軍役(読み)ぐんやく

精選版 日本国語大辞典 「軍役」の意味・読み・例文・類語

ぐん‐やく【軍役・軍

〘名〙
① 戦争。戦役。
※続日本紀‐文武三年(699)五月辛酉「汝坂上忌寸老、壬申年軍、不一生、赴社稷之急
※開化問答(1874‐75)〈小川為治〉初「今日の士族は昔しの武士とはことかはり軍役(クンヤク)の為に設置るる事ではなく」 〔戦国策‐斉策・宣王〕
② 軍務に服する義務。
※令義解(718)軍防「在軍者。年満六十。免軍役
※開化の入口(1873‐74)〈横河秋濤〉三「ソリャコソ軍役(グンヤク)にとられるは、血を絞られる時刻が来たと」
③ 中世、武士が主君に対して負う軍事上の負担。主従制の進展に従って知行制と結びついて整備され、戦国時代には知行高に応じ、一定量の武器と要員を常備することが義務づけられた。
看聞御記‐応永二五年(1418)一〇月二九日「伏見沙汰人名主等軍役勤仕事、無先例之由令申」
※禁令考‐前集・第一・巻四・元和二年(1616)六月「軍役人数割〈略〉一、一万石、鉄炮廿挺、弓十張、鑓五十本持鑓共」

ぐん‐えき【軍役】

〘名〙
① 軍隊の服務、労働。戦時の夫役
公議所日誌‐一二・明治二年(1869)五月「国役軍役軍資金等、決して怠慢す可らざる事」
② =ぐんやく(軍役)①〔書言字考節用集(1717)〕

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デジタル大辞泉 「軍役」の意味・読み・例文・類語

ぐん‐えき【軍役】

軍隊で、軍人として務めること。「軍役につく」
戦争、戦役のこと。ぐんやく。
戦国時代以後、武士が主君に対して負う軍事上の負担。所領・俸禄に応じた部下と武器とを持つことが義務づけられた。ぐんやく。

ぐん‐やく【軍役】

ぐんえき(軍役)23」に同じ。

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改訂新版 世界大百科事典 「軍役」の意味・わかりやすい解説

軍役 (ぐんやく)

〈ぐんえき〉ともいう。

武士が将軍や大名に対し負担する軍事的夫役。中世の軍役は平安中期ごろから諸国の国衙を中心に編制された国の兵(つわもの),国侍(くにざむらい)に課された兵士役を出発点とする。彼らは武芸を代々伝えて,兵の家を形成し,国衙や国司の館の警固にあたり,国司の命令によって追捕活動に従った。その際にどれだけの武装と兵士を提供するかは,能力に応じて自発的に行うにすぎず,軍役としての規制はなかった。平安末期にいたり,源平の争乱がおこると,兵士役は弓矢・刀杖を帯する者を兵とみなし,兵を根こそぎ動員することも行われたが,これは恒常的な軍制として定着することはなかった。鎌倉幕府が成立すると軍役は御家人役として整備された。御家人役は平時には幕府・守護の命令で大番役や追捕活動を行い,戦時には幕府・守護の指揮下に入って戦争を行った。御家人がどれだけの装備や兵士をそろえるかは,やはり能力に応じてまかされることが多かったが,大番役等の平時の警固役の場合には,所領の田数に応じて負担する兵士の数がきめられた。鎌倉後期になってモンゴル襲来以後は,軍事的緊張が高まって,軍役の種類も増えた。京都大番役のほかに,東国御家人の務める鎌倉大番役,西国の有力御家人が在京して務める洛中篝屋(かがりや)役,九州の御家人が務める異国警固番役,西国を中心として蜂起する海賊・悪党の追捕等があった。それまで幕府の力の及ばなかった本所一円の地から,兵士を動員することも行われるようになった。

 室町幕府の軍役は大別すると在京奉公と在国奉公の二つからなり,前者は在京の守護や奉公衆が負担し,後者は守護に引率された国人や在国の奉公衆が負担した。奉公衆は五番に編制され,将軍の親衛軍として機能したが,軍役としての負担の程度は明らかでない。その所領は諸国に散在し,守護・国人に蚕食された所から考えて,所領の広さに応じて軍役が課されたとは考えられない。守護が幕府の軍役にどう応じたかも明らかでないが,他方守護は国内の国衙領や荘園への支配を強め,国内の中小の武士(国人)を編制した。そうした段階で,しだいに国人の所領や分給した所領に対して軍役を課すようになった。やがてそれらの所領は銭で標示する貫高や米で標示する石高で示されるようになる。こうした傾向がさらに進むのは,守護大名や有力国人が戦乱をくりかえす戦国時代になってからで,戦国大名は国内を統一基準の石高や貫高でとらえ,その量に応じて軍役を課した。そこでは負担する武具の量や兵員の量も定められるようになった。この段階にいたるまでには多くの障害があった。それは武装能力に応じてという自発性重視から,軍備強制への転換を必要とし,また重層的な所有体系の克服を必要としたからである。前者では100年以上に及ぶ戦乱が,後者では戦国大名による検地の実施がこれを克服した。
執筆者:

