真田氏(読み)さなだうじ

百科事典マイペディア 「真田氏」の意味・わかりやすい解説

真田氏【さなだうじ】

信濃国小県(ちいさがた)郡を根拠地とした豪族。江戸時代は信濃国松代(まつしろ)藩主清和源氏を祖とするという。小県郡真田(現長野県上田市)を名字の地とする。戦国期,幸隆(ゆきたか)は武田氏に属し,1575年の長篠(ながしの)の戦で討死家督(かとく)を継いだ三男昌幸(まさゆき)は次男幸村(ゆきむら)とともに1600年の関ヶ原の戦では西軍に属し,信濃国上田城(現長野県上田市)で徳川秀忠の西上を妨害,のち高野山(こうやさん)に追われた。これに対し,長男信之(のぶゆき)は東軍に属し,戦後に徳川家康から上田城主に任ぜられ,1622年松代藩10万石に転封(てんぽう)。以後,代々松代藩主を世襲して明治維新に至る。→真田幸村真田十勇士
→関連項目沼田藩松代藩

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「真田氏」の意味・わかりやすい解説

真田氏
さなだうじ

戦国以来信濃国(しなののくに)(長野県)に根拠を有した武士の一族。発祥地は信濃国小県(ちいさがた)郡真田(上田市)で、海野(うんの)氏より出たとされる。天文(てんぶん)年間(1532~55)、幸隆(ゆきたか)が甲斐(かい)武田氏に属し、信玄(しんげん)の信濃侵攻に参加したことにより勢力を伸ばし、武田氏の末期から上野(こうずけ)北部に侵攻し、その滅亡とともに、小県郡および上野国吾妻(あがつま)地方を領有する小戦国大名として自立した。さらに、長篠(ながしの)の戦いで戦死した兄信綱(のぶつな)の後を受け、家督を継いだ幸隆の三男昌幸(まさゆき)は、1583年(天正11)本拠地を上田に移し、小県郡支配をより明確なものとした。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いにおいて、昌幸と二男信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))は西軍、嫡男信幸(信之)(のぶゆき)は東軍に分かれて戦い、西軍敗北により昌幸、信繁は高野山(こうやさん)に幽閉された。こののち昌幸は高野山で没し、信繁は1614年高野山を脱出し、大坂冬の陣・夏の陣に大坂方として参戦し、戦死した。一方信幸は、関ヶ原の戦いののち昌幸の旧領を安堵(あんど)され、上田城を居城とした。1622年(元和8)上田から松代(まつしろ)(長野市)へ転封となり10万石を領した。松代移封当初は財政も豊かであったが、しだいに窮乏した。6代幸弘(ゆきひろ)が恩田木工(おんだもく)を登用して、倹約を中心とした財政の立て直しを図ったことは『日暮硯(ひぐらしすずり)』で有名である。また真田家は、7代幸専(ゆきたか)を井伊(いい)家から、8代幸貫(ゆきつら)を越前(えちぜん)松平(まつだいら)家から、10代幸民(ゆきたみ)を伊達(だて)家から迎えて家を存続させ、幸民のとき明治維新を迎え華族となった。

[郷道哲章]


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改訂新版 世界大百科事典 「真田氏」の意味・わかりやすい解説

真田氏 (さなだうじ)

信濃国小県(ちいさがた)郡を根拠にした豪族。清和源氏海野(うんの)氏流といわれる。1400年(応永7)の大塔合戦で戦った者の中に実田(さなだ)氏が見られる。戦国時代,真田幸隆は甲斐の武田信玄に属し,武田氏の信濃攻略に大きな役割を果たした。幸隆のあとは信綱が継ぎ,信玄,勝頼に仕えたが,1575年(天正3)の長篠の戦で弟昌輝とともに討死した。家督を継いだ三男昌幸は,武田氏滅亡後も後北条,徳川,上杉らの勢力の間をぬって小県,上野国沼田の領地を確保した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦では次男幸村とともに西軍に属し,上田城に拠って徳川秀忠の西上を阻止したため高野山に追われた。これに対し東軍に属した長男信之は戦後徳川家康から上田城主に任ぜられ,9万5000石を領した。22年(元和8)信州松代に転封して10万石(沼田と合わせ13万石)となった。のち沼田を嫡子信吉に分封し,松代は次男信政に譲った。沼田藩の真田氏は4代で滅んだが,松代藩の真田氏は幕末まで続いた。維新後子爵のち伯爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「真田氏」の意味・わかりやすい解説

真田氏
さなだうじ

清和源氏海野氏の後裔幸隆が安土桃山時代,信濃国小県郡真田荘松尾城に住して真田氏を称したことに始る。幸隆のあとは長男,次男ともに長篠の戦いで討死にしたため,3男昌幸が家督を継ぎ,信州上田を領有した。天正8 (1580) 年には上州沼田城を攻略して属領とした。関ヶ原の戦いでは次男幸村とともに西軍に属して敗れ,紀州九度山に幽居した。のち幸村が大坂の陣で戦死し,東軍に属した長子信之が上田城,沼田城を与えられ,のち信州松代 10万石に転封。長子信吉を沼田3万石に分封,松代藩は次子信政が継いだ。沼田藩は天和1 (1681) 年除封。松代藩は9代続いて明治にいたり伯爵。

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世界大百科事典(旧版)内の真田氏の言及

【信濃国】より

…1542年(天文11)父信虎を追った武田晴信(信玄)は,諏訪惣領家を滅亡させ,その後小笠原・村上氏を撃破して53年には北信を除く信濃をほぼ掌中にした。なお小県郡の一土豪であった真田氏は,武田氏被官となり武田氏の領土拡大に伴い,小戦国大名として成長した。 武田氏の信濃制圧は越後の上杉氏にとっても脅威となり,53年以降上杉謙信の信濃国出陣が開始され,武田信玄との数度にわたる川中島の戦がおこった。…

【沼田藩】より

…初期は外様で,戦国末期,沼田周辺に進出していた真田昌幸が1590年(天正18)吾妻,利根郡下2万7000石を安堵され,嫡子信之を置いて立藩した。関ヶ原の戦のとき信之は東軍に属したため戦後,父の遺領信州上田領6万石を加増され,のち松代に移るが,沼田には真田氏5代約100年の治政が続いた。この間,北関東の要地を押さえて領国経営を進めたが,5代信利は江戸の両国橋御用材納入の遅延を理由に1681年(天和1)改易となった。…

※「真田氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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