科学技術政策(読み)かがくぎじゅつせいさく

改訂新版 世界大百科事典 「科学技術政策」の意味・わかりやすい解説

科学技術政策 (かがくぎじゅつせいさく)

科学技術にかかわる政策分野。経済成長と国民福祉の向上を図るうえでの科学技術の役割が認識され,総合的,計画的にその育成発達を図るための国の役割の重要性が認められるにつれ,政策の一分野として独自の領域を形成するに至った。科学技術政策は内容として,研究開発関係,研究成果の企業化や技術の導入,普及を含めた技術移転,人材養成と啓発,情報活動,国際協力,行政機構と政策・手法等に大別される。

 科学技術政策の課題としては,当面の問題処理のほかに,とくに明日を目ざした長期的視点と対策の確立,技術開発にみられる具体的目標指向と基礎的研究分野における未知分野への探究といった性格の異なった活動の両立,科学技術の社会への普及に際し生ずる影響の評価と対策,とくに環境への影響やパブリック・アクセプタンスなど社会との接点の確保が重要である。とくに日本としての長期的課題としては,高齢社会化,情報化・ソフト化,国際化など,国内での大きな社会的変化の流れへの対応,生命科学や情報技術など先端科学技術の浸透に伴う社会問題と科学技術の調和策,海外依存型体質からの脱却と創造性ある科学技術の育成策,日本の国際社会における立場にふさわしい国際協力の推進,また先端技術等にみられる国際摩擦への対応等があげられる。

明治新政府は海外への留学生の派遣,技術者や外人教師の招聘等を活発に行い,また国営企業による近代産業の育成,教育と研究の中心としての帝国大学の設置などを進め,近代科学および技術の修得と移植に努めた。また技術者養成のための専門学校,実業学校も明治30年代以後相ついで設置された。またこの時期には各省の技術業務を担当する試験所がしだいに研究部門として発達する。ヨーロッパからの技術と重化学工業製品の輸入が難しくなった第1次大戦を機として,政府は工業部門の国立研究機関の整備・新設をつぎつぎと行ったが,このなかで臨時窒素研究所(1918)の設置は,窒素工業の確立のため新技術の開発を目ざしたものとして特記すべき政策であった。科学関係では,アカデミーとしての帝国学士院の発足(1906),文部省の学術研究会議の設置(1919),また32年には研究の援助奨励を行う財団法人日本学術振興会が発足している。またはじめての民間総合研究機関として財団法人理化学研究所が政府・民間の援助のもとに1917年に発足した。満州事変以後戦時色がしだいに濃くなり国防力強化を目ざして技術振興がとりあげられ,重工業に対する各種の育成措置がとられた。国家総動員体制となった39年には企画院に科学部を置き,科学動員が進められたが,41年第2次近衛文麿内閣で閣議決定をみた〈科学技術新体制確立要綱〉は,科学と技術の各分野を総合的に振興しようとする政策として最初のものであった。〈高度国防国家完成の根幹たる科学技術の国家総力戦体制を確立し,科学の画期的振興と,技術の躍進的発達を図るとともに,その基礎たる国民の科学的精神を作興し,もって大東亜共栄圏資源に基づく科学技術の日本的性格の完成を期す〉という基本方針にその性格のすべてが示されている。

 第2次大戦後には,他分野と同じく科学技術政策面でも大きな変革が行われた。技術院(1942発足)は廃止され,科学技術行政は各方面に分散された。48年には科学者によって選ばれた代表による審議機関として日本学術会議が内閣総理大臣所轄のもとに設けられた。また政府各機関の科学技術行政の連絡調整に必要な事項を審議することを目的として,科学技術行政協議会(STAC)が続いて発足した。敗戦の日本が,経済自立を達成するために科学技術の振興を図るべしとする考えは各界で叫ばれるところであった。48年商工省の外局として12の試験研究機関を集めて工業技術庁が設置され,民間の研究助成を含め所掌の技術行政を進めることとした。また49年には工業標準化法を制定してJIS(ジス)(日本工業規格)を決定し,生産・消費の合理化を図った。一方,科学技術行政を総合的に推進する行政機関を設置しようとする動きが国会,産業界を通じて高まって,原子力開発発足と相まって,関係機関を統合して科学技術庁の新設(1956)となった。