近世の軍役は,将軍から大名・旗本へ,大名からその家臣へと,知行の石高に応じて賦課された点では,戦国大名のそれが貫高を基準としたのと同様である。しかし,戦国大名では,馬上の武士など出陣する戦闘員の人数と彼らが携行すべき武器の種類と数量だけが軍役の内容として規定されていたのに対し,近世では,戦闘員と武器のほかに,輜重(しちよう)用の駄馬と人夫を含めた総数が規定の対象となっていた点に,特質が認められる。豊臣秀吉の軍役規定は,1万石に250人といった簡単なものであったが,これも上述の意味での総人数である。江戸幕府の軍役規定には,大坂の陣後の1616年(元和2)と3代将軍徳川家光が幕府の実権を握った33年(寛永10)のものとがあるが,後者では,1000石の旗本は総人数23人,鑓(やり)2本,弓1張,鉄炮1挺,1万石の大名は馬上10騎,鉄炮20挺,弓10張,鑓30本,旗2本などと定められている。これだけでは総人数の内容は判然としないが,49年(慶安2)に軍学者で旗本であった北条正房(氏長)が家光の命令で作成した案(これは発布されていない)には,例えば900石の旗本は,総人数19人であり,その内訳は,侍5人,甲冑持2人,弓持1人,鉄炮1人,鑓持2人,草履取1人,馬口取2人,沓箱持1人,挟箱持2人,小荷駄2人の計19人であった。このように近世の軍役は,戦闘員である武士のほかに,必要な道具持と輜重員の数までを規定するものであったが,これは,在陣中の兵糧は,幕府や藩など動員した側が扶持するのが近世軍制の原則であり,そのためには総人数が把握される必要があったのである。

 以上の幕府の軍役規定は,旗本や譜代大名を対象としたものであって,必ずしも全大名に対して発令されたのではなかった。しかし,外様大名は幕府の意志を忖度(そんたく)して,日ごろのたしなみと忠勤とを示すために,これを上まわる人数を動員するように努めた。また実際問題としても,領国をからにして出陣することは有りえなかったので,各藩の家臣に対する軍役規定は,幕府のそれを前提としながらも,より重いものとなった。例えば鶴岡酒井藩(庄内藩)の寛永のころのそれでは,1000石の家臣の軍役総人数は26人で幕府より数人重く定められていた。75年(延宝3)の紀州家の場合も1000石で26人であった。これらの家臣からの人数のほかに,藩が直接に抱えていた足軽の部隊を入れると,各藩は幕府の軍役規定をはるかに上まわる兵力を常備していたのであり,例えば1643年(寛永20)に米沢藩が幕命で会津城の受取に出兵した実際の人数は,幕府の規定では馬上(馬上で出陣する武士)170騎,鑓150挺,鉄炮350挺,弓60張,幟(のぼり)20流に対して,馬250,鑓500,鉄炮1000,弓200,幟30と,幕府のそれを2,3倍上まわるものであった。こうした人数を常時召し抱えておくことは,経済的には不可能であり,とくに輜重要員には役として徴発された百姓が充当された。また,幕府の規定には直接示されていないが,戦争遂行に不可欠な大工・鍛冶などの職人も,職人身分にともなう役として戦陣に動員された。近世の軍役は,武士以外の身分にも賦課されることでその全体系が成立していたのである。

 軍役の中心は以上のような戦争への動員にあったが,そのほかにも幕府の命令による諸大名の動員は,すべて軍役とみなされた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦以降,家康は大名統制の手段を戦争にではなく参勤の強制や普請役の賦課に求めたが,これらも当時は軍役と意識されていた。主として譜代大名が務めた江戸城,大坂城,駿府城などの警備も,もちろん軍役であった。普請役は,江戸,大坂,名古屋などの城と市街の造成を大名に割り当てるもので,家光のころまで繰り返し行われたが,このための人夫の動員も最終的には藩を経て百姓に転嫁された。例えば肥後熊本の加藤忠広(52万石)は,22年(元和8)の江戸城本丸石垣の御手伝普請(おてつだいぶしん)に約5000人の人夫を半年間国元から動員したが,そのうち1200人が藩お抱えの足軽であり,3400人が百姓,400人が水夫(かこ)であった。このような動員は農村を疲弊させ,それは大名財政の窮乏につながっていくが,このことがあらわになったのが,38年(寛永15)の島原の乱と41-42年の寛永の飢饉であった。これを境に大名の大動員は姿を消し,寺社や河川の初期に較べれば小規模な普請役,それも貨幣による代納が多くなった。次に若党・中間・小者など戦時には道具を持ち,平時には登城の供回りや雑用を務める要員は,初期は譜代や所領の百姓の年季奉公によったが,17世紀後半以降は一年季出替りの渡り者や日雇いが主流となった。幕末,1862年(文久2)幕府は旗本の軍役規定を改正し,石高に応じて歩兵隊の要員を差し出させることとし,さらに67年(慶応3)にこれを金納に切り替えたが,諸藩に対する軍役には変更がなく,長州征伐に参加した諸藩も初期の軍役規定によって動員された。
軍制
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍役」の意味・わかりやすい解説

