実相院(読み)ジッソウイン

デジタル大辞泉 「実相院」の意味・読み・例文・類語

じっそう‐いん〔ジツサウヰン〕【実相院】

京都市左京区にある単立の寺。もと天台宗寺門派の門跡寺院。開創は寛喜元年(1229)。開基は、鷹司兼基の子静基僧正。紙本墨書仮名文字遣(重文)のほか、多数の古記録・文書を所蔵。実相院門跡。岩倉門跡

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精選版 日本国語大辞典 「実相院」の意味・読み・例文・類語

じっそう‐いん ジッサウヰン【実相院】

京都市左京区岩倉上蔵(あぐら)町にある単立寺院。もと天台宗寺門派の門跡寺院。山号は岩倉山。寛喜元年(一二二九)鷹司静基が円珍(智証大師)を第一祖として開基。のちに門跡に列せられて以来、親王、摂家の子弟が入山した。岩倉門跡。実相院門跡。

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日本歴史地名大系 「実相院」の解説

実相院
じつそういん

[現在地名]左京区岩倉上蔵町

大雲だいうん寺の南にあり、天台系単立の門跡寺院。実相院門跡、岩倉いわくら門跡とも称し、本尊不動明王。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔門跡寺院の由来〕

寺伝によれば寺名の起りは寛喜元年(一二二九)三月に鷹司兼基の子静基が園城おんじよう(三井寺、現滋賀県大津市)に入壇受法し、実相院と号したことによると伝える。「民経記」寛喜三年一〇月巻の裏文書に「実相院領野州・栗太庄造内裏役事」とみえ、実相院が寛喜年間にすでに創基されていたことは明らかである。当初の院地や移行時期については明らかでないが、当初院地は愛宕おたぎ大門だいもん村大字上野うえの(現京都市北区紫野上野町)の地にあったといい(京都府愛宕郡岩倉村概誌)、のち洛中の五辻いつつじ小川おがわ(現京都市上京区実相院町)に移り、この地は江戸時代にも「実相院辻子」とよばれている(山城名勝志・山城名跡巡行志)。実相院が門跡寺院となったのは門跡初祖の静基が関白近衛基通の孫にあたるためであるが、鎌倉時代を通じて寺領もしだいに増加し、建武三年(一三三六)と推定できる八月三〇日の光厳上皇院宣(実相院文書)には、上記の二荘のほか摂津国八多荘、播磨国有年うね荘、越後国紙屋かみや荘、伊賀国音波荘などが実相院門跡領となっている。

実相院
じつそういん

[現在地名]大和町大字川上

河上かわかみ神社の西にあり、仁王門をもつ。真言宗御室派。山号は河上山、本尊は薬師如来神通密じんつうみつ寺とも称した。

寺伝によれば、行基が和銅五年(七一二)に西北方の岩屋いわや山に神宮寺を建立したのが始まりと伝えられる。その後、寛治三年(一〇八九)河上神社の社僧円尋が現在の実相院裏山に房舎を建て如法経会を始め、ここを河上山別所と称して薬師・阿弥陀の二仏を本尊とした。円尋は天台宗の僧侶であり、当初は天台宗であったことがわかる。寛治五年の河上社々僧円尋解状(河上神社文書)によれば、当時の寺域の四至を「東限河、南限屏風巌、西限神宮寺登道、北限鮨返壺河岸」としている。

実相院
じつそういん

[現在地名]真田町大字傍陽字表

天台宗金縄山実相院観音寺。神亀二年(七二五)行基法師の創建と伝え、上田小県地方屈指の古寺。一般に実相院の名でよばれる。真田氏が国牧を経営した当時創立したものかと推考されている。もと曲尾まがりお村峰山の奥、保科ほしなに通ずる堂平どうだいらにあったが、現在地に移したと伝える。

応永年間(一三九四―一四二八)雷火のため炎上、天文年間(一五三二―五五)兵火により焼失(実相院縁起)。初め比叡山延暦寺末、元和三年(一六一七)上野国新田郡世良田長楽寺末となる。慶長六年(一六〇一)八月真田信之は、領内寺社に土地を寄進した時「金縄山無諸役、如前本寺領六貫文無異儀進置候」と実相院にあてている(実相院文書)

実相院
じつそういん

[現在地名]五霞村元栗橋

元栗橋もとくりはしの中央に所在。宝篋山実相院大経だいきよう寺と称し真言宗豊山派。本尊千手観世音菩薩。本堂の献額に「観音堂」とあり、観音堂を本堂としている。本堂の前左右に宝篋印塔や五輪塔が立つ。

