愛媛県西部の市。2004年4月明浜(あけはま),宇和(うわ),城川(しろかわ),野村(のむら),三瓶(みかめ)の5町が合体して成立した。人口4万2080(2010)。
西予市南西端の旧町。旧東宇和郡所属。人口4678(2000)。宇和海に面した東西に細長い町で,山地が海にせまり,リアス海岸の沿岸部に集落が点在する。中心集落の高山では石灰岩を産出し,宇和島藩の命により嘉永年間(1848-54)に始まったといわれる石灰製造は第2次世界大戦前まで盛んであった。東部の俵津地区は古来宇和郷の米の積出港であった。海岸線に沿った段々畑はすべてかんきつ類の果樹園で,俵津の脇では真珠,ハマチの養殖が盛んである。定置網や一本釣り漁業も行われる。町域西端の大鼻崎は佐田岬半島宇和海県立自然公園に属し,東端の野福峠は愛媛八景の一つである。
西予市西部の旧町。旧東宇和郡所属。人口1万7550(2000)。肱(ひじ)川上流の宇和川流域に位置し,宇和盆地と周囲の山地からなる。中心集落の卯之町は中世には西園寺氏の城下町で,豊臣秀吉の四国平定後中心が宇和島に移るまで南予の中心として栄え,江戸時代には宿場町,在郷町として発展した。農業が町の基幹産業で,米作と裏作のレンゲ栽培,乳牛飼育,養豚などが行われる。宇和海を展望する法華津峠には西村清雄牧師が1903年にこの峠で作った賛美歌404番の記念碑が建てられている。四国八十八ヵ所43番札所の明石寺や高野長英の隠れ家があり,歯長寺の《紙本墨書歯長寺縁起》は重要文化財に指定されている。国道56号線,JR予讃線が通じ,松山自動車道の西予宇和インターチェンジがある。
西予市東部の旧町。旧東宇和郡所属。1954年土居,魚成(うおなし),遊子川(ゆすがわ),高川の4村が合体,黒瀬川村となり,59年城川と改称して町制。人口4835(2000)。肱川の支流黒瀬川上流域に位置し,東は高知県に接する。河谷沿いに低地があるほかは四国山地に属する山地が大部分を占める。農林業が基幹産業で,稲作,養蚕,酪農が盛ん。木材,クリ,シイタケの産も多い。かつては江戸初期からのコウゾによる和紙,江戸中期からのハゼノキによる木蠟の特産があった。三滝(みたき)山(642m)山頂に中世の山城三滝城跡,魚成には天保年間(1830-44)完成の大伽藍が今も残る曹洞宗の古刹(こさつ)竜沢(りゆうたく)寺がある。地質上は黒瀬川構造帯に含まれ,古生代シルル紀の化石も産する。国道197号線が通じる。
西予市中部の旧町。旧東宇和郡所属。人口1万1093(2000)。肱川上流の宇和川と肱川の支流舟戸川の流域を占める東西に細長い町で,宇和川沿いに小盆地が開け,周囲は四国山地の山々に囲まれる。東にはカルスト高原の大野ヶ原があり,高知県と接する。中世は西園寺家領宇和荘に含まれ,一帯は須智(すち)郷と呼ばれた。江戸時代は大部分が宇和島藩領で,同藩の十組支配のうちの野村組と,一部は山奥組に属した。宇和郡山間部の特産泉貨紙生産の中心地で,製法を発案した兵頭太郎左衛門(泉貨居士)の墓が野村の安楽寺にある。江戸後期には藩の泉貨方役所も置かれ,多数の紙すき人がいた。明治中期以降養蚕が盛んとなり,第2次大戦後は大野ヶ原の開拓が進められて酪農も発展,養蚕とともに基幹産業となっている。栗,タバコ,シイタケなどの栽培も行われる。南西端には野村ダムがあり,北接する大洲市の旧肱川町から続く鹿野川ダムの鹿野川湖周辺や大野ヶ原など自然景観にもめぐまれ,観光開発も進む。鹿野川湖畔に沿って国道197号線が通じる。