軍役
ぐんやく

「ぐんえき」ともいう。武士が主君に対して提供する軍事上の負担。鎌倉時代には、御家人(ごけにん)が鎌倉幕府に対して、平時の番役や非常時における軍役を負担した。その負担は御家人という身分に義務づけられているものであって、御家人は家子郎党(いえのころうとう)の一族を率いて軍役を勤めた。室町幕府もほぼそれを継承したが、戦国時代になると、戦国大名は寄親(よりおや)・寄子(よりこ)制によって家臣から軍役を徴し、強大な軍事力を編成した。

 しかし、武士が主君から与えられる知行(ちぎょう)に対する代償、すなわち御恩に対する奉公のなかでもっとも重要なものとして、軍役が確立するのは、安土(あづち)桃山時代以後のことである。豊臣(とよとみ)秀吉の「朝鮮陣軍役立」に始まり、江戸幕府の1616年(元和2)、33年(寛永10)、49年(慶安2)の軍役令によって改定され確定された軍役制度は、石高(こくだか)制に基づく知行石高を基準として軍役負担を定めたものである。なお、この幕府の軍役規定のうち、49年の規定は、私案にとどまっていたものであるとする意見もある。これら幕府の軍役規定は、幕府に対する大名、旗本、御家人の軍役を定めているが、それはたとえば、知行高1万石については、人数235人、馬上10騎、鉄砲20挺(ちょう)、弓10張、槍(やり)30本、旗3本というものであった。そして、このような負担の量は、戦時だけではなく、参勤交代をも含む平時の幕府に対する奉公の際の基準ともされていた。

 藩主である大名もまた、この幕府の規定にのっとって、それぞれの藩の軍役規定を定めた。たとえば1637年、津(藤堂(とうどう))藩は、知行高1000石に対し、若党5人、弓者1人、鉄砲者1人、薬持1人、道具持4人、具足持2人、馬取5人、甲立1人、指物竿(さしものさお)1人、挟箱2人、弁当2人、草履(ぞうり)取2人、人足3人、合計30人という細かな規定を定めている。大名は、これらの藩士から軍役として徴した軍事力を藩単位に編成して、幕府への軍役奉公を行ったのである。

 幕末に至って軍事力の再編が必要となると、幕府は1862年(文久2)、66年(慶応2)の二度にわたって軍役規定の改定を行った。それは、洋式軍隊の編成や軍役の一部を金納化することなどを定めたものであった。しかし幕府倒壊に伴い、70年(明治3)の鎮台兵設置、翌年の陸海軍省の設置および徴兵令の発布によって、軍役は全廃された。

[佐々木潤之介]

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普及版 字通 「軍役」の読み・字形・画数・意味

【軍役】ぐんえき

いくさ。〔戦国策、斉一〕齊は地、方二千里、帶甲數十(も)し軍役るも、未だ嘗(かつ)て太山に倍(そむ)き、河を(わた)り、渤らざるなり。

字通「軍」の項目を見る

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「軍役」の意味・わかりやすい解説

軍役
ぐんやく

武家時代,武士が主君の施す恩賞に対する義務として負担する軍事上の役務をさした。鎌倉時代には幕府の命令で,惣領が一族を率いて奉仕したが,室町時代から江戸時代にかけて,大名は家臣に軍役を義務づけ,中央政権は大名に軍役を分担させるようになった。とりわけ,江戸幕府は,元和2 (1616) 年,次いで,寛永 10 (33) 年,慶安2 (49) 年と次第にその制度化をはかり,慶安軍役は,長く準拠とされた。すなわち,200石あたり,侍1,甲冑持1,馬口1,小荷駄1,槍持1,合計5人といった割合で石高に応じた。いったん事ある際はもちろん,平時でも国替のときなど幕府に差出す最低義務人員を規定した。文久2 (1862) 年以降,内外の情勢に対処してたびたび軍役の規準を変更した。

