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飼いならしたウをつかって魚をとる漁法。世界でも珍しい漁法で,現在は日本と中国大陸だけにみられる。ウは大食であり,飼育中のウミウの例では,1日に10cm大の魚なら約40尾を食餌とする。この貪食性,いいかえればウの高い捕魚能力を利用したのが鵜飼いである。すなわち,ウはくちばしを最大限70~80度開くことができ,体長35cm大の魚をふつうにまるのみし,強力な消化酵素で短時間のうちに溶解してしまう。そこで,ウの頸部下端を首結いとよぶ麻縄などでしばり,のんだ大きい魚が胃に入らず食道にたまるようにしておき,水に放って捕食させるのである。魚で頸部がふくらむとウを呼びよせ,吐かせて魚を漁獲する。ふつう小さな魚だけが食餌として胃に入るよう加減されているが,首結いがゆるいと,ウは満腹して魚を追わなくなる。逆に強くしばりすぎると,ウは空腹から食欲を高め,一時的に漁獲は増すが,廃鳥となるのがはやまる。
首結いはどこの鵜飼いにも共通する基本的な技法であるが,実際の鵜飼いには,手縄の有無,昼漁と夜漁,ウの種類,鵜船の有無,補助手段の有無などによって多様な技法がみられる。大別すると,ウを手縄でつないで使う〈つなぎ鵜飼い〉と,手縄を用いずウを自由に放って捕食させる〈放ち鵜飼い〉,ウの役割は魚を追うだけであって,魚は最終的に網でとる〈逐鵜(おいう)〉の三つがある。
鵜飼いに関する最古の記録は日本鵜飼いに関するものであり,7世紀中国の史書《隋書》倭国伝にみられる。それによると,7世紀はじめ,日本ではウに首結いをつけ,1日に100尾以上の魚をとっているとある。手縄についての記述がないので,放ち鵜飼いであったと思われる。放ち鵜飼いでは,1人の漁業者が多数のウをつかうことができる。またウが深いところまで潜水できるので漁獲効果が高い。《諏訪かのこ》(1756)によると,諏訪湖でも,かつて放ち鵜飼いが行われていたことがわかる。島根県益田市でも,冬季,昼の放ち鵜飼いでイナ,コイ,フナなどをとった。
しかし一般に渓流の多い日本では,ウが流されてしまうので,手縄によってウを漁業者の近くにまとめておく必要がある。このためつなぎ鵜飼いが日本鵜飼いの技法的な特色となった。
日本鵜飼いのもう一つの特色は,〈見せ鵜飼い〉として様式化され,形をととのえたことである。鵜飼いが各時代の支配階級から保護をうけてきた関係上,珍しい技法として上覧に供し,支配階級を楽しませる必要があったからである。武家社会の下で成立した鵜匠制度では,特定の鵜飼漁業者に鵜匠の名を許し,排他的な漁業特権をあたえ,経済的援助を行った。鵜飼いがその保護をうけいれたのは,閑漁期の餌代などで鵜飼いが採算のとりにくい側面を有していたためである。その一面,鵜飼いは上覧鵜飼いのほか,アユ献上の重い負担を義務づけられ苦しまなければならなかった。鵜飼いにあたえられた排他的な漁業特権が,他の河川漁業者や農民の生産活動を阻害したことは否定できないが,鵜飼いの技法を今日まで保存するについて一つの力となったことも事実である。日本の代表的な鵜飼いとなっている岐阜市の長良川鵜飼いでは,優美な装束をつけた鵜匠が,大名鵜飼いの伝統をひく洗練された船鵜飼いをみせる。かがり火をへさきにつるして川を下る鵜船から,鵜匠が12羽,中鵜使いが6羽の手縄につないだウを巧みにさばく。また鵜船を川幅いっぱい1列横隊に展開させ,魚を巻狩りして一方の岸へ追いつめる〈総がらみ〉も行われる。俳句の季寄せで鵜飼いが昔から夏の部に入っているように,見せ鵜飼いのシーズンは夏であり,夏の涼を売るのが本筋であるが,涼に景・興の視覚的な要素が加わり,鵜飼いの情緒をつくっている。鵜飼いの季節はまたアユの季節でもある。鵜飼いがアユと結びついたのは偶然ではないが,ウはアユだけを選択しているわけではない。フナ,コイその他一般の雑魚ものみこむ。
