺トアレバ古ヘ一郷タル事知ヌベシ、今井ノ言ハ今居ト云事ニテ新居ノ義ニ同ジ」と記される。慶長古高帳に今井とみえ、高四〇二石余。


今井村
いまいむら

[現在地名]安心院町今井

だい村の南東、深見ふかみ川中流域右岸の山間部にある。南は下内河野しもうちがわの村。地内の小字いちつぼつぼさんつぼつぼつぼろくつぼしちつぼはちつぼは「安心院町誌」によると条里の遺称という。また大崩おおつえ崩口つえぐちという地があり、よく山崩れを起こす所だという。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。


今井村
いまいむら

[現在地名]中原区今井いまいかみ町・なか町・西にし町・みなみ町〉

東は小杉こすぎ村、西は下小田中しもこだなか村、北は上小田中かみこだなか村、南は木月きづき村に接する。東境を流れるりよう用水から分流する今井用水を利用。「風土記稿」は多摩川の氾濫でしばしば水損があると記す。小田原衆所領役帳には蒲田助五郎「三貫文 稲毛庄木月郷今井屋けへ方」とみえる。

天正一九年(一五九一)幕府直轄領と旗本勝部領の二給、寛永二年(一六二五)頃旗本勝部・筒井領と幕府直轄領の三給、宝永二年(一七〇五)幕府直轄領が江戸芝増上寺領となる。延享四年(一七四七)の稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人足一件(横浜市添田文書)によれば田二一町八反余、畑二二町七反余。


今井村
いまいむら

[現在地名]新湊市今井

大坪おおつぼ川に沿い、西は高木たかぎ村、北は殿村津幡江とのむらつばたえ村。もとは沖今井おきいまいとよばれていたという。正保郷帳では高一千二六一石余、田方七八町余・畑方六町余。寛文五年(一六六五)の検地引高二〇二石(三箇国高物成帳)。同一〇年の村御印の草高一千七二石、免四ツ、小物成は川役六匁(同物成帳)。所属組は六渡寺ろくどうじ村と同じ。承応四年(一六五五)下条げじよう川の掘替えに関連して掘削された曲柳まがりやなぎ用水・きゆうヶ用水から灌漑した(「郡事摘要」折橋家文書)。家並は大坪川に沿った河畔にあった。万治元年(一六五八)頃の小杉新こすぎしん(現小杉町)の開町により同町と放生津ほうじようづ町を結ぶ通称作道つくりみち往来(小杉街道)が通った。


今井村
いまいむら

[現在地名]坂井町今井

坂井平野中央部北西寄りに位置し、兵庫ひようご川右岸、川の湾曲部に包まれるようにして立地する。兵庫川を挟んで南は木部高柳きべたかやなぎ村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図ではしん郷に属しており、古くは奈良興福寺領河口かわぐち庄の一部に属したと思われる。

村名は正保郷帳にみえ、田方三九五石余・畠方一八九石余。正保二年(一六四五)から享保六年(一七二一)まで松岡藩領であったが、それ以外は福井藩領。字難波なんばは現在は三国みくにとうにあるが、江戸時代には当村の飛地であった。太閤検地の石盛が厳しく、嘆願の結果、村高の一割を飛地として与えられたという伝えがある。


今井村
いまいむら

[現在地名]岡谷市今井・神明しんめい町・郷田ごうだ塩嶺えんれい

北部にはひがし山山地、西部には塩嶺山地を負い、東部は横河よつかわ川に限られ、南部は小井川おいかわ村・小口おぐち村・岡谷村に接する。村の中央を中山道が貫通し、塩尻しおじり峠に通ずる。

村名の初見は、天正一九年(一五九一)の日根野高吉宛行状(岡谷市史)に「五拾石 森新八分 今井村」とある。慶長三年(一五九八)の「今井之郷 初町之写」という検地野帳(諏訪史料叢書)があり、今井村ではこの年新しく検地が行われている。同一九年中山道が塩尻峠越えに変わってから以後は、下諏訪宿と塩尻宿との間の間宿あいのじゆくの役割をもつようになった。


今井村
いまいむら

[現在地名]佐久市今井

南は千曲川の断崖、背面は中込原なかごみはらに続く広い耕地で、東北は三河田みかわだ横和よこわ、西は岩尾いわおの村々に接する。

永禄八年(一五六五)一一月武田信玄の「諏方上社祭祀再興次第」(諏訪大社上社文書)に「佐久郡之内為拾一郷之役(中略)八百文今井之郷」とあるのが初見。「和名抄」記載の大井おおい郷に属する。

初め小諸こもろ領で、享保一一年(一七二六)以来旗本水野氏(根々井陣屋)の知行所となる。元和八年(一六二二)六一石四斗の村高(「佐久郡高書上帳」柳沢文書)が、元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳では二五二石余と耕地の急増を示している。これは元和年中市川五郎兵衛によって開削された三河田堰によるところが大きい。