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百科事典マイペディア 「軍役」の意味・わかりやすい解説

軍役【ぐんやく】

将軍または大名が部下に課した軍事上の負担。鎌倉時代にも大番役などの形で行われたが,豊臣秀吉の下で朝鮮出兵に際して,全国統一基準による軍役が施行された。江戸幕府も1616年,1633年,1649年(案のみで発布されなかった)にそれぞれ石高(こくだか)に応じた軍役基準を制定。
→関連項目表高貫高黒川金山

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「軍役」の解説

軍役
ぐんやく

武士が将軍や大名に対して負う軍事的役負担。鎌倉時代からあるが,負担が量的に規定されるのは戦国期から。統一基準の貫高などで国内を把握した戦国大名は,その量に応じて戦闘員を出させた。豊臣秀吉は日本全国に石高に応じた統一的な軍役を課し,戦闘員のみではなく陣夫までの総数を規定し,兵粮支給の原則を確立した。これは江戸幕府に引き継がれ,秀吉が無役とした大名蔵入地にも役を課すなど,より厳密になった。1616年(元和2)・33年(寛永10)に軍役規定が出され,武士はこの規定に従って常時武器と人数を用意しておくことを要求された。参勤交代,幕府の城郭普請や河川改修の手伝い,改易大名の城地受取りなども軍役と意識された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「軍役」の解説

軍役
ぐんやく

武家社会において,家臣が主君に対して負う軍事上の負担
鎌倉時代は,君主からの御恩に対する奉公として,所定の負担義務はあったが,数量的に負担が規定されるのは,貫高制に基づいて知行を配分する戦国期からである。豊臣秀吉は,朝鮮出兵を機に石高制に基づく,統一的な軍役体系を成立させた。江戸幕府もこれを継承し,1616(元和2)年,'33(寛永10)年の軍役令によって知行高に応じた軍役体系を整え,武士はこの規定によって,常時武器と人数を用意することが要求され,参勤交代,幕府の城郭普請や河川改修などの土木手伝いなども軍役とされ,諸大名も家臣に対して類似の軍役規定を定めた。

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世界大百科事典(旧版)内の軍役の言及

【江戸時代】より

…受けた侮辱は切腹を覚悟して晴らさないとひきょうと非難されたのであり,〈武士道とは死ぬことと見つけたり〉という《葉隠》の有名な言葉は,江戸時代の武士が置かれたこのジレンマに関連している。
[役による編成]
 兵農分離は,このように庶民と武士との政治的能力を峻別したうえで,すべての集団を〈天下惣無事〉を強制する軍隊に〈軍役(ぐんやく)〉を通じて奉仕させるシステムを作るものであった。端的にいえば戦国大名の軍隊は,農村の所領から下人や農民を引きつれて出陣してくる兵粮・武器自弁の武士の寄せ集めであったが,石高制を規準に編成された近世大名の軍隊は,騎馬で戦う武士のほかに,蔵入地から給養される鉄砲・弓・槍の足軽隊,農民・水夫(かこ)や職人から成る補給部隊から構成されていた。…

【軍役帳】より

…戦国大名または近世大名が,家臣の1人ごとにその提供すべき軍役の内容と量を割り当てるために作成した帳面。単に役帳ともいう。…

【郷士】より

…一藩内において旧族郷士と取立郷士が混在している場合も少なくない。薩摩藩や土佐藩の郷士は,若干の給地(無年貢地)を受け,それに百姓地(年貢地)を加えて農業経営を営み,かつ軍役を負担するものが多いが,こうした性格の郷士を郷士の基準型とすることができよう。このような郷士のほか,給地がごく少なく身分的にもあまり高いとは思われないもの(延岡藩の小侍や郷足軽),給地・給米のないもの(無足人),軍役を負担しないもの(十津川郷士)など,その性格はさまざまである。…

【石高制】より

…土地の標準収穫量である石高を基準にして組み立てられた近世封建社会の体制原理をいう。
[貫高制との相違]
 戦国大名も貫高制に基づいた検地を行い,軍役基準を定めたが,土地面積に応じた年貢賦課が原則で,どれだけの収穫量があるかについては無関心であった。田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。…

【文禄・慶長の役】より

…その中核には織豊取立大名が配置され,旧族大名である外様を実際に動員できるような体制がとられている。諸大名に賦課された軍役は,たとえば九州大名は知行高100石について5人役(本役)のように,石高制に依拠した形をとっている。豊臣政権の軍役体系は,外様大名を含めた全領主階級を包摂して成立しており,ここに封建的ヒエラルヒーの完成した姿を見い出すことができよう。…

【役高】より

…日本近世において,大名以下に賦課される軍役普請役の量は石高を規準として定められたが,これを役高という。領知・知行高がすなわち役高である場合と,これとは別に設定される場合とがあった。…

※「軍役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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