金光寺跡(読み)こんこうじあと

日本歴史地名大系 「金光寺跡」の解説

金光寺跡
こんこうじあと

[現在地名]大子町川山

高台に位置し、前方金光寺前こんこうじまえ耕地が開ける。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると近津山成就院と号し、近津三所ちかつさんしよ明神の御朱印高三六石余のうち二九石余を収納する別当職で、「当山三宝院流ニテ入峰之節ハ従南都超昇寺宿令修行候」とあり、同行七三人を有した。もと奥州棚倉領八槻やつき明神別当大膳だいぜん(現福島県東白川郡棚倉町)下住の本山派であったが、中世末期に分派して当山派となった。


金光寺跡
こんこうじあと

時宗で黄台山と号し、現京都市下京区材木ざいもく町にあったが、明治四一年(一九〇八)長楽ちようらく(現京都市東山区)に合併された。俗に遊行ゆぎよう寺・七条道場とも称した。創建は正安三年(一三〇一)、七条仏所より仏師定朝の邸跡を寄進したことに始まるといわれるが(七条道場記録)、「山城名勝志」には建長三年(一二五一)とも記す。以後諸人の信仰を集め、「今日宮御方密々有清水寺御参詣(中略)御輿於七条道場(「二水記」永正一八年二月一二日条)、あるいは「参詣七条道場(「親長卿記」文明一一年二月一五日条)というように皇族公卿の参詣も多かった。


金光寺跡
こんこうじあと

[現在地名]鳳来町上吉田 中平

明治一一年(一八七八)廃却。初め真言宗であったが、のち禅宗の満光まんこう寺の末寺となった。廃却後、仏像などは満光寺に移されている。寺伝によると、蘇我稲目の家臣某が僧となり、推古天皇の二〇年白倉しらくらの地に釈迦堂を建立。その後野火に焼け、上吉田の中平かみよしだのなかひらに再建して、曹洞宗閻浮山金光寺と称した。本尊は阿弥陀三尊。天文元年(一五三二)満光寺が再興されるまでは当地方第一の大寺で、鈴木長門守家の菩提所であったという(八名郡誌)

鈴木長門守重勝系譜(鈴木武氏蔵)に「永禄六年上吉田村中平 閻浮山金光寺本尊仏供田寄進」「釈迦堂之南古城在城主鈴木公当寺守護之大檀那也。


金光寺跡
こんこうじあと

[現在地名]那珂町福田

福田ふくだの中央の南方台地に位置し、中坪なかつぼ館跡の西側にある。福田山と号し、臨済宗。本尊は観世音菩薩であった。境内の二間余四面の観音堂(仮堂)には今も准胝観世音菩薩が安置される。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)に「済家宗増井村正宗寺末寺」とみえ、開山は康安元年(一三六一)で、佐竹義篤の建立という。


金光寺跡
こんこうじあと

[現在地名]堺市宿屋町東三丁

宝珠ほうじゆ院の西にあった時宗寺院。山号松藤山。別名あみ(阿弥)道場といい、本尊薬師如来が漁師の網によって引揚げられたためとも、往阿弥が中興したためとも伝える(堺鑑)。承和年間(八三四―八四八)真澄が開創した天台宗道場であったが罹災し、住職往阿弥が引接いんじよう寺智円に帰依して正平七年(一三五二)に再興。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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