古代に天皇・皇后・皇太子と官人の食事の調理をつかさどった人。令制の大膳職・内膳司・春宮坊主膳監には260人の伴部の膳部が属した。律令国家成立以前の6~7世紀には,地方豪族が大王に服属する際に,一族子弟を舎人(とねり)・采女(うねめ)などとともに,調理・饗膳をつかさどる伴(とも)である膳夫(かしわで)として大王に近侍させた。これは,応神天皇の吉備行幸の際に吉備氏の祖が兄弟子孫を膳夫となして饗したとか,清寧天皇代に諸国に白髪部舎人・白髪部靱負とともに白髪部膳夫を置いたとかの《日本書紀》の説話,景行天皇の東国巡幸の際に東方諸国造12氏が子弟を膳夫に進めたとの《高橋氏文》の説話から知られる。伴の膳夫を大王のもとで統括するのが伴造(とものみやつこ)の膳(高橋)氏,阿曇氏である。〈かしわで〉の語源は,デ=テは人の意,カシハは柏の葉を食器に用いたことに由来するとの説もあるが不詳。なお,〈かしわで〉は朝廷の官職に限らず,仕丁の副丁の廝丁も〈かしわで〉であり,中世寺院にも膳などと称する職があった。
執筆者:石上 英一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代において朝廷の食膳(しょくぜん)を調えることを職とした専門集団の称。膳夫(かしわで)とも。膳部の統領(伴造(とものみやつこ))を膳臣(かしわでのおみ)といい、孝元(こうげん)天皇の皇子大彦命(おおひこのみこと)(阿倍臣(あべのおみ)の祖)の孫磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が景行(けいこう)天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を調進して嘉賞され、膳部の統領に任命されたのが起源であると伝える。膳部は中央にあって天皇・百官の食事の調製にあたり、また各地に分散居住して食料品の貢納を担当した。
律令制(りつりょうせい)下では宮内省(くないしょう)大膳職(だいぜんしき)に膳部160人、同省内膳司(ないぜんし)に膳部40人が所属し、それぞれ百官・天皇の食膳の製造に従った。このうち、内膳司の長官(正(しょう))には膳臣(のち高橋朝臣(あそん))を任命することが多く、その場合とくに内膳奉膳(ないぜんのぶぜん)と称せしめ、一般官人を任じた内膳正(しょう)(かみ)と区別した。
[黛 弘道]
…供御(くご)(天皇に供する物)の食事や皇后の食事の調理をつかさどる(供膳は後宮職の膳司がつかさどる)。職員は奉膳(ぶうぜん)(長官)2人,典膳(てんぜん)(判官)6人,令史(主典)1人,膳部(伴部)40人など。飛鳥浄御原令以前から存在した膳職が,大宝令により官人等の食事をつかさどる大膳職(だいぜんしき)と,内膳司に分立した。…
…その起源はいつの時代にさかのぼるかつまびらかにしないが,彼らは職業神として竈君(そうくん)(竈神(かまどがみ))をいただき,竈君の生誕日とされる旧暦の8月3日には竈君廟(びよう)に参詣したという。【田中 静一】
[日本]
古く日本では料理人のことを膳部(膳夫)(かしわで)といった。記紀にはしばしば膳夫の語が見られ,日本武尊の東国遠征や景行天皇巡幸の記事には七拳脛(ななつかはぎ)や磐鹿六鴈(いわかむつかり)が膳夫として随行したと記されている。…
…和訓は〈おほかしはてのつかさ〉。職員は,大夫(長官),亮(次官),大進・少進(判官),大属・少属(主典)各1人,主醬,主菓餅(品官)各2人,膳部(かしわで)(伴部)160人,雑供戸(品部)等。朝廷における恒例・臨時の職務に携わる官人等には,俸禄とは別に主食,副食,調味料が素材または調理品の形で給食されるが,主食は大炊寮が担当し,大膳職は副食,調味料の調達,製造,調理,供給を担当した。…
※「膳部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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