特定の領主あるいは年貢負担者の定まらない土地。律令国家においては,山野河海は公私共利の地であり,無主地であった。ところが,11世紀中葉以降荘園制的な領域支配が展開し,鳥羽院政期になると,山野河海も荘園の構成要素として把握されるに至った。そのため,無主の荒野(こうや)などが立券され,荘園にくみ入れられることも多くみられた。そして,国衙や荘園領主は,支配領域内の山手(やまて)・河手(かわて)を徴収するようになった。ついで,鎌倉期には,同じ荘園内でも,領家進止(支配)の山野と地頭進止の山野の別が生まれた。ゆえに,開発の手が加えられていない山や荒野であっても,一義的には無主地とはいえなくなった。しかし,それらは年貢負担者も定まらず,依然として無益・無利の地であり,伐木・採草・放牧などの用益も領域内の住民の自由にほぼ任せられていた。これを狭義の無主地と規定することができる。なお,開発ののち長期間放置されていた常荒(じようこう),永不などと称される田畠も,無主地にもどった。
ところで,無主の山,特に黒山(くろやま)や荒野は,有益・有利の地としての開発が求められ,開発者に私領主権が認められた。また,院政期には,無縁の聖(ひじり)等により,各地に数多くの別所が生まれた。これも,領主の許可をえて,無主の山や荒野を囲いこんで設けられたものである。寺堂のまわりに開かれた田畠や在家は,その経営基盤として年貢・公事(くじ)が免除された。市が無主の荒野や峠などに立てられることもよくみられた。市立(いちだて)の場合,商人・百姓等が,自然に荒野などに集まることもあったと推測される。だが,地頭や預所等が荒野に市を立てると,新田の開発と同じく,市に彼らの支配が及ぶことになった。木地屋(きじや)なども,明治期に入り定着生活を始めたが,それまでは無主の山深い山林を渡り歩き,多くの木製品を作り出していった。
つぎに河海であるが,鎌倉期に入ると,領主の支配が強く及ぶようになった。そして,鎌倉幕府は,1223年(貞応2)山野河海の所出得分を領家・地頭の折半と定めた。また,海の場合,鎌倉中期より地先漁場の優先使用権が生まれていった。このように,山野河海における律令国家以来の公私共利の原則がしだいにせばめられていった。ただ,河原や中州は,洪水により流される危険性が大きかったためか,ずっと無主地であり,非課税地であった。そこで,流民や都市の窮民などが,そこに住みつき,家を建て,畠を開いた。時には市が立てられた。河原や中州は比較的交通の便がよいため,山城国淀の魚市,安芸国沼田(ぬた)荘の沼田市,備中国新見荘の新見市などのように,そこには市を核とした中世の都市が生まれたのである。住民は近隣の村々とは必ずしも結びつかず,いろいろな方面より集まった。このほかに,道路,橋,巷所(こうしよ)なども無主地であった。なお,中世後期になると,百姓等の土地保有権が強化されたが,その逃死亡跡の屋敷・耕地も無主地と称されるようになった。
執筆者:松井 輝昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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