寺伝によると神亀三年(七二六)行基が開基し、法相宗であったが、建保六年(一二一八)の弟子により天台宗となり、さらに改宗して真言宗となり山城国無量寿院の末寺となる。安永三年(一七七四)大和国長谷寺の直末寺に移る。慶安元年(一六四八)朱印地一五石を与えられた。元禄年間(一六八八―一七〇四)下総関宿藩主牧野氏が帰依して寺を再興。

実相院
じつそういん

[現在地名]大子町内大野

南前方に十二所じゆうにしよ神社・生瀬富士なませふじなどが展望される。真言宗豊山派で如意山宝珠ほうしゆ寺と号し、本尊は大日如来。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると天文一二年(一五四三)建立で、門徒一四ヵ寺、除地一五石余、檀那六四人を有し、享保六年(一七二一)の大野村寺社方除高人別書上帳(益子公朋氏蔵)には除高一六石余とあり、弟子五人の名がみえる。

実相院
じつそういん

[現在地名]大田原市佐久山

佐久山さくやま集落を見下ろす南側の丘陵上にある。丘陵東には小さな谷を隔てて佐久山城跡が続く。月江山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝では一六世紀前半、福原資衡の女(資孝の叔母)が当地に庵を結び、月江宗船尼と号し、実相庵を創建した。のち永禄六年(一五六三)福原資孝が佐久山義隆を滅ぼして佐久山氏領を併合し、居を佐久山に移した際、実相庵を実相院と改号。旧地福原の永興ふくわらのようこう寺にあった始祖久隆より父資群に至る墓所を当院に改葬し、以後福原氏の菩提所としたという。

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改訂新版 世界大百科事典 「実相院」の意味・わかりやすい解説

実相院 (じっそういん)

京都市左京区岩倉上蔵町にある天台宗寺門派の門跡寺院。山号は岩蔵山。本尊は不動明王。岩倉門跡ともいう。寺伝によれば,鎌倉初期の1229年(寛喜1)静基僧正が開創したと伝え,はじめ摂家出身の僧,江戸中期から法親王が門跡を相承した。応仁の乱のころ,洛中から,同じ寺門派の大雲寺の南隣にあたる洛北岩倉の現寺地に移った。中世末の兵乱で,大雲寺とともに荒廃したが,江戸初期の寛永年間(1624-44),仏教への崇信あつかった後水尾天皇の保護のもと,大雲寺とともに寺観を整備した。やがて法親王が代々入院し,寺領600石余に達し,幕府の保護もあつかった。だが明治維新後,神道国教化のもとで皇孫入寺の風はやみ,上知令で収入は激減し,一時期荒廃の極に達した。維持しかねた殿舎の大部が府立療病院に献納されたほどである。現在,本堂(1720),方丈,書院,庫裏,四脚門などを備え,また大雲寺関係を含む多くの古文書を伝蔵する。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「実相院」の意味・わかりやすい解説

実相院
じっそういん

京都市左京区岩倉上蔵(いわくらあぐら)町にある単立寺院。もとは天台宗寺門派大本山。山号は岩倉山。岩倉門跡(もんぜき)、実相院門跡と称する。本尊は不動明王。近畿三十六不動尊第16番霊場。1229年(寛喜1)鷹司兼基(たかつかさかねもと)の子静基(せいき)僧正により紫野に創建、その後、今出川(いまでがわ)通小川(上京区実相院町)を経て、1411年(応永18)12世義運僧正(足利義満(あしかがよしみつ)の弟)のとき大雲寺境内(現在地)へ移転した。皇族、摂家、武門からの入寺が多く、現在の本堂、四脚門は1720年(享保5)20世義周法親王のとき東山(ひがしやま)天皇中宮承秋門院の旧殿を移建したもの。鎌倉時代の本尊のほか、寺宝に後陽成(ごようぜい)天皇宸翰(しんかん)紙本墨書仮名文字遣(かなもじづかい)(国重要文化財)、狩野(かのう)派の襖絵(ふすまえ)、古文書類がある。境内には「回遊式庭園」「一仏八僧の庭」の名園がある。

[田村晃祐]

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デジタル大辞泉プラス 「実相院」の解説

実相院

佐賀県佐賀市にある真言宗の寺院。古くは神通密寺とも称した。山号は河上山、本尊は薬師如来。1089年、河上神社の僧円尋が、裏山に房舎を建立したのが起源と伝わる。

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