長楽寺跡(読み)ちようらくじあと

日本歴史地名大系 「長楽寺跡」の解説

長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]津幡町倶利伽羅 不動寺

国見くにみ山の津幡側の登り口に位置。現在不動ふどう寺・手向たむけ神社がある。手向神社の別当寺であった。「源平盛衰記」巻二九によれば寿永二年(一一八三)五月一一日の倶利伽羅峠の合戦で平氏軍が「倶梨伽羅ノ堂」などに布陣したとみえ、泰澄が倶利迦羅明王(龍王)を本地として開いたと伝承されるこの堂が前身であろう。同書は白山金剣きんけん(現鶴来町、本地は不動明王)の神霊の出現を付して不動信仰との習合を語っている。しかし、これより遅く成立した長楽寺縁起類は、養老二年(七一八)善無畏三蔵が山の魔性を除くため不動三昧耶倶利迦羅龍王陀羅尼を誦し、倶利迦羅龍王(明王)を勧請して開創、弘仁三年(八一二)空海が善無畏三蔵の旧跡を訪ねて登山、自作の倶利迦羅龍王像を安置して寺を建てたという(宝集寺本古縁起)。建久七年(一一九六)源頼朝が寺領を寄進したが、その後兵火にあって衰退し、慶長一六年(一六一一)加賀藩三代藩主前田利常によって復興されたと伝える(旧十握家本新縁起)。近世の復興以外、事実関係の確証はないが、近世までに不動信仰が白山系から真言系に転化したことはうかがえよう。「越後下向日記」によれば、延徳三年(一四九一)三月一二日午後「クリカラ」を越えた冷泉為広は、路の左の池(不動ヶ池)と「不動堂」を記している。

戦国後期には長楽寺と明王院の存在が確認できる。「天文日記」によれば、天文五年(一五三六)から同一六年にかけて「加州倶利迦羅長楽寺」の住持職(明王院院主職を兼帯)をめぐり、紀伊順遍と実印の間で執拗な相論が展開されている。この相論は本願寺実如のときすでに始まっており、実如は藤又ふじまた(現上藤又)の番頭の反対を押しきって順遍を住持と認めた。証如の時代に入り享禄の錯乱が起こると、対立は深刻化する。「華頂要略」門主伝二三に、享禄四年(一五三一)「賀州倶利迦羅寺明王院」が御門徒(天台宗青蓮院の門末)に参りたいと希望したので門徒の列に加えたが、後年離脱したとみえ、実印派が本願寺の本寺である京都青蓮しようれん院末に入ることによって順遍派を排斥しようとしたことがうかがえる。「天文日記」天文五年六月五日条に青蓮院門跡尊鎮法親王の言として、明王院(実印)は門徒であるが、順遍は門徒にあらず、明王院とも申さずとあるのはこの間の事情を反映している。


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]鎌倉市長谷一丁目

甘縄あまなわ神明神社の東側の谷に所在したと伝え、そこを長楽寺ちようらくじやつという。宗旨は浄土宗か。安貞元年(一二二七)七月、法然の弟子隆寛は奥州に流される途中、鎌倉での帰依者毛利季光の秘計により八月一日に相州飯山いいやまへ移され(法然上人行状画図)、この年一二月一三日に没した。これによると、隆寛の鎌倉逗留はわずかなので、当寺の開創や教義の弘通は期待できない。


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]物部村柳瀬

柳瀬の上之土居やないせのかみのどいにあった寺で、阿弥陀堂が西にあった。万世山と号し、くち(現高知市)の禅宗瑞応ずいおう寺の末寺であったが、柳瀬村一村での維持が困難となり、元禄八年(一六九五)無住となったため、久保くぼ村の宗安そうあん寺、楮佐古かじさこ村の福泉ふくせん寺、岡内おかのうち村の誓渡せいと寺の三ヵ寺に寺役を勤めるようにと本寺から下知があり、享保一一年(一七二六)より福泉寺に付属した。これについて「南路志」所引の柳瀬貞重筆記には「今に庭石庭木抔に残りあり、(中略)いつにても寺取立候へは、且家可戻旨瑞応寺より福泉寺へ書附来り、(以下略)」と述べている。


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]東大阪市岸田堂北町

岸田きしだ寺・岸田堂ともよばれ、近世の岸田堂きしだどう村中央の東西路沿いに南面して建っていた。黄檗宗。明治二五年(一八九二)神戸市に移転、跡地に枯樟と小祠が残る。伝えによると、推古天皇の創建、天長年間(八二四―八三四)弘法大師が修補したという。建治三年(一二七七)一一月二日付の洪鐘の銘に「河内国岸田堂長楽寺洪鐘」「寺塔鐘惣大勧進聖人定眼房良円、大工左馬允丹治国則」とあった(大阪府史蹟名勝天然記念物)


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]安佐南区安古市町長楽寺 奥河内

「芸藩通志」は慶長年間(一五九六―一六一五)住僧優仙が記した寺記に「佐西郡安庄友村にあり、福寿山不動院長楽寺と称す」とし、延喜五年(九〇五)大納言祐純の弟覚円が真言霊場として開基、醍醐天皇の時に寺地は免租となった。弘安六年(一二八三)武田信隆が寺領を寄進し祈願所としたが、永仁(一二九三―九九)の頃一時衰退、武田信治の次男信澄が中興してからは武田氏滅亡まで一族の信仰を受けた。


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]河合町大字長楽

長楽字北浦きたうらの春日神社付近にあった寺。天養元年(一一四四)六月日の東大寺解案(東大寺文書)に、東大寺の末寺として小東こひがし荘内長楽寺がみえる。また同年同月の東大寺領小東荘坪付(同文書)、平治(一一五九―六〇)頃の大和国小東荘坪付(尊経閣文庫蔵藤井貞幹影抄文書)によると、広瀬ひろせ郡一三条二里三六坪に長楽寺敷地二段があり、寺田として同郡一四条四里一一坪に一段、城下しきのしも郡西郷一二条六里二三坪に一段があった。


長楽寺跡
ちようらくじあと

[現在地名]東広島市高屋町稲木

鷹巣たかのす山東南麓に走る河谷の一つ栗本くりもと谷から南に入る小支谷入口にあり、現在五体の石仏を安置する堂と、石造地蔵菩薩像とともに行賢作の石造不動明王像・多聞天像を納め、「崗南山」の扁額を掲げた小堂がある。不動明王像は彩色の船形光背に陽刻され、光背裏に「元亨二年六月三日 願主行賢」の刻銘がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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