今井村
いまいむら

[現在地名]前橋市今井町

村域中央を荒砥あらと川が南流する。東は二之宮にのみや村、南は上増田かみますだ村、西は笂井うつぼい村、北は富田とみだ村・荒口あらくち村。東部は台地で、西部に水田が発達する。山内上杉氏の所領を書上げた年月日未詳上杉氏上州所領目録(彦部文書)に「大胡庄之内」として「今居村」がある。寛文郷帳に田方一七〇石五斗余・畑方四九石一斗余とある。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば、田方一七町一反余・畑方三二町五反余、家数六七、男一三二・女一一八、うち下男七・下女四、馬二一。明治一〇年(一八七七)頃の更正田反別二四町四反余・更正畑反別二七町二反余・更正宅地反別六町七反余・更正林反別四六町一反余、家数六三、男一三五・女一三四、物産は米四〇〇石、麦六五石、薪二千五〇〇貫、蚕糸三〇貫、繭一一〇貫がある。


今井村
いまいむら

[現在地名]境町西今井にしいまい

矢島やじま村の東に位置。新田につた郡に属し、平坦地。北をはや川が流れる。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「かみいまい、しもいまい」とみえ、「かみいまい」が当村に比定されている(新田郡尾島町の→今井郷。集落は西今井館跡上に立地。寛文郷帳では田方一〇二石余・畑方四三石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では旗本小笠原領、家数一二。元文三年(一七三八)の様子書上帳(茂木文書)によると田方一三町三反余・畑方一四町七反余。このうち上・中田合せて一〇町三反余。田植については「天水場故半夏より土用前まで不時ニ植付申候」とあって、この頃水利には不便であったことがわかる。


今井村
いまいむら

[現在地名]長野市川中島町今井

北は今里いまざと村、西は岡田おかだ村、東は戸部とべ村、南ははら村に接する北国脇往還に沿った村。原村を南原みなみはら村、今井村を北原きたはら村ともいった。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)には「千百拾弐石七斗壱升弐合 今井村」とある。

元暦元年(一一八四)正月二〇日近江の粟津で義仲とともに戦死した今井兼平は義仲から「更級郡富部郷今井」を拝領していた。村域にある兼平の菩提寺切勝さいしよう寺には守本尊と伝えられる聖観音がある。

元和二年(一六一六)岩城貞隆領、同八年仙石氏上田領、宝永三年(一七〇六)松平氏上田領、享保二年(一七一七)幕府領、同一五年塩崎旗本知行所支配となり明治に及んだ。


今井村
いまいむら

[現在地名]曾爾村大字今井

曾爾川北岸、かずら村上流に位置。慶長郷帳の村高二一三・五二石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領、元禄八年(一六九五)幕府領となる。元禄検地で村高は二五八・三八一石となる。元禄一六年の大和国宇陀郡今井村御検地水帳では高請地合計四三町七反六畝九歩で、ほかに山七五九町四反一畝三歩(二四ヵ所)となっており、春日明神社・愛宕あたご社・大念仏宗女来寺の社寺地は除地であった。享保六年(一七二一)は大洪水で、井上次兵衛覚帳(曾爾村史)

<資料は省略されています>

とあり、享保七年一二月の出火でも本屋七軒が罹災した。


今井村
いまいむら

[現在地名]犬山市今井

北と東は美濃国可児かに郡、南は奥入鹿おくいるか新田村、西は塔之地とうのじ村に接する。天保村絵図によると今井川が北から南へ流れ、東の一三の池と西の二つの池がこの川に流れ込み、池川の両側の田畑を灌漑しながら入鹿池に注いでいる。成瀬隼人正采地村。高五〇二石余。田三八町六反五畝余・畑四町二反四畝余、ほかに成瀬隼人正開発の田畑四町四反余と松山八五二町。寛文一一年(一六七一)の戸数三一、人数三六三(寛文覚書)。「徇行記」に「高ニ準シテハ戸口多クシテ佃力足レリ、小百姓ハカリ也」とある。

みやぼらには今井焼窯跡があり、雑木林の中に数ヵ所現存する。


今井村
いまいむら

[現在地名]羽須美村今井

東流する宇都井谷うづいだに川とその支流金井谷かないだに川に挟まれた山塊の尾根に今井城跡があり、その東西に延びる尾根を境としてその北麓の金井谷川下流部にあたる小村。周囲を宇都井村に囲まれる。今井城跡は標高二五〇メートル、比高一〇〇メートルの尾根に築かれ、三方は急峻で、西側の自然鞍部を深く堀切で画している。中央山頂部に土壇の櫓台を設け、北に延びる小尾根には七段の削平地、東には大きな空堀と一〇段の小削平地および二つの竪堀、西の背後は七段の削平地に続いて二つの空堀と鞍部を大きく堀切で画し、小規模ながら堅固な構えで、遺構がよく残る。