西予市西端の旧町。旧西宇和郡所属。人口9061(2000)。三方を山に囲まれ,西は宇和海に面して三瓶湾が深く湾入,リアス海岸に沿って集落が点在する。江戸時代から三瓶湾を埋め立てて新田や塩田の開発が行われた。湾奥の朝立(あさだつ),安土,津布理(つぶり)地区に中心市街が形成され,三瓶港は近海漁業の基地となっている。湾内ではハマチや真珠の養殖が盛んで,特に下泊(しもどまり)を中心とするハマチ養殖では県下有数の産地である。農業はかんきつ類の栽培や養豚,養鶏が推進されている。かつては紡績業が盛んであった。朝立には,明治初年からの朝日文楽が伝承されている。宇和海に面する周木は海水浴場,三瓶湾内は釣場としてにぎわう。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛媛県の南西部にある市。2004年(平成16)に西宇和(にしうわ)郡三瓶町(みかめちょう)、東宇和郡の明浜町(あけはまちょう)、宇和町、野村町、城川町(しろかわちょう)が合併、市制施行して成立(東宇和郡は消滅)。市域は東西に細長く、西部は宇和海に面してリアス海岸を形成、東部は四国山地を占めて高知県と接し、丸石山(1328メートル)、雨包(あまつつみ)山(1112メートル)などの高山がそびえる。海岸部を除くと肱(ひじ)川の上流(宇和川)域にあたり、岩瀬川、黒瀬川、船戸川が肱川に流入し、中央部には南予最大級の穀倉地帯の宇和盆地、野村盆地が開ける。JR予讃線が笠置トンネルで北の八幡浜市、法華津トンネルで南の宇和島市に抜ける。国道56号、197号、378号、441号が走り、松山自動車道西予宇和インターチェンジがある。
高知県境に近い山間部の穴神洞遺跡(あながみどういせき)からは縄文時代草創期の微隆起線文土器が出土した。弥生時代には宇和盆地周辺で中広銅矛や平形銅剣が検出され、坪栗遺跡からは農具などの木製品も出土している。古墳はしゃもじ型をした前方後円墳の笠置峠古墳が宇和盆地を見下ろす標高約400メートルの高地に造られた。宇和盆地の北では瓦、南では掘立柱の建物や墨書土器が検出されており、宇和町明石(あげいし)では蕨手刀が出土している。
鎌倉時代は皇室領宇和荘に含まれた。のちに同荘は公家の西園寺家領となり、西園寺家の一流は下向して土着(伊予西園寺家)。室町時代は宇和町下松葉の松葉城に拠り、戦国時代に宇和町卯之町(うのまち)の黒瀬城に移った。江戸時代の大半は、吉田藩領であった三瓶町地区、明浜町地区を中心とした地域以外は宇和島藩領として推移。卯之町(松葉朝)は在郷町・宿場町として発展し、宇和島への道沿いの町並みは重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。幕末の蘭医二宮敬作が居住し、師のシーボルトの娘イネが学び、高野長英が匿われた。城川町地区は和紙(仙貨紙)や木蝋(もくろう)が特産で、土佐への道に沿う土居は在郷町として賑わった。また城川町地区、野村町地区には、村民がつどったり巡礼などに茶の接待をする茶堂が多い。
山林面積は75%、ヒノキの良材で知られる。農業は米、キュウリなどの野菜のほかクリ、ミカン、県下屈指の生産額のユズ栽培、イチゴ・ブドウなどの施設園芸が行われる。酪農のほか畜産は県下最大級の規模を誇る。漁業は大型巻き網漁やリアス海岸の入江を利用した真珠・ハマチ・ヒラメの養殖などが盛ん。
明浜町地区の海岸線は佐田岬半島宇和海県立自然公園に含まれる。北東部、高知県に接する大野ヶ原は四国カルストで標高がもっとも高い源氏ヶ駄馬(1403メートル)を含み、四国カルスト県立自然公園の一部。法華津峠一帯は足摺(あしずり)宇和海国立公園に含まれる。面積514.34平方キロメートル、人口3万5388(2020)。
[編集部]
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