 原子力開発は多くの人の期待を担ってスタートし,原子力委員会の設置(1956)に続いて,原子力基本法の制定,日本原子力研究所の設立など,平和利用関係一連の開発計画が進められた。57年のソ連邦の人工衛星の打上げ成功を境とする科学技術への関心の著しい上昇を背景として,日本科学技術情報センターの設立(1957),理化学研究所の特殊法人としての再発足(1958)があり,新技術の工業化を促進するため新技術開発事業団が新設(1961)された。また各省試験研究機関の整備と研究体制の強化が進められ,農林省においても61年に付属の試験場の再編成を行い農林水産技術会議が発足した。また技術革新の進展による技術者の需要増加から,理工系大学学生の養成数の増加が図られ,また技能者養成を積極的に進めるため職業訓練法(1958。1985年職業能力開発促進法と改称・改正)が制定された。さらに科学技術政策を強力,総合的に進めるための審議機関として,59年内閣総理大臣を議長とする科学技術会議が発足した。一方,新しい研究分野に対する研究機関の新設・整備が進められた。経済的に落着きをみた昭和40年代に入り,自主技術の開発の必要性が叫ばれ,大型科学技術を国の手で開発する計画が相ついでとりあげられた。動力炉開発計画(1967)についで宇宙開発計画が発足,宇宙開発委員会が設置され,このほか海洋開発に関心が高まったほか,国の資金による大型プロジェクト,開発も始められた(1966)。このように自主技術開発を目ざす国の活動は高められたが,一方,環境汚染防止,保健医療等,経済成長のかげに,なおざりにされてきた分野への対応の要請が高まったほか,科学技術の社会への適用に伴う影響を事前に評価するテクノロジー・アセスメントがとりあげられた。

 73年以後の世界石油事情の変化から石油代替エネルギー開発と省エネルギー技術の開発が重要視され,サンシャイン計画工業技術院)の名のもとに石炭液化,ガス化,地熱,太陽エネルギー利用などが推進されるとともに,省エネルギー技術,エネルギー有効利用を目ざしたムーンライト計画もスタートした。また原子力発電の推進が要請され,安全性研究が加速され,核燃料サイクル関係技術としての遠心分離法ウラン濃縮技術開発,プルトニウム利用技術,また次世代のエネルギーとしての核融合研究が重点としてとりあげられた。

 エネルギー関係以外では,情報化社会への対応のエレクトロニクスライフサイエンスが注目された。生命現象の解明とその成果の産業や福祉への利用を目ざしてのライフサイエンスは1971年から重点施策とされたが,遺伝子組換え技術の進歩などの大きな世界的潮流のなかで,急激な進展をみようとしている。一方,情報関係では,官民合同での〈超LSIの開発〉(通産省)に続く第五世代コンピューターの研究開発がとりあげられ,また進展著しい情報科学,システム工学などによる新しい分析,方法論などを用いて,技術的・社会的諸問題の解明や意思決定の科学化などを進めようとする総合的な科学技術としてソフトサイエンスが重視されるようになった。

 80年代に入って,石油危機以来の世界経済の沈滞を打破するため科学技術を活用しようとする考えから,先進国首脳会議(サミット)での合意に基づき先進国間の国際協力が加速されることとなった。一方,日米,日欧などの貿易不均衡をはじめ,先端技術製品分野における各国の技術開発政策のようなものまで国際的に論議されるようになった。

