茨城県西部の市。2005年3月下館(しもだて)市と明野(あけの),協和(きようわ),関城(せきじよう)の3町が合体して成立した。人口10万8527(2010)。
筑西市南東部の旧町。旧真壁郡所属。人口1万7796(2000)。筑波山の西にあり,町域の東を桜川,西境を小貝川が流れ,中央部は台地となる。中心市街は下妻街道と筑波街道が交差する海老ヶ島で,役場や商店が集中する。平安末期に安楽寿院領村田荘が置かれた地で,戦国時代には当地で覇を競った小田氏,結城氏の合戦場となった。産業の中心は農業で,かつては米麦が主であったが,第2次世界大戦後は葉タバコが麦にかわり,野菜生産や畜産も行われる。小田氏ゆかりの新善光寺や海老ヶ島城跡がある。
筑西市北東部の旧町。旧真壁郡所属。人口1万7145(2000)。町域の大半は台地で,西縁を流れる小貝川を境に旧下館市に接する。古代に新治郡(のち真壁郡)の郡衙(ぐんが)が置かれた地で,中世には伊勢神宮領小栗御厨(みくりや)の中心地となった。ビニルハウスによる野菜生産が盛んで,キャベツ,スイカなどを産し,特に小玉スイカは全国的な産地である。JR水戸線,国道50号線が通り,旧下館市などへの通勤者が多い。新治郡衙跡や郡寺とされる新治廃寺跡は国の史跡に指定されている。
執筆者:千葉 立也
筑西市北西部の旧市。1954年市制。人口6万5034(2000)。北と西は栃木県に接する。常陸台地の北部を占め,小貝川,五行(ごぎよう)(勤行(ごんぎよう))川,鬼怒川が開析する沖積地が南北方向に帯状につらなる。平安時代初期,平将門の乱に際し,藤原秀郷(ひでさと)が築いた上館,中館,下館が地名の由来と伝えられる。伊佐荘中村(現,中館)は奥州伊達氏の故地といわれ,南北朝期には伊佐城が南朝の拠点となった。戦国期から江戸初期は水谷(みずのや)氏,江戸中期以降は石川氏が支配,城下町として発展した。県西の農業地域を占め,稲作を主体に野菜,果樹の生産が盛んで,梨が特産となっている。伝統工業に足袋底,菓子製造があるが,工業生産の主体は市域西部の工業団地に進出したコンクリート製品,塩化ビニルなどの製造業である。1889年の水戸鉄道(現,JR水戸線)の開通以来,鉄道交通の要地となり,その後,国鉄真岡線(現,真岡鉄道線),関東鉄道常総線も通じて,近隣町村を商圏とする県西の商業中心に成長した。鬼怒川東岸に弥生時代中期の女方(おざかた)遺跡がある。
執筆者:中川 浩一
戦国期~江戸初期は水谷氏の城下町であったが,以後は1639年(寛永16)の徳川頼重就封を始めとして,天領,増山氏,黒田氏支配と変遷し,1732年(享保17)の石川氏移封以後,廃藩置県まで同氏の治下にあった。西に鬼怒川を控えており,利根川水系を経由して江戸から奥州に至る中継点として,17世紀中葉ごろから畿内産の繰綿を始めとする諸商品の流通をみた。下野国真岡から下館周辺にかけて,17世紀後半ごろからさらし木綿が産出され,真岡さらしの名で広く知られたが,18世紀後半以降は下館周辺からの生産が多くなり,城下町を貫通する勤行川でさらして仕上げた木綿が江戸に出荷された。18世紀中葉には与謝蕪村が下館,結城に滞在し,句集や絵画を残している。天保期(1830-44)に至り,領内の荒廃が著しいため,藩当局および藩御用達を勤める有力町人の要望により二宮尊徳が招かれ,下館に滞在して改革仕法を施した。
執筆者:林 玲子
