能満寺(読み)のうまんじ

日本歴史地名大系 「能満寺」の解説

能満寺
のうまんじ

[現在地名]長門市俵山 小野

木津きつ川に沿った赤間関あかまがせき街道(北道筋)の東、能満寺山の西南麓に位置する。真言宗御室派で、山号を悉地山と称し、本尊は虚空蔵菩薩

寺伝によれば、弘法大師が唐から帰朝後の大同二年(八〇七)この地に来て開創したという古寺で、近郷の同宗派寺院の中心であったことは、寺蔵の応永三一年(一四二四)の「長門国俵山能満寺務職聖□本尊道具以下置文条々事聖教等注文別紙在之」に、豊浦郡の狗留孫山修禅しゆぜん寺、同郡下山神上しんじよう寺、大津郡向津具二尊むかつくにそん院、美祢みね伊佐南原いさなんばら寺など、著名寺院の僧が連署していることから知られる。

密教関係の法器をはじめ、室町期から近世にかけての文書を多数蔵するが、大般若経の奥書は応永六年から同一九年までの年号を記す。

能満寺
のうまんじ

[現在地名]吉田町片岡

湯日ゆい川の右岸にあり、背後の台地先端部に小山こやま城跡がある。吉祥山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。弘長二年(一二六二)亀山天皇の勅願により平貞時が伽藍を造営し、鎌倉建長寺蘭渓二世の法孫定門を開山としたと伝える。正応五年(一二九二)伏見天皇が七堂伽藍を造営、永仁五年(一二九七)には墾田五〇町を寄進したという。

能満寺
のうまんじ

[現在地名]福山市西町一丁目

福山城跡の西南方、近世西にし町と通称された地域の西端にある。当寺付近は中世は海で、福山城築城頃には本庄池ノ淵ほんじよういけと称し、池状の沼地が残り、近代に入っても蓮畑があった。中世には山寄りの後の古吉津ふるよしづ町の地にあったが(杉原氏系図由来書)、城下町形成の頃移転されたものと思われる。妙知山普門院と号し、高野山真言宗。本尊地蔵菩薩立像(室町中期作、県指定重要文化財)

開創については伝えがないが、杉原氏系図由来書に、建武三年(一三三六)足利尊氏が京都から九州に西下した際、この寺に寓居していた杉原信平・為平の兄弟が尊氏に従って九州多々良たたら(現福岡市)の戦に功をたて、御調みつぎ木梨きなし(現尾道市)を与えられたとあり、当時の住持直観は杉原氏の出で、杉原兄弟の伯父にあたるといわれる。

能満寺
のうまんじ

[現在地名]勝本町 坂本触

勝本浦の南西にある。勝本山と号し、真言宗智山派。本尊は虚空蔵菩薩。筑前博多の昌牧尼が来住して比丘尼所を開いたのが始まりとされ、弟子の昌廓比丘尼の代まで営まれたが、のち空家となって荒廃するに任せていた。平戸藩主松浦隆信のとき、本宮ほんぐう(廃寺)一八世頼弁の願いにより堂地が寄進され、元和三年(一六一七)真言宗寺院として再興された。初め山号は志賀山とし、勝本浦の乗越のりこしに建立された。正徳二年(一七一二)鯨組の頭領である土肥市兵衛らが銅造梵鐘を寄進。

能満寺
のうまんじ

[現在地名]いわき市常磐西郷町

忠多ちゆうだにあり、光台山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。文明元年(一四六九)松蓮社良秀の開山と伝える。寺内の虚空蔵菩薩は近郊に多くの信者をもつ。寺蔵の木造乾漆虚空蔵菩薩は国指定重要文化財で、天平期の特徴をよく示し、もと奈良東大寺の所蔵であったといわれる。

能満寺
のうまんじ

[現在地名]横須賀市鴨居二丁目

鴨居かもい湾を望む高台に位置する。鴨居山と号し、曹洞宗、本尊虚空蔵菩薩。慶長九年(一六〇四)霊屋伝英の開基という。本尊の虚空蔵菩薩は応永六年(一三九九)の造立銘があり、願主は松雲庵で、「相州三浦鴨居村」ともある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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