(1)行政体制 科学技術行政の調整と全般的推進を任務とするのが科学技術庁であるが,人文科学のみに関するものならびに大学における研究関係(文部省が担当)は行政対象から除かれている。研究行政の2本立て体制を補う意味もあって,大学に関する事項も含めて審議答申する機関として総理府に科学技術会議がある。各省関係では,傘下に試験研究機関をもつ農林水産技術会議,工業技術院があるほか,それぞれの実情に応じ,行政の総括調整を行う室,課,職などを置いている。また専門事項が多く,範囲が広い科学技術行政に対応するため多数の審議機関がある。立法府には衆議院に科学技術委員会,参議院には科学技術振興対策特別委員会が置かれて所要の審議に当たり,また各政党も政策審議機能のなかに科学技術問題を扱う部会などをもっている。

(2)研究開発 国のかかわり方として,民間,大学等の研究活動を助長,奨励,あるいは組織化を図る立場と,国立研究機関等の運営をみずから行う立場との両者がある。近年増加している国が主体の大型技術開発や,国費で運営される多数の国立大学は後者であるが,大学の場合,みずからの管理のもとに行われるという,運営管理上の特色がある。知識拡大を目ざす学問の研究,基礎,基盤研究については国が責任をもつ分野とされ,応用,開発研究分野については,国の行政に必要とされる試験,検定,防衛,福祉,国土保全などの国の責務となる分野や,農業等みずから研究機能をもちえないものを除く民間産業がこれに当たるものとされる。

 日本の研究活動は戦後一貫して拡大されてきている。研究者の総数は57万5000人,研究費の総額は13.2兆円(1995年,自然科学関係のみ),国民総生産(GNP)に対する比率は2.68%で,欧米諸国に比較して遜色ないレベルに達している。構成的には7割以上が民間の研究費で,国全体の研究費における政府負担割合は全体の21.7%を占めるにすぎない。日本は国防関係の研究支出が,欧米諸国より少ないことはあるが,基礎分野を含め,公共分野の支出の増加が要望されている。しかし,これまでの民間主導型の研究体制は日本の特色ともいえるもので,日本の経済成長の大きな要因であったといえよう。

 学問および基礎研究を担う立場の大学は同時に科学技術者養成の中心であるが,国立大学には学部のほか,研究に専念する多くの付置研究所が置かれている。各省の試験研究機関は,民間に研究成果を提供し,あるいは国の担当する検査,検定,気象,資源などの調査,標準の維持・設定などの業務に必要な研究を行うなど,多方面の活動をしているが,ほとんどが実用化を目ざした基礎および応用研究を行っている。また,国立研究機関に準ずるものとして日本原子力研究所,理化学研究所など大部分政府が出資する特殊法人の研究所がある。一方,国みずからがナショナル・プロジェクトとして技術開発を推進しており,これには動力炉開発,原子力船開発,宇宙開発のほか,大型プロジェクトや石油代替エネルギー開発関係などがあるが,事業団等の組織を設けるなどの直営方式や委託方式で,いずれも民間の協力を得て進めている。このほか技術開発以外のものとして,国公立研究機関の協同や民間への補助金,委託費を併用しての準ナショナル・プロジェクトがある。このほか,民間企業などの行う研究の育成を図るための補助金・委託費関係では,学術団体の育成,工業化試験(開発研究)の援助,共同研究,共同施設設置の奨励,公立試験研究機関の援助等の目的のもの,おもに大学の研究に対する科学研究費補助金などがある。また民間研究育成策としての税制上の特別措置としては企業の研究費を繰延資産として認め,その償却額は損金に算入すること,増加試験研究費の税額控除,試験研究用の機械設備,新技術企業化用機械設備の特別償却を認めるもの,試験研究法人等に対する寄付金の優遇の措置などがある。