しかし見せることと無関係な鵜飼いも日本各地に分布していた。前述した放ち鵜飼いもその一つである。逐鵜は西日本各地を中心に広く行われたが,このなかには,農民が農閑期に楽しみをかねて行った例が少なくない。またウをならす手間を省くため,ウの羽をつけたさおや縄を併用することが行われた。鵜船を用いず,岸上から,あるいは徒歩で川に入ってウをつかう徒歩鵜飼いも全国的に分布した。ウの使用単位が1人1~2羽と少なく,また徒歩のため漁場での行動範囲も限られるが,費用がかからず,簡便であったことが,零細な河川漁業者や農業に追われる農民に歓迎されたのである。徒歩鵜飼いには昼川のみの地方,夜川のみの地方,昼川と夜川をかねて行う地方の別があった。大伴家持が越中の任地で夜川の徒歩鵜飼いを行ったことが,《万葉集》巻十九にみられる。
日本にはウミウ,カワウ,ヒメウ,チシマウガラスの4種がいるが,鵜飼いに用いられるのはウミウとカワウである。ウミウは候鳥として本州に渡ってきて,外洋に臨む海岸で越冬する関係上,捕獲しにくい。しかも訓練に長期を要するが,体が大きく,教えこめば漁獲が多い。長良川など深い大川で多数のウがチームをつくって捕魚するところでは,2歳未満のウミウをならし,死ぬまで,ふつう15~20年間飼育する。これに対し,留鳥のカワウは,各地の森林で繁殖するため入手しやすい。ウミウより小柄であるが,ならしやすい利点がある。このため,多数のウをつかう放ち鵜飼いや,簡便さを好む鵜飼漁業者,農民に用いられた。東北日本のように,1年ごとに放って,越年飼育の煩わしさをさけるところさえあった。このように,日本の鵜飼いは,各地の風土,社会的・経済的条件に適合した独自の技法をとっていたが,かつて鵜飼いを行っていた地方は全国で150ヵ所ほど確認されており,動物性タンパク源として川魚に対する欲求がいかに高かったかを示している。明治前期の太田川(広島県)では,1羽のウが1夜でとる魚は300尾を下らなかった。貪食なウが川を狩りつづけると魚に安住の場をあたえず濫獲になる。このため河川漁業権が確立する過程で,各地の鵜飼いは制約をうけるようになり,都市寄生型の観光鵜飼いを除き,おおかた姿を消してしまった。
鵜飼いだけでなく,ウは日本人の精神生活と深く結びついていた。ウを聖鳥とする俗信や,ウの羽に安産の霊力を仮託する俗信があった。記紀の豊玉姫神話には,海辺にウの羽でふいた産屋をたてることがみられる。また石川県羽咋(はくい)市の気多(けた)神社で12月16日に行われる鵜祭は,七尾湾で捕らえたウミウを祭祀の聖なる料として祭神である大己貴(おおなむち)大神にささげることで知られている。《古事記》の国譲り神話によると,櫛八玉神がウに姿をかえて海にもぐり,海底の土で御贄(みにえ)をもる器をつくり,大己貴大神に天真魚咋(あまのまなぐい)を献じたとある。鵜祭はこの古式を伝える神事ではないかと思われる。考古学遺物としては,山口県下関市土井ヶ浜遺跡の弥生時代の集団墓地で出土した207体の人骨中に,1体だけウミウを抱いた女性人骨が発見されており,ウミウがなんらかの霊性を仮託されていた事実を示唆している。
中国では,鵜はペリカンのことであって,鸕鷀(ろじ)がウに相当する。鵜飼いは魚鷹と称される。華北では鴨緑江の一部と松花江でみられる。中部では揚子江の沿岸で盛んであり,上流の四川・雲南,中流の湖南・湖北,下流の江南一帯はいずれも鵜飼いの重要な分布地域である。また華南では,福建・広東・広西にひろがっている。鵜飼いにつかうのはカワウであり,専門の業者が人工孵化(ふか)したものを漁業者に売却したり貸したりしたのである。中国の鵜飼いは魚をとるのが唯一の目的であるため,素朴で野趣に富んでいる。寒さのひどい時期を除き一年中行うが,昼漁がふつうであり夜漁は少ない。技法的には放ち鵜飼いであるが,日本の逐鵜と同じく,網をはっておき,網に向かってウを進ませて魚をかりだす漁法も知られている。ふつうの船のほか,地方色に富んだ鵜船があり,広東・広西では,太い竹でつくったいかだ船が用いられる。また江南や湖北省漢口方面のクリークでは,長さ1.5m,幅50cmの小舟2そうを並列させ,板か棒をわたして結びつけたものを用いた。漁業者はその上をまたいで,ちょうど下駄のかわりに小舟をはく形で操業するのである。鵜飼いが終わると,舟にウやその他のものをいれ,これを担って移動する。
