経塚古墳(読み)きようづかこふん

日本歴史地名大系 「経塚古墳」の解説

経塚古墳
きようづかこふん

[現在地名]一宮町国分 経塚

御坂みさか山地から笛吹川に急勾配をもって下るかね川の右岸、標高約三四七メートルの水害防備保安林内にある終末期の八角形墳。県指定史跡。平成六年(一九九四)発掘調査が行われ調査面積は約二五〇平方メートル。調査前の様子は、墳丘の各所に大型の円礫が露出しており、裾・中段に石積みが残存している状況が容易に把握することができた。玄室はほぼ原形をとどめているものの、天井石が一石崩落し、そこから内部がうかがえる状況であった。

経塚古墳
きようづかこふん

[現在地名]堺市浜寺南町三丁

泉北丘陵から大阪湾に向かって延びる下位段丘上にあった東西主軸の前方後円墳。全長五七メートル、後円部径四三メートル、高さ九メートルで周濠を有する帆立貝式の古墳。昭和三六年(一九六一)・同三七年発掘調査が行われた。その結果墳丘を一重にめぐる円筒埴輪列とくびれ部北側にコの字形区画をなす円筒埴輪列、さらに蓋形・人物などの形象埴輪などが確認された。後円部頂の主体部からは墳丘主軸に沿って併置された二基の木棺が検出された。

経塚古墳
きようづかこふん

[現在地名]鈴鹿市中瀬古町 松山

中瀬古なかぜこ町の西方約三〇〇メートルの松林のなかにあった前方後円墳であるが、国鉄伊勢線敷設工事のため、昭和四一年(一九六六)鈴鹿市による調査後消滅した。主軸は北西に向かい、長径三五・七メートル、後円部径二九メートル、高さ四・五メートル、前方部長さ九・五メートル、幅一七メートル、高さ一・五メートル、周溝の幅二―七・五メートル。経塚の名のいわれは不明で、付近にいたという信太のぶと長者の墓という伝説もあった。

経塚古墳
きようづかこふん

[現在地名]天水町部田見

部田見へたみ集落背後に横たわる丘陵の頂部(標高五〇メートル)にあり、直径四五メートル・高さ七メートルの円墳。蜜柑園造成によって墳丘はかなり変形している。昭和四二年(一九六七)に発掘調査され、阿蘇泥溶岩製の全長二・七四メートル、身蓋を組合せると高さ一・三三メートルの船形石棺が出土した。棺蓋は屋根形を呈し、身には造り付けの石枕を彫出し、成年の男性人骨一体があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「経塚古墳」の意味・わかりやすい解説

経塚古墳
きょうづかこふん

山梨県笛吹(ふえふき)市一宮町国分(こくぶ)にあり、甲府盆地南東を流れる金川(かねがわ)右岸の微高地上に立地している八角墳。1994年(平成6)に山梨県埋蔵文化財センターが調査した。墳丘は対角長12.5メートル、対辺約12メートル、一辺平均5メートル強である。外護列石(がいごれっせき)・中段列石を巡らし、砂質土による版築(ばんちく)とよばれる築造法を行っている。埋葬施設は南に開口する両袖(そで)型の横穴式石室で、羨道(せんどう)長は3.6メートル、同幅0.68メートル、玄室長は3.0メートル、同幅1.76メートル、同高1.61メートルである。胴張りの玄室で天井石4枚。羨道部の天井は破壊されていて不明である。副葬品として閉塞石下部に鉄斧(てっぷ)1点があり、後世に二次使用されたときの遺物として、玄室入口に土師器(はじき)坏2点、人骨片などがある。経塚古墳は石室構造と鉄斧の特徴から7世紀前半に位置づけられる。八角墳は東国では類例が少なく、東京都と群馬県に各1例が知られるにすぎず、山梨県での存在は東国の古墳時代終末期の様相を考えるうえできわめて重要な古墳である。

[大塚初重・古屋紀之]

『吉岡弘樹・山崎一良著『経塚古墳』(1995・山梨県埋蔵文化財センター)』

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