今井村
いまいむら

[現在地名]五條市今井町・今井一―五丁目

吉野川北岸、五条村東方に位置する。正平一三年(一三五八)、元中二年(一三八五)の栄山寺文書に「今井庄」とある。当村北方に宝見塔ほうけんとうという垣内があり、鎌倉期の五輪塔が遺存する。また「大和志」に「今井村城 三箇氏拠焉」とある今井塁跡はおか村との間にあり、じよううち堀尻ほりじりなどの地名を残す。

慶長郷帳では「今井大崎あんしようし之内」とみえ、村高は八〇〇・七石。五条二見藩(松倉重政)領。元和二年(一六一六)松倉氏の転封で幕府領(代官宗岡弥右衛門)に編入され、同五年郡山藩(松平忠明)領となる。


今井村
いまいむら

[現在地名]赤坂町今井

西軽部にしかるべ村から北東へ一二町、佐伯さえき(現和気郡佐伯町)に通じる往来に沿う。家並はすな川の支流今井川の流域に点在する。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)の軽部庄に村名が載る。寛永備前国絵図では高三四一石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、三八二石余。貞享元年の荒などを引いた残高は三七八石余。「備前記」は枝村屋熊やくまを載せる。


今井村
いまいむら

[現在地名]市川町神崎かんざき

田中たなか村の北東、市川の右岸に位置する。神西じんさい郡に属し、西は同郡福渡ふくわたり新田村、東は市川を隔てて神東じんとう屋形やかた村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は屋形村と同じ。正保郷帳では田方二三七石余・畑方二九石余、「草山有」と注記される。天保郷帳では高三〇八石余。


今井村
いまいむら

中世の小山田おやまだ山崎やまさき郷内にあった村。応永二九年(一四二二)九月二三日の足利持氏寄進状写(相州文書)に「小山田保山崎郷内今井村今井四郎跡事」とあり、持氏の母大御所(一色氏)の寄進の旨に任せて相模国大住おおすみ郡鎮座の大山おおやま寺本宮(現神奈川県伊勢原市大山阿夫利神社)に寄付されている。山崎郷四ヵ村は貞治三年(一三六四)一〇月二八日以前に鎌倉円覚寺塔頭黄梅おうばい院領となっていたが(永和四年八月「黄梅院文書目録」黄梅院文書)、同院領と切離して本宮に寄進されている。


今井村
いまいむら

[現在地名]沼田市今井町

上川田かみかわだ村の南西にあり、南東は下川田村、西は群馬郡中山なかやま(現吾妻郡高山村)。中山村とは今井峠(権現峠)で結ばれている。寛文郷帳では高三七石余、うち田方一〇石余・畑方二七石余。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高一六九石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高七一石余、反別は田方二町九反余・畑方一二町六反余。文政一〇年(一八二七)頃の氏姓一覧(武井文書)によれば家数一四で幕府領。


今井村
いまいむら

[現在地名]大宇陀町大字口今井くちいまい

宇陀川西方、野寄のより村西北部に位置する。「多聞院日記」天正九年(一五八一)一二月二〇日条に「宇多今井庄安居米代銭七貫文持上了、様子不聞、神人ニ可尋之」と記す。また翌年二月一三日条に「宇多ノ沢領ノ内今井(庄)御神供米十石請乞、七石上歟」とみえる。これによると、今井庄は春日社神供料所と考えられ、沢氏の支配勢力内にあったことがうかがえる。


今井村
いまいむら

[現在地名]潟東村今井

茨島いばらじま村の南西にある。寛永一三年(一六三六)の新潟与亥御成ケ本帳(菊屋文書)に前年に一六石一斗余の年貢米を上納とみえ、同一八年の新潟与巳割付本帳(同文書)には高三一石八斗余、うち一斗は野手高新田成で引かれ、残り三一石七斗余のうち本途一三石三斗余・免七ツ二分・取米一六石八斗余、新田七石余・免四ツ・取米二石八斗余、野手一石三斗・免五ツ・取米六斗余、ほかに新田見取七斗余を合せ取米合計二一石余とある。


今井村
いまいむら

[現在地名]野迫川村大字今井

てんノ川の支流中原なかはら川北岸に立地。高野山と大峯山を結ぶ古道に沿う村。十二村じゆうにそん一郷いちごう組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領。延宝検地により村高は二二・七八石となった。


今井村
いまいむら

[現在地名]八尾市南本みなみほん町三―五丁目など

八尾八ヵ村の一で成法寺じようほうじ村の南に続く。若江郡に属し、村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で三九一石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では三五一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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