現在、粥といえば水分の多い飯の意の半流動食であるが、古くは現在の飯の意であった。1712年(正徳2)成立の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』には粥饘(じゅくせん)(かたかゆ)、粥(しるかゆ)、(い)(おもゆ)という解釈をしている。1829年(文政12)成立の藤井高尚の『松の落葉』に「昔の物語文にかゆといふ事あまた見えたるを、今の世の粥と思ひては事たがひぬべし、(中略)粥といふは今の飯なり、むかし飯(いひ)といへるは、こしきにて蒸したるものにて今の世にいはるる強飯(こはいひ)のことぞ」とある。江戸後期に著された小山田与清(おやまだともきよ)の『飯粥(いひがゆ)考』に「飯は炊穀の名、粥は烹穀(ほうこく)の名なり」とある。
関東の人が昔から粥をあまり好まないのは食習慣によるのと、飯を炊く時間にも一因があるとみられる。関東は朝飯を炊き、朝と昼はそのまま用い、夜もそのままか茶漬けにして食べた。関西では昼に飯を炊き、昼、夜そのまま食べて、翌朝残飯を粥にする風習が長く行われていた。大蔵永常(おおくらながつね)の『竈(かまど)の賑(にぎは)ひ』(1833)には「関東にては白粥は味なきものとして食ふ人稀(ま)れなり。つらつら考へるに畿内(きない)辺の炊き方は大いに違へり。白粥は炊き方により美味にして勝手よきものなり。まづ、炊きやうはいつも食する飯の米を洗ふより早目に洗ふべし。まだ水に白色あるぐらゐにして釜(かま)に入れ、水加減して炊くなり。吹き上りこぼるるとて蓋(ふた)をみなあけ焚(た)けば、粥の味を失ふ故蓋を取りきらずに少しあけて火を減じ焚くべし。このとき米二、三粒を杓子(しゃくし)にてすくひとり指にてつまみみるに、少ししんのある位と思ふなるを薪(まき)を引きつくし、煙草(たばこ)二、三服のむ間、そのまま置き釜をおろし蒸すべし、又煙草三服ほどのむ間蒸し置き、釜よりすぐに盛りて食すべし。この如(ごと)くして置きたる粥は甘味ありてよろし」とある。中身のもっとも薄いのがおもゆである。
[多田鉄之助]
米を洗い20分後に米1カップに対し水10カップ(五分粥の場合)を加え、鍋(なべ)に入れ火にかける。沸騰したら火を弱め、同じ温度で炊く。途中ふきこぼれるときは蓋をずらすが、蓋をとったり水をさしてはいけない。白粥は三分粥、五分粥、七分粥、固粥(かたかゆ)などがある。三分粥は容量比で米1に対し水15、または水20、五分粥は米1に対して水10、七分粥は米1に対して水7の割合でつくる。いも粥は、サツマイモの皮をむき、小さい角切りにして水にさらしてから白粥の中に加えて炊く。サトイモ、カボチャなどを加えてもよい。正月7日につくる七草(ななくさ)粥は春の七草を入れるが、江戸の昔からナズナ1種だけを用いることが多い。いまはこのほかヨメナもよく用いている。
[多田鉄之助]
奈良県の大和(やまと)粥は米1に対して水6、茶を袋に入れて加えてつくる。福井県の朝粥は炊きたての粥の上に葛(くず)あんをかけたもの、しょうゆ、酒、かつおだしで調味する。茶粥は各地にあるが、佐賀県では夏料理として粉茶を用いている。山口県の茶粥は季節によって用いる材料が異なるのが特色。広島県のしんめい粥は餅(もち)が入る。中国料理では、粥は米料理の最高のもので、地方によりその地特産のものを入れる。
[多田鉄之助]
米や粟(あわ)などに水を加えて煮たもの。本来、米を蒸したのが飯(いい)であり、後世強飯(こわいい)(こわめし)とよばれるようになるのに対して、柔らかに煮たもののほうを粥といった。粥に堅粥(かたかゆ)(平安中期の『和名抄(わみょうしょう)』に「饘〈加太賀由〉」とある)と汁粥(しるかゆ)との2種があり、前者が現在の飯(めし)に、後者が粥に相当する。いま粥は、病人、幼児、産婦の食物とされているが、民俗のうえからは、年中行事、人生儀礼のおりおりにハレの日の食事として用いられ、重要な意味を含んでいる。