中国の鵜飼いが文献にあらわれるのは,確実なところでは,10世紀以後のことである。日本鵜飼いのそれと比較するとおそいのだが,このことは中国における鵜飼いの歴史が新しいことを意味するものではない。また中国西部の少数民族の間や,雲南から下ったソンコイ川筋にも鵜飼いが分布しているが,これらが漢族から習得した技法であるかどうかは不明である。
一方,ヨーロッパでは,17世紀のはじめ,フォンテンブロー(フランス)やイングランドで鵜飼いが試みられた記録がある。とくにイギリスのジェームズ1世は王室鵜匠所をテムズ河畔に建てるなど,鵜飼いに熱心であった。在位中,国内を旅行するごとに,行く先々の川にウを放って楽しんだ。しかし王が退位すると,王室鵜飼いはたちまち廃絶した。19世紀になって,イギリス,フランスに再び鵜飼いが復活したが,これも短命に終わり,鵜飼いはついにヨーロッパで根づくことができなかった。ヨーロッパの鵜飼いは,鷹狩の技法を活用し,釣魚,その他のスポーツがしにくい真夏に,川や池で楽しむものであった。魚をとることより,スポーツの一種として,ウを飼育,訓練すること自体に主眼がおかれていた。ヨーロッパの鵜飼いの起源については,オランダの航海者が中国から伝えたとか,イエズス会の宣教師によってもたらされたというが,はっきりしたことはわからない。
執筆者:可児 弘明
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…網では,海でシラスアユを漁獲する巻網,袋網,成魚をとる四つ手網,投網,刺網,引網などが用いられる。現在でも夏の風物詩として残るウを利用した鵜飼いは,7世紀の《隋書》倭国伝にも見える古くからある漁法で広く存在したが,その一部が様式化されたものといわれる。また,初秋には産卵のため川を下るアユをすのこで川をせき止めて漁獲する方法もある。…
…江戸時代,京都西郊の桂の地に住み,特徴ある白布の被物(かずきもの)を頭に巻き,年頭八朔には天皇・公家・京都所司代をはじめ富豪・有力諸家に出入りし,婚礼・出産・家督相続などのさいに祝言を述べた桂女は,古くさかのぼると平安後期,桂供御人として天皇に桂川の鮎を貢献した鵜飼い集団の女性たちであった。鎌倉時代には鮎を入れた桶を頭上にいただく鮎売りの女商人であったが,生業の鵜飼いが衰える室町時代には鮎鮨,酒樽,勝栗などを持ち,畿内を中心に広く各地の公家・寺院・大名の間を遍歴する一種の遊女として姿を現す。…
…その他,タデの葉,サンショウ・クルミの皮の汁,石灰などを川に流すドクナガシ(毒流),川水を濁すニゴシブチ(濁淵),流れをせきとめて行うセボシ(瀬干),カイボリ(搔掘)なども古風な漁法である。なお,今は観光化して著名な長良川などの鵜飼いも,高知県四万十川上流残存のウヒキ(鵜曳),トリヒキ(鳥曳)習俗にみるように,かつてはさらに広く各地で行われていた。川狩り【橋本 鉄男】。…
…本支流の各地にキャンプ場が開かれ,アユ釣りでも親しまれる。岐阜市内も清流が流れ,水泳場にもなり,夏の夜には観光鵜飼いが行われる。また都市用水,灌漑用水にも利用される。…
…長良川水系での鏡島湊と大野湊,本郷湊と間島,竹ヶ鼻村との対立,揖斐川水系での大垣湊と舟付,栗笠,烏江との争論などがそれである。
[長良川の鵜飼い]
全国的にも,また美濃国内でも幾ヵ所かで行われていた鵜飼いのなかで,長良川の鵜飼いは,尾張藩の支配下にあって,将軍家献上ということで,鵜匠,御鮨屋に対する保護はもちろんのこと,幕府法令をもって長良川水系を鵜飼い最優先の川となし,鮎鮨の江戸搬送には老中奉書をもって,東海道宿継ぎを確実ならしめるなど,特別の保護や特権が与えられていた。また,19世紀に入ると,近代以降の観光鵜飼いの出発ともいうべき庶民の鵜飼い見物船が多数出るようになった。…
※「鵜飼い」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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