デジタル大辞泉
「武雄市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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武雄市
たけおし
面積:一二八・九六平方キロ
県の南西部にあり、西と北は丘陵と低い山に囲まれ、南東部は杵島山麓まで水田地帯で武雄盆地となっている。杵島郡内の山内町と他の六町を西と東に分ける形に位置し、南北に細長い「く」の字形の地形。
現西川登町神六山に源を発する潮見川は東川登町を縦断して橘町に至り、武雄盆地を潤し六角川となって有明海に注ぐ。武雄町の下山から流れ出した武雄川は橘町の二俣で六角川に合流する。市の中央に武雄温泉があり、「肥前風土記」の杵島郡に「有湯泉」とみえ、温泉湧出の歴史は古く、奈良時代にさかのぼる。
市名の起源は、温泉の南一キロにある御船山東麓に鎮座する武雄神社から名付けられたもので、同神社の創祀は一〇世紀で、その社域は武雄の内とよばれたと伝える。天暦五年(九五一)の四至実検状(武雄神社文書)には「肥前国杵嶋西郷武雄宮」とあるが、一般に地名として武雄とよばれたのは江戸時代中期以後である。
〔原始・古代〕
先土器時代の打製石器の出土地は現若木町の池の平、武内町の赤穂山、西川登町の小田志、武雄町の川良などの山麓地帯で、サヌカイトの尖頭器・石刃などの遺物散布地となっている。なかでも川良の柏岳山中には石器の製造場があったと推定されている。
縄文時代の単独の遺跡はまだ発見されていないが、黒曜石の石器・鏃・石刃が地表で採取されており、橘町のおつぼ山神籠石の水門柵柱の穴から縄文式土器片(阿高式)と黒曜石の掻器各一が、また朝日町甘久の甕棺群集墓のある丘陵の地表から縄文式土器片が採取されている。縄文期の人々は山麓・山間部で採取経済を営んでいたが、弥生時代には水稲栽培を行うため低湿地帯に移住してきたものと考えられ、武雄市内で弥生時代および古墳時代の遺跡が発見されているのは武雄・朝日・橘の三町である。昭和五〇年(一九七五)の調査によれば、甕棺群集墓は武雄町二、朝日町二、橘町三である。弥生時代の住居跡は朝日・橘両町に各一ヵ所である。
市内には前方後円墳は一基も発見されていないが、横穴式の円墳は一七四基を数え、箱式石棺墓は一七ヵ所にある。県下でも珍しい巨石箱式石棺は武雄市だけに三基ある。いずれも一トンないし五トンの巨石が組み合されている。武雄町では古墳時代の住居跡が発掘調査され、出土品などから古墳時代初期のものと確認された。全国で約一〇ヵ所余り発見されている古墳時代の列石遺跡である神籠石の一つが橘町にあり、国の史跡に指定された(→おつぼ山神籠石)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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武雄〔市〕
たけお
佐賀県南西部,丘陵性の山地に囲まれた六角川上流の小盆地にある市。1954年武雄町と橘村,朝日村,若木村,武内村,東川登村,西川登村の 6村が合体して市制。2006年山内町,北方町と合体。武雄温泉を中心とした市街地の武雄は,中世後藤氏が地頭になってからその城下町として発展。享保2(1717)年長崎街道がそれまでの塩田経由から武雄を経て嬉野に通じるようになってからは,温泉町と宿場町を兼ねていっそう発展した。長崎,佐世保,伊万里,相知にいたる各道路の分岐点にあたる交通の要地で,県南西部の中心地。機械・金属工業,窯業が行なわれるほか,弓野人形などの民芸品もつくられる。東部の北方はかつて炭鉱町として栄え,閉山後は工場が進出。農村部では米作のほかミカン,チャ(茶)の栽培が行なわれる。市域には原始時代の遺跡や条里制の遺構がみられ,国指定史跡のおつぼ山神籠石と肥前磁器窯跡のほか,唐津焼の窯元が点在し,御船山,御船山楽園など観光地が多い。川古のクス,黒髪山のカネコシダ自生地はいずれも国の天然記念物に指定。国指定重要無形民俗文化財の武雄の荒踊を伝える。武雄温泉の新館および楼門は国の重要文化財。北端部は八幡岳県立自然公園,西端部は黒髪山県立自然公園に属する。JR佐世保線,国道34号線,35号線,498号線が通じ,長崎自動車道,西九州自動車道のジャンクション,インターチェンジがある。面積 195.40km2。人口 4万7914(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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