群馬県などには正月三が日の食事を各家ごとの「家例」とし、餅(もち)家例、麺(めん)家例、芋家例など種々あるなかに、粥家例として古式を守る家もある。これは白粥であるが、1月7日には全国的に七草粥(七種(くさ)粥)をつくる風がある。数種の若菜を加えて炊いた粥である。1月15日には小豆(あずき)粥を炊いて食べる風も全国的であるが、これには粥箸(かゆばし)を入れて米の付きぐあいにより豊凶を占うことがあり、所により特定の神社の古式の神事とされている。これを粥占(かゆうら)、粥だめしなどとよび、年頭の豊凶占いの代表的なものである。この小豆粥について、「いくら熱くてもけっして口で吹いてはいけない」との禁忌が伴うのは、小正月(こしょうがつ)の予祝行事に風水害の除災の祈りが含まれている証拠である。9月の収穫祭であるミクニチ(三九日)にミクニチガユをつくり、11月末の大師講(だいしこう)にダイシガユをつくるのも同じ性格のものであり、新潟県魚沼(うおぬま)地方には新築の祝いのとき、親戚(しんせき)や近隣を呼んでヤウツリガユ(家移り粥)をふるまう。これなどは、都会の「引っ越しそば」の原型ともみられるものである。
[萩原龍夫]
米などを水分を多くして,軟らかく煮たもの。古くは米を蒸したものを飯(いい)と呼び,煮たものを粥と称した。固さによって固粥と汁粥とにわけ,現在の飯は固粥,粥は汁粥にあたる。白米を煮た白粥のほか,もとはアワ,ヒエ,麦なども粥にされていた。またサトイモ,サツマイモ,ダイコン,トチの実などを増量材として加えたものも行われていた。味をつけずに水から煮るのを本格とする考え方もあるが,塩はもちろん,茶で煮る茶粥,そのほか甘味料で煮たものをも粥と称しており,雑炊(ぞうすい)との区別の基準はかならずしも明確ではない。現在一般に行われている粥の作り方は,米を洗って行平(ゆきひら)か土なべのような厚手のなべに入れ,水を加えて30~60分吸水させてから火にかける。沸騰するまでは中火,沸騰後は弱火にして1時間くらいかけて炊きあげる。米粒がふくらみ,汁はさらっと炊きあがるのがよく,途中でかき混ぜると粘りが出てまずくなる。粥はその濃さによって次のようにわける。全粥は米と水を重量比で1:5にして炊いたもの,七分粥は1:7,三分粥は1:15の割合である。重湯(おもゆ)は米1に水10の割合で煮て汁だけをこし取ったもの,〈おまじり〉は全粥1に重湯9の割合にしたものである。
粥は消化吸収がよいので病人食,老人食,離乳食とされることが多いが,日常食としている地方もある。とくに近畿地方では朝食とするところが多く,茶粥は奈良地方で好まれ,〈奈良茶粥〉,略して〈奈良茶〉とも呼ばれた。芋粥は,現在ではふつうサツマイモを入れたものを指すが,芥川竜之介の《芋粥》に描かれた平安時代のそれは薯蕷(しよよ)粥ともいい,ヤマノイモを切って甘葛(あまずら)の汁で煮ただけの,汁粉のようなものであった。粥はハレの日の食物とされることが多く,正月の七草粥,小豆(あずき)粥のほか,8月1日には宮中などで尾花粥,12月8日には寺院などでは紅糟(うんぞう)粥を食べた。尾花粥は古く諏訪大社の御射山(みさやま)の神事に始まるといい,ススキを黒焼きにして粥に混ぜたものだったが,後には黒ゴマを代用するようにもなった。紅糟粥は温糟粥とも書く。太郎冠者がごちそうになった食べ物の名を忘れ,主人が石橋山合戦の物語を誦して思い出させるという狂言《文蔵》の素材にもなっているもので,室町期にはかなり身近な料理だったようである。《尺素往来(せきそおうらい)》が〈紅糟者臘八之仏供〉としているように,釈尊成道の日とされる12月8日の臘八会(ろうはちえ)の供物ともされたため,臘八粥とも呼ばれる。みそと酒かすを入れて煮た粥であろうと,伊勢貞丈は書いている。
執筆者:松本 仲子+鈴木 晋一
