西光寺跡(読み)さいこうじあと

日本歴史地名大系 「西光寺跡」の解説

西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]篠山市今田町本荘

西光寺山(七一二・九メートル)にあった天台宗寺院。山号は金鶏山。弘仁年間(八一〇―八二四)の開創と伝える。同山は西にし山・ほらが岳とも称され、播磨清水きよみず(現社町)の北西にあたるので西光寺の寺号となり、北東の和田寺わでんじ山の和田寺がもと東光とうこう寺と号していたことから、草創からして清水寺の影響下にあったことがうかがえる。


西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]甲西町鮎沢

鮎沢あゆざわ集落の北西方に位置する古長禅こちようぜん寺の境内を含む一帯にあった真言宗寺院。安政元年(一八五四)震災に遭って伽藍を失い、大正一一年(一九二二)火災で地蔵堂を失い廃寺となる。照峰山と号し、本尊は地蔵菩薩。この地蔵は伽耶地蔵とよばれ、西域にある伽耶山の霊像を模したものと伝える。近世には法善ほうぜん(現若草町)末。


西光寺跡
さいこうじあと

黒肥地の長野くろひじのながの長運ちよううん薬師堂境内に釈迦堂のみ残存する。もとなべ城内にあった。宗派・山号・本尊ともに不明。多良木里城さとのじようの弓削田家の氏神堂に千手観音坐像を毛彫した黄銅板があり、その銘に「多良木鍋城 西光寺八王社 壇始奉建立 本地御正体 千手千眼一輪 長禄四年三月十五日 住持弘弁七十四歳」と記され、長禄四年(一四六〇)に西光寺の鎮守八王はちおう社の御正体が安置されたことがわかる。文安五年(一四四八)八月上相良氏滅亡ののち、長運寺薬師堂左側に西光寺釈迦堂が建立され、釈迦如来坐像(現在熊本市川野浩氏所蔵)が遷座された。この胎内墨書銘に「大治五年十一月五日 造立壇越僧快暹」とある。


西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]志度町鴨部

鴨部かべ神社の東側にあったもと同社の別当寺。蓮乗山安養院と号し、宝蔵ほうぞう(現長尾町の極楽寺)末寺であった。「御領分中寺々由来」に承保年中(一〇七四―七七)白河天皇により造営されたが、その後焼失して薬師像一体が残るとある。「讃岐国名勝図会」には天長六年(八二九)の草創で、本尊阿弥陀如来(安阿弥作)みえ、鴨部八幡宮(鴨部神社)の東隣に南向きの本地堂、その西側に末社、南東隅に鐘楼を描く。


西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]金砂郷村下利員

あさ川の西、字新道しんどうの小高い地にあって、真言宗、田谷山医王いおう院と号した。本尊は薬師如来

寺伝によると藤原仲麻呂の子が出家し徳一となり、諸国遊行の折ここに一宇を建てて薬師像を安置し、のち佐竹昌義の第三子、利員としかず城主義隆の祈願所となったという。「新編常陸国誌」の下利員しもとしかず村の項に「西光院 真言宗、上利員鏡徳寺末、(中略)除地三石二斗五升三合」とある。「常陸国北郡里程間数之記」には「本尊薬師仏、仁王門ニ雲慶作之仁王アリ如活名作ト云ヘシ、本堂ノ二天同作ナリ西山公稲木邑エ久昌精舎ヲ新ニ御建立ノ時此二天ヲ御引上トナル、御除地タタ(ママ)サル持国天広目天之二天ハ山御寺御仏殿ニ安置セラレテ現然タリ(中略)此寺小坊迹ナカラ名手ノ集リテ丹誠ヲ尽セシ故ニ仁王ノ為ニ寺ノ名モ遠近ニ聞エタリ」と記される。


西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]福井市左内町

天台宗真盛派。延徳元年(一四八九)朝倉貞景の帰依を受けた、近江坂本さかもと(現滋賀県大津市)西教さいきよう寺の開祖真盛によって創建されたという。はじめ岡保おかぼ(現福井市次郎丸町)にあった。「真盛上人往生伝記」によると、延徳四年、真盛が西光寺で病臥していると、大畔畷おおくろなわてで戦死した者の亡魂が現れ、念仏回向を頼んだ。文明六年(一四七四)の朝倉氏と甲斐氏との波着山・岡保の合戦で甲斐方が多く討たれたと聞き、真盛は大畔畷に卒塔婆を造立、当寺で百万遍の回向をしたという。


西光寺跡
さいこうじあと

[現在地名]雄勝町院内銀山町

幕末に描かれた院内銀山絵図(工藤家蔵)では五番坑(のちに御幸坑)の北、薬師やくし山の麓にある。浄土宗、院内山と号す。院内銀山記に院内銀山いんないぎんざん町の一一ヵ寺の一としてあげられ、万治三年(一六七〇)炎上と伝える。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」に「本尊光ノ弥陀、長三尺五寸、恵心僧都の作、内仏は春日作一寸八分霊仏也」とあ記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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