平城(読み)ヘイジョウ

デジタル大辞泉 「平城」の意味・読み・例文・類語

へいじょう〔ヘイジヤウ〕【平城】

平城京」の略。
中国で、北魏時代前期の都。398年、北魏の道武帝建設し、494年、孝文帝洛陽へ遷都するまで存続した。現在の山西省大同にあたる。

ひら‐じろ【平城】

平地に築いた城。ひらじょう。→山城やまじろ

ひら‐じょう〔‐ジヤウ〕【平城】

ひらじろ

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精選版 日本国語大辞典 「平城」の意味・読み・例文・類語

へいじょう ヘイジャウ【平城】

[1] 中国、北魏前期の国都の所在地。現在の山西省大同市。漢代の平城県の故地に三九八年北魏の道武帝が中国風の都城を建設、四九四年、孝文帝の洛陽遷都まで存続。
※広益熟字典(1874)〈湯浅忠良〉「平城 ヘイシャウ ヒラジロ」

ひら‐じょう ‥ジャウ【平城】

〘名〙 平地に築いた城。ひらじろ。
太平記(14C後)一七「さしもなき平城(ヒラジャウ)に籠りて取巻れなば」

ひら‐じろ【平城】

※築城記(1565)「ヒラ城の塀は高さ六尺二寸」

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日本の城がわかる事典 「平城」の解説

たいらじょう【平城】

福島県いわき市にあった江戸時代の梯郭式の平城(ひらじろ)。磐城平藩の藩庁の置かれた城である。関ヶ原の戦いの後の1602年(慶長7)に、改易となった岩城氏に代わって磐城に入り、10万石の大名となった鳥井忠政が同市内の物見ヶ岡に築いた城である。忠政は当初、岩城氏の居城だった飯野平城(大館城)に入城したが新城の建設に着手し、1605年(慶長10)に忠政が出羽山形へ国替えになった後も、新藩主の内藤政長に引き継がれ、12年の歳月をかけて平城が完成した。平城には天守は造られず、代わりに本丸には三層櫓(やぐら)が建設された。また、従来の飯野平城を中心とした町割を改めて、武家町・町人町・寺町を分ける近世の城下町が整備された。なお、忠政は「岩城平」の地名を「磐城平」に改めている。内藤氏後も次々と藩主が変わったが、1756年(宝暦6)に安藤信成が5万石で入部し、以降安藤氏7代が藩主となり明治維新を迎えた。戊辰戦争では、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加盟し旧幕府方に属したことから新政府軍の攻撃を受け、その際に当時の家老の上坂助太夫はみずから城に火を放ち逃走した。このため城跡に建物は残されていないが、同市内平藤間の民家に焼失を免れた掻槌(さいづち)門が、同市内平新川町の民家に長橋門が移築され現存する。このほか、市内平沼ノ内の賢沼寺には、どこの門かは定かではないが平城の城門が山門として移築され現存する。また、城跡には石垣、土塁、水堀の一部が残っており丹後沢公園となっている。塗師櫓(ぬしやぐら)石垣は、同市史跡に指定されているほか、同公園に隣接して岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍ヶ城美術館がある。城跡には物見ヶ岡稲荷神社が建っている。JR常磐線いわき駅から徒歩。◇磐城平城と通称される。龍ヶ城(りゅうがじょう)とも呼ばれる。

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百科事典マイペディア 「平城」の意味・わかりやすい解説

平城【ひらじろ】

近世城郭の築城形式の一種。近世城郭の主流平山(ひらやま)城であったが,丘陵地がない場合,平たん地に堀や石垣を巡らし,わずかでも堀を掘った土を盛り上げて本丸を構築政治交通の中心となり城下町が発達松本城名古屋城など。→
→関連項目山城

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「平城」の解説

平城(へいじょう)
Pingcheng

北魏前期の都。現在の大同。4世紀初め拓跋猗盧(たくばついろ)が代公に封じられ,盛楽北都,この地を南都とした。拓跋珪(けい)皇帝となって398年都をここに定め,中国風の都城を建設,494年孝文帝洛陽遷都まで続いた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平城」の意味・わかりやすい解説