粥はハレの日の食物に用いられる。年中行事では,小正月の1月15日の朝の粥が最も一般的で,すでに伊勢神宮の《皇太神宮儀式帳》(804)に〈御粥〉と見える。この日の粥は小豆粥が多く,《土佐日記》承平5年(935)の条にも見え,宮中でも,一般には小豆粥であったらしい。11月23日夜の大師講にも粥をつくるところが多いが,この日の粥には,塩を入れてはいけないという伝えもある。1月15日の粥も,塩を入れないのを古風とする人もある。家の棟上げ,屋根のふき上げ,家移りなど,建築作業の折り目の儀礼にも粥を用いる。関係者が食べるほか,柱などに粥を供える習俗もある。粥は最も素朴な穀物の調理法で,古風な食物がハレの日に残った例であろう。
→粥占 →粥杖
執筆者:小島 瓔禮
古く明代には12月8日(臘八会)に朝廷では百官に粥を賜るしきたりがあった。清代にはこの風はすたれたが,ただ貴族らはこの日に粥をたがいに贈答して巧みをきそった。さらに民間では宋代以来この日に臘八粥をつくるならわしがあり,果実や野菜類などやその他雑多な具の多くはいった粥をすぐれたものとした。臘八粥はもともと仏教の行事につながるものである。粥は仏教では飢えと渇きを除き,大小便をととのえるなどの五利があるとか,あるいは十利があるといって,その功徳がいろいろといわれている。華南地方では臘八粥にあたるものを1月29日につくり,これを孝九粥といって祖先と神仏に供えた。さらに他家に嫁いでいる女は,この日その里方に孝九粥を贈る。盂蘭盆会(うらぼんえ)には施餓鬼(せがき)として毎日粥食を貧者にふるまう風も行われている。
今日,民間の日常食としての粥は,たとえば華南地方などでは,一般に毎日3食のうちの1食を粥食にあてる。材料は米のほか大麦,コーリャンなどの米穀である。白粥のほか,これにサツマイモなどの芋類を入れた芋粥や,カボチャ,ヘチマ,菜その他野菜類を入れてそれぞれの名称をつけた各種の粥がある。雑炊は野菜類のほか豆腐,干しエビなどを入れ,これに味をつける。慶事には雑炊をつくることを避けるが,葬式のときには人夫などに雑炊を間食として与える。粥は間食としてもつくられ,これには主として白粥が用いられる。夏の間食としては緑豆を入れて砂糖で甘くした粥や,もち米に砂糖を入れて炊いた甘い粥がつくられる。
執筆者:芝田 玟
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…小正月の1月15日の朝,粥をたくとき,かきまわすのに使う棒。粥かき棒ともいう。…
…小正月で,正月行事は終わると考えるのが普通である。15日の朝,粥を食べる習慣は全国に広く,小豆粥にしているところが多い。15日の粥は歴史的にも古く,伊勢神宮の《皇太神宮儀式帳》(804)に〈御粥〉とあり,《土佐日記》承平5年(935)の条に小豆粥が見える。…
…現在でも家財の運搬のほかに,手伝いの人々のもてなしや近隣の人々へのあいさつが行われるが,古くはいろいろな儀式や習俗を伴った。中世の貴族社会では引越しを移徙(いし∥わたまし)と呼び,水と燭を捧げた童女2人と黄牛を先頭にした行列を組んで移住し,その後の宴会では粥(かゆ)や湯漬(ゆづけ)を食した。この場合の水と燭(火)は,旧居から新居への住生活の連続性を象徴しており,黄牛は七夕の牽牛織女の伝説に由来するものと考えられていた。…
…〈たく〉は燃料をたいて加熱する意と思われる。飯の炊き方には煮る方法と蒸す方法とがあり,古く日本では甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)を飯(いい)と呼び,水を入れて煮たものを粥(かゆ)といった。粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるかゆ)に分けられた。…
※「粥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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