筑西市南西部の旧町。旧真壁郡所属。人口1万6145(2000)。東を小貝川,西を鬼怒川が流れ,常陸台地が中央部に広がる。町名は南北朝時代に北畠親房が拠った関城にちなむ。幕末に武蔵国川崎(現,神奈川県川崎市)から伝えられた梨栽培が発展し,全国的な産地となっている。スイカ,ハクサイなど野菜生産も盛ん。1972年には工業団地がつくられ,電子・精密機械,製薬などの工場が操業している。鬼怒川をはさんで結城市と接する関本地区を中心に,伝統工業として結城紬の生産が続けられている。県の蚕業試験場(現在は組織再編により廃止),農林水産省白河種畜牧場茨城支場(現,独立行政法人の家畜改良センター茨城牧場)がある。関東鉄道常総線が通じる。
執筆者:千葉 立也
旧関城町南東部の関館にあった城。平安末期以来この地域は関郡と呼ばれ,秀郷流藤原氏の一流関氏の支配下にあった。関城は関氏一族の本拠地と伝えられる。南北朝時代,南朝方の拠点となり,1341年(興国2・暦応4)11月城主関宗祐が北畠親房を小田城から迎え入れてからは,南朝方の政治・軍事上の中心となった。隣接の大宝城ともども,以後2年間にわたり激しい攻防戦が行われた。その間に親房は《関城書》の著述,《神皇正統記》の修訂をしたと伝えられる。43年11月落城,関宗祐・宗政親子は戦死,親房は脱出して吉野へ帰った。城地は大宝沼(現在は水田化している)に突出した舌状台地の上に営まれ,東西南は水で,北は土塁と空堀で敵の侵入を妨げていた。現在は土塁の一部が残り,城址(史)南西端に関親子と足利方の武将結城直朝の墓がある。また足利方が攻撃のためつくったと伝えられる坑道の一部が残る。
執筆者:堤 禎子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県西部に位置する市。2005年(平成17)、下館市(しもだてし)、真壁(まかべ)郡関城町(せきじょうまち)、明野町(あけのまち)、協和町(きょうわまち)が合併して成立。西を鬼怒(きぬ)川、南東境を桜(さくら)川、中央を小貝(こかい)川が流れ、市域は真壁(まかべ)台地と小貝川流域平野に展開。JR水戸線、関東鉄道常総線、真岡鉄道真岡線、国道50号、294号(408号と重複区間)が通じる。
古郡(ふるごおり)に古代常陸(ひたち)国の新治郡衙跡(にいはりぐんがあと)、その北の久地楽(くじら)に郡寺の新治廃寺跡(ともに国指定史跡)があり、この辺りが古代新治郡の中心地であった。桜川右岸台地上の石田(いした)(現、東石田)は常陸大掾平国香(くにか)の本拠地で、『将門記』によると、国香は935年(承平5)平将門(まさかど)軍に居館を焼き払われ敗死している。下館の地名は藤原秀郷(ひでさと)が将門討伐のため伊佐(いさ)荘(伊佐郡)に築いた上、中、下の3館のうちの下館によるという説もある。南北朝時代に東国における南朝方の一大拠点となった関舘(せきたて)の関城(跡地は国指定史跡)は、一時、北畠親房(きたばたけちかふさ)も入城していた。
15世紀に水谷氏が築城した下館城は、江戸初期に水谷勝隆によって城下が整備される。下館城下は江戸道、水戸・笠間道が通じ、両道によって日光街道と水戸街道に結ばれていた。このため商業も盛んで、木綿買継問屋・酒造業・肥料問屋などが隆盛。18世紀後半から真岡木綿(もおかもめん)の生産が盛んとなり、明治以後は栃木県東部にかけての地域をも商圏とする都市となった。海老ヶ島(えびがしま)も江戸時代には下妻街道、筑波街道が交差する宿場として賑わった。第二次世界大戦中に軍需工場が移ってから近代工業も興り、県下有数の工業都市に発展。現在は工業団地造成により電気機械、薬品、精密機械、化学などの企業が進出。農業は米のほか、トマト、小玉スイカ、イチゴ、ソバなどを栽培、畜産も行われている。面積205.30平方キロメートル、人口10万0753(2020)。
[編集部]
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