船場町(読み)せんばまち

日本歴史地名大系 「船場町」の解説

船場町
せんばまち

[現在地名]徳島市東船場町ひがしせんばちよう一―二丁目・西船場町にしせんばちよう一―五丁目

新町しんまち橋の南詰から新町川沿いに東西に延びる町人地。貞享二年(一六八五)市中町数並家数(民政資料)に新町東船場片町・新町西船場片町がみえ、初めは浜道に面した片側町で新町川対岸寺島てらしま側の東内船場ひがしうちせんば内西船場うちにしせんばと川を挟んで向合った船場であった。同町数並家数によれば新町東船場片町は東西の町数四町、家数一一軒、新町西船場片町は東西の町数四町二七間、家数四九軒。元禄四年(一六九一)御山下絵図には新町西船場片町は「石屋船場」と記される。その後船場界隈は阿波藍の集散をはじめとする諸物資流通の場として発展した。寛政八年(一七九六)の御山下絵図でも浜側の家並が確認でき、その後は両側に家並が形成された。


船場町
ふなばちよう

[現在地名]酒田市船場町一―二丁目・南新町みなみしんまち二丁目

東は秋田あきた町、西は最上川までの東西の両側町で、東から一―五丁目まである。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)の時代には猟師りようしひがし小路・同西小路南側の最上川の川底であった。のち河流が変わって河原となったため猟師町下河原しもがわらと称し、元禄一五年(一七〇二)頃より猟師町下に人家も建った。宝永二年(一七〇五)の谷地調書(野附文書)に「酒田地方猟師町下谷地長三百九十間程、横三十七間程、但猟師町下ヨリ利右衛門小路川原迄」とあり、野手金は金一歩と銭二五〇文であった。


船場町
ふなばちよう

[現在地名]石狩市船場町

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世末期に形成された石狩市街の一町で、東は石狩川左岸に面し、西は親船おやふね町・ほん町・なか町に、北はしん町に接する。「石狩国地誌提要」に「川西」として「船場町」がみえる。町内の石狩川渡船場は近世から厚田あつた(現厚田村)当別とうぺつ(現当別町)方面へ通ずる道の要地であった。また小樽―石狩―篠路しのろ(現札幌市北区)を結ぶ開拓使汽船航路、江別(現江別市)月形つきがた(現月形町)―石狩間、石狩―茨戸ばらと(現札幌市北区)間の各定期航路待合所が置かれ、石狩川水運の拠点として賑わった(殖民公報・石狩町誌)


船場町
せんばまち

[現在地名]小倉北区船場町・魚町うおまち三丁目

東曲輪の北西部、さかい町の西にある。むらさき川右岸沿いに寒竹かんたけ川をわずかに入ったところで、合流付近は三叉さんさ江といって湖沼のようになっていた。細川氏の時代古船場ふるせんば町がおもに用いられていたが、正保年間(一六四四―四八)以後は当町が船場として機能した。別名を木船場きせんばともいった。「倉府俗話伝」に「東屋町は船場町の内」で、これを木船場とよぶと記される。


船場町
ふなばちよう

[現在地名]函館市末広町すえひろちよう豊川町とよかわちよう

明治六年(一八七三)町名町域再整理の際に古築島ふるつきしま町が改称して成立(「事業報告」第一編)。同九年の現住戸口は五二戸・二〇八人(函館支庁管内村町別戸口表)。同三〇年には戸数八九・人口三二三(伊藤鋳之助文書)。同四二年の町域面積は一万九千五一〇坪(函館区統計)。大正九年(一九二〇)の第一回国勢調査時には世帯数七六・人口五五七。


船場町
ふなばちよう

明元あけもと町の北東にある。昭和二四年(一九四九)大字留萌村字留萌・川上かわかみ留萌原野一線るもいげんやいつせんの各一部を区画して設置。町名は町域の南部が旧留萌川の河口に位置する船掛り場であったことに由来する。同二五年の戸口は六戸・二七人(留萌市統計書)。同二五年以降国鉄関係職員の住宅建設などがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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