鳥越城跡(読み)とりごえじようあと

日本歴史地名大系 「鳥越城跡」の解説

鳥越城跡
とりごえじようあと

[現在地名]鳥越村別宮・三坂・釜清水・上野

大日だいにち川右岸のしろ山の尾根筋に位置し、出合であい二曲ふとぎ城とともに国指定史跡別宮べつく城ともよばれ、戦国期の城跡とされる。当時の城主は山内(二曲)氏・鈴木氏とされ、天文期(一五三二―五五)の山内右京進(「天文日記」同六年一二月四日条など)や天正期(一五七三―九二)の鈴木出羽守(四月一二日「本願寺顕如消息」林西寺文書・九月八日「七里頼周書状」高山別院照蓮寺文書)などが知られるが、城自体の存在を示す当時の史料は未見。

鳥越城跡
とりごえじようあと

[現在地名]安心院町鳥越

龍王りゆうおう山の南麓,東側を深見ふかみ川が流れる標高約一七〇メートル,北高約三〇メートルほどの台地上に位置する。現在は旧龍王小学校の跡地となっていて、北側隣接地には真宗大谷派光勝こうしよう寺がある。深見谷を一望できる要害の地で、面積は二町歩ほど。土塁・堀の一部も遺存し、門口もんぐちほり馬場ばば櫓の辻やぐらのつじ切寄きりよせなどの地名も残る。代々深見氏の居城とされる。文明三年(一四七一)三月一七日の杉重隆書状写(矢治文書)や同日の陶弘護等連署感状案(永弘文書)に「鳥越合戦」とみえ、当地で合戦があったことが知られる。城主とされる深見氏は「宇佐郡地頭伝記」によれば大神姓で、深見谷を領して氏としたという。

鳥越城跡
とりごえじようあと

[現在地名]大瀬戸町雪浦上郷

角力すもう灘に注ぐ雪浦ゆきのうら川の河口部に築かれた中世の城の跡。田河氏が居城していたとされるが、元応二年(一三二〇)某月二七日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録案(東福寺文書)彼杵そのき庄内の一分領主田河彦太郎がみえる。文明一二年(一四八〇)田川隆重は加々良かから(現佐賀県鎮西町)から出て旧領を回復しようとする大村純伊を援助したという。

鳥越城跡
とりごえじようあと

[現在地名]三島町鳥越

後谷うしろだにを経て小木おぎ(現出雲崎町)に至る通路上に位置する南北朝期の山城跡。本丸が北東から南西に延び、その南西に二ノ丸が配列され、四囲を帯郭がめぐる。新田氏の一族鳥山将監の居城と伝え、上杉憲顕に属した色部・中条両氏のために貞治年中(一三六二―六八)に落城。永正六年(一五〇九)上杉・長尾両氏の争乱では、毛利安田氏が居城したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鳥越城跡」の解説

とりごえじょうあと【鳥越城跡】


石川県白山市三坂町にある中世の山城跡。指定名称は「鳥越城跡 附二曲城跡(つけたりふとげじょうあと)」。加賀一向一揆の最後の拠点として知られ、手取川と支流の大日川に挟まれた標高312mの丘陵を中心に主要遺構が広がっている。大日川を挟んだ対岸の険阻な山頂上には二曲城跡(市内出合町)があり、鳥越城ができる前の拠点だった。鳥越城の築城は、本願寺顕如(けんにょ)の命で加賀山内衆(白山麓門徒)の大将として派遣された紀州雑賀(さいか)門徒の鈴木出羽守によるとされる。1580年(天正8)、石山合戦で本願寺を屈服させた織田信長は、家臣の柴田勝家に白山麓の一揆軍を攻撃させ、鳥越城も落城した。その後、山内衆が城を奪回するが鎮圧され、加賀一向一揆は壊滅した。城跡のおもな郭(くるわ)には本丸、二の丸、三の丸、後二の丸など7ヵ所がある。各郭は空堀で区画され、本丸の前面には石垣積みの桝形(ますがた)門があり、ほかに自害谷、首切り谷、あやめが池などの地名が残されており、一向一揆の興亡を知るうえで重要な遺跡として、1985年(昭和60)に二曲城跡を附として国の史跡に指定された。出土した陶磁器類には中国製のものが多数あり、刀や鉄砲玉といった武器類などもあった。現在、「一向一揆歴史館」が開設されている。北陸鉄道石川線鶴来駅から車で約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の鳥越城跡の言及

【鳥越[村]】より

…河川沿いには比較的広い低地が開け,古くからの米作地帯であるが,近年は兼業化が進んでいる。城山には加賀一向一揆最後の砦となった鳥越城跡(史)がある。東部の手取川峡谷は獅子吼(ししく)手取県立自然公園に含まれ,手取温泉やスキー場がある。…

※「鳥越城跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」