平城
ひらじろ

平地に建てられた城 (→平山城 ) 。近世に入り,城が単なる防衛施設としてだけでなく,領国統治のため,政治経済の中心地に設ける必要が生じ,天険によらない平地に城が造られるようになった。その周辺には家臣を集住させ,社会経済の発展に対応して城下町を設けた。最初のものは豊臣秀吉による大坂城 (→大阪城 ) である。

平城
へいじょう
Ping-cheng; P`ing-ch`êng

中国,北魏前期の国都。現在の山西省大同市にあたる。漢の時代には鴈門郡に属する県がおかれ,東部都尉が駐在して匈奴にそなえた。漢の高祖が匈奴に囲まれ,危うく死地を脱したのは平城の東,白登山であった。4世紀末,北魏の道武帝がここを首都として壮麗な宮城を築き,以後約1世紀間繁栄した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平城」の解説

平城
ひらじろ

城郭の地形による分類の一つ。平地に築かれた城。主郭を中心にいくつかの郭を配すなど,複郭で一定の規模をもったものをさし,小規模で単純な館はよばない。近世初頭に大規模な堀や石垣で城の防御を固めることが可能になると,領国経済の中心機能を城下で掌握するため平城が多く築かれた。名古屋城などが代表例。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平城」の解説

平城
ひらじろ

安土桃山〜江戸初期,大名の領国支配のため,平野につくられた城
軍事上のみならず,政治・経済上の中心となったため大規模になり,鉄砲の使用に備えて壮大・堅固となり,天守閣も設けられた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「平城」の解説

平城
へいじょう

北魏前期の都で,現在の大同
道武帝の398年から孝文帝が洛陽に移るまでの約100年間の国都。西郊に雲崗石窟がある。

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世界大百科事典(旧版)内の平城の言及

【御荘[町]】より

…北部には山地が広がり,西は宇和海に面するがリアス海岸をなす御荘湾が深く湾入,同湾に注ぐ僧都(そうづ)川沿いに平野が開ける。河口の段丘上にある平城(ひらじよう)が中心集落で,四国八十八ヵ所40番札所の観自在寺の門前町として開けた地である。当町域一帯は古くは延暦寺領観自在寺荘であったが,観自在寺が開発した寺領を,当時本寺であった延暦寺に寄進して荘園となったものとみられる。…

【城】より

…また,居住施設としての比重の高い(たて)や環濠集落,あるいは城壁で囲まれた都市を含める場合もあるが,その場合は城郭や城館という語を用いた方がよい。【村田 修三】
【古代】
 古代の城柵は7世紀中ごろの天智朝以前の神籠石(こうごいし)と,天智朝に唐や新羅に対する防備のため対馬の金田城,讃岐の屋島城をふくむ九州から大和にまで築いた城,8世紀の怡土(いと)城などの西国の防御的な山城(さんじよう∥やまじろ)と,8,9世紀に東北経営の拠点として築いた平城(ひらじろ)または平山城(ひらやまじろ)に分けることができる。 天智朝の百済人の指導による築城は,実戦的に防御正面に急峻な地形を選び,その背後に山稜がめぐる谷をとりいれた楕円形の平面をもち,山稜を石垣や土塁でつないでその間に数ヵ所の城門を配している。…

【山西[省]】より

…この時代,当地は趙(後趙),秦(前秦)をへて燕(西燕。都は初め平陽,のち聞喜より長子に移る)の領有となったが,鮮卑拓跋(たくばつ)氏が西燕に代わった燕(後燕)を滅ぼし,397年(皇始2)平城(現,大同市)に魏(北魏)王朝を立てた。魏の孝文帝が平城から洛陽に都を移したのは493年(太和17)である。…

【大同】より

…歴史的都市でもあり,古来,北方の遊牧民族に対する防衛拠点で,軍事上の要地として知られていた。秦代平城県がおかれ,北魏の国都となったのち,唐代雲中県となり,雲州の州治があった。遼代大同県を分置,大同府の府治となり,西京がおかれた。…

※「平城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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