戦争、内乱、大規模な災害などによって治安や秩序の維持に緊急な危険が生じている状態。これに対処する措置として、普通は憲法上、大統領や内閣に権限を集中する緊急権の制度が考えられている。日本では、明治憲法の下で、臣民の権利の全部または一部を停止する天皇の大権(非常大権)を規定(31条)していたが、一度も発動されなかった。現行憲法では、濫用の危険があると考えられてこの制度は認められず、そのかわりに法律(警察法、自衛隊法、災害対策基本法など)に緊急事態に関する定めが置かれている。
(1)警察法によれば、内閣総理大臣が国家公安委員会の勧告に基づいて、全国または一部の区域について、緊急事態の布告を発する(緊急事態宣言。旧警察法では非常事態と称した)。そして総理大臣が一時的に警察力を統制して、警察庁長官を直接に指揮監督する。普通の警察管理の関係が停止するものであるから、その民主的コントロールのために、布告を発した日から20日以内に国会に付議してその承認を求めなくてはならないことになっている(71条以下)。
(2)自衛隊法によれば、間接侵略その他の緊急事態で、警察力をもってしても治安を維持することができないと認められる場合には、内閣総理大臣が自衛隊の全部または一部の出動を命ずること(治安出動命令)ができるとされている。その民主的コントロールについては、警察法の場合と同様である(78条)。
(3)災害対策基本法によれば、非常災害が発生した場合には、一定の条件の下に内閣総理大臣が災害緊急事態の布告を発することができるとしている(105条)。
[池田政章]
(4)原子力災害対策特別措置法によれば、原子力事故が発生した場合、原子力規制委員会の報告に基づき、内閣総理大臣は原子力緊急事態が発生した旨の公示(原子力緊急事態宣言)をし、避難や屋内退避勧告などの緊急事態応急対策を指示する(15条以下)。
(5)事態対処法と国民保護法などによれば、原子力施設への攻撃、新幹線などの爆破、サリンなど有毒ガスの大量散布、航空機による自爆テロなどを緊急対処事態と規定し、内閣総理大臣が対処方針を閣議決定し、発生時には住民の生命、身体および財産を保護するため的確かつ迅速に対処する。閣議決定から20日以内に国会に付議してその承認を求めなくてはならない。(事態対処法21~24条、国民保護法172条以下)
(6)新型インフルエンザ等対策特別措置法によれば、感染症が急拡大した場合、一定の条件の下に内閣総理大臣は新型インフルエンザ等緊急事態が発生した旨の公示(新型インフルエンザ等緊急事態宣言)をし、国会に報告する。宣言は地域や期間を限定できる。宣言を受け、都道府県知事は外出自粛要請、小中高校への休業要請、百貨店、イベント会場、スポーツ・娯楽施設などの使用制限要請、医薬品など緊急物資の収用命令をできる(32条以下)。なお同法付帯決議では、国会への事前報告を必要としているが、法的拘束力はない。
以上の緊急事態宣言に際し、憲法上の人権を停止する旨の規定はないが、実際はこれに近いものとなる可能性がある。
[矢野 武 2020年8月20日]
一般的には,戦争,内乱,天災地変等の事態が,通常の統治体制ではそれに対処できないと考えられる場合をさし,非常事態ともいう。このような事態に対処するための特別の権力を,国家緊急権と呼ぶ。明治憲法は緊急事態に対処するために,〈緊急勅令〉(8条),〈戒厳令〉(14条),〈非常大権〉(31条),〈財政上の緊急処分〉(70条)の措置を定めていた。それに対して日本国憲法は,緊急事態の典型である戦争について,その放棄を定めるとともに(9条),緊急事態を予定した条項をおかなかった(ただし自衛隊法76条は,外部からの武力攻撃に対する防衛出動に関して規定している)。わずかに参議院の緊急集会の規定(憲法54条2,3項)が問題になるだけである。しかし,憲法外では現行法律上,緊急事態について定めた条項があり,とくにそれをさして緊急事態ということも多い。そこで予定されている通常の統治体制に対する修正は,ある程度限られており,その場合の国家緊急権は比較的弱い。警察法では,大規模な災害または騒乱,その他通常の警察の体制では治安の維持が確保できない事態を緊急事態と呼び,その場合,内閣総理大臣は,国家公安委員会の勧告にもとづいて,全国または一部の区域について〈緊急事態の布告〉を発することができるとしている(71条)。布告が発せられると,通常の警察の指揮系統が変更をうけ,内閣総理大臣が一時的に警察を統制し,緊急事態を収拾するために必要な限度で,警察庁長官を直接に指揮監督する(72条)。内閣総理大臣は,布告を発した日から20日以内に,それを国会に付議して,その承認を求めなければならない(74条)。また自衛隊法によれば,内閣総理大臣は,間接侵略その他の緊急事態に際して,一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合には,〈治安出動〉として自衛隊の全部または一部の出動を命ずることができる(78条1項)。この場合にも,国会の承認手続が要求されている(同条2項)。さらに災害対策基本法では,非常災害が発生して,国の経済と公共の福祉に重大な影響を及ぼすような異常,激甚なものである場合に,内閣総理大臣が,〈災害緊急事態〉の布告を発することができる旨を定めている(105条1項)。
したがって現行法上,緊急事態に関する特別の措置は相当程度用意されているといえる。これらにはつねに権力の濫用の危険性があり,また自衛隊の治安出動のように,憲法に適合するかどうか疑わしいものもある。
執筆者:浦田 一郎
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…さらに同法は,警察の組織として,国家公安委員会や警察庁などの中央警察機関のほか,都道府県警察などの地方警察機関についても規定している。とくに警察法の定める緊急事態における特別措置は重要である。すなわち,大規模な災害・騒乱等の緊急事態に際して,内閣総理大臣は国家公安委員会の勧告に基づき,全国または一部の地域について緊急事態の布告を発することができ,その場合には警察機関を一時的ではあれ自己の統制下におくことになっている(71,72条)。…
…戦争,内乱,天災地変等の緊急事態にあたって,通常の統治体制ではそれに対処できないとして,国家と憲法の存立を維持するため行使される特別の権力。国家緊急権の発動によって,通常,権力の集中と立憲主義(憲法による権力の拘束)の一時的停止が行われる。…
※「緊急事態」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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