(3)技術移転 研究開発によって生み出された技術の企業化の促進,先端的な技術の普及,公的機関・大学などの研究成果・情報の産業分野での活用促進,海外を含め技術交流の円滑化などは技術水準向上の要件であり,これらについての国が援助すべき分野は大きい。技術の産業への導入については大企業では人的,資金的に隘路(あいろ)が比較的少ないのであるが,中小企業の場合は技術を自力で改良し,あるいは新技術をとり入れていく能力が乏しいので,政策面での援助が期待される。このため国立・公立試験研究機関や地方公共団体による技術指導が行われている。農業の場合は技術指導や普及の制度が末端まで組織化されている。新技術の導入,既存技術の改良は設備投資と関連が深く,旧設備の廃棄と更新を促進することが重要である。技術革新時代に対応する償却期間の短縮その他税制上の措置がとられている。技術改良,新技術採用のための資金供給は,各種公的金融機関が取り組んでいるが,新技術企業化のための融資には日本開発銀行の融資枠があり,また科学技術振興事業団(科学技術基本法の理念にもとづき,日本科学技術情報センターと新技術開発事業団を統合して1996年設立)が開発の成功払いの委託を,前身の新技術開発事業団の1950年代から行っている。また技術を基盤としてベンチャー・ビジネス育成のための資金供給を円滑にするための方策強化が課題となっている。このほか技術の普及を容易ならしめる制度として,まず標準化は,製品,品質,製法,検査方法などの基準条件を定め,その普及を図るのであるが,製品の単純化,生産の合理化のほか,技術経験の蓄積と研究の集約などを可能にするので,工業標準化法,農林物資規格法等によってその促進が図られている。特許制度は発明を権利として保護することを目的としており,発明の奨励に役だつほか,技術の公開によって技術の企業化を促進し,またその内容を基礎としてさらに発展を可能ならしめる。また技術の商品化,技術交流を容易ならしめ技術の普及に役だつものである。近年,出願の激増等から審査の停滞などが目だっているので,制度の改善,事務の大幅な合理化などが進められようとしている。このほか依頼に応じて技術相談,技術指導を行う専門家を,国が審査し公認する技術士の制度がある。

 技術交流は世界的にも活発になりつつあるが,戦後これまでの日本の経済発展において外国技術導入の果たした役割は大きい。外国技術の導入を円滑ならしめるための措置として戦後〈外資法〉が制定され,長期的な技術導入の対価支払を保証する措置が講ぜられてきた。また貿易自由化の進展に伴い,技術導入もほぼ自由化された。技術貿易の収支は依然入超であるが,比率としては近年改善される傾向にあり,とくに新規契約分については輸出が上回る状況にある。

(4)人材養成・啓発 科学技術のための人材養成は,科学技術者,技能者などの専門家養成と,学校や社会での一般教育とに大別され,国または地方自治体が主要な部分を受け持っている。科学技術政策の立場から総合的状況を把握して充実と改善を図ることが必要である。また国の研究者の処遇の改善を図ること,科学技術者の研修・再訓練の促進,科学技術功労者・研究功績者等への表彰などのほか,国民一般を対象とした普及啓発活動が進められている。また国民への理解を深めるとともに科学技術の国際交流に寄与することを目ざして,大阪,沖縄に続く三つめの国際博として茨城県の筑波研究学園都市において国際科学技術博覧会が85年に開催された。

(5)情報活動 科学技術の情報交流を進めるうえで学協会活動,研究集会や会議のもつ意味が大きく,とくに近年国際的規模での開催や参加の必要性が多くなっているが,援助の拡大が期待されている。一方,世界的に発表される文献など情報が激増し,入手,分類,蓄積などの仕事は一組織の手に負えないようになってきている。特殊法人の日本科学技術情報センターが中枢機関として設置され,その後日本特許情報センターも設立され活動を強化しつつある。一般に情報処理業務は近年コンピューターの導入により高度化し,またデータベースの整備も進んでいる。また近年,通信技術の著しい進歩が情報処理技術と結びつき,通信ネットワークの活用による新しい情報産業が台頭する動向にあり,これに伴い情報サービスが量・質的に飛躍することが予想される。また海外では科学技術情報が国の戦略的資源としての価値が認められ,その流通を規制しようとする風潮もあるなど,情報をめぐる諸情勢は流動的である。科学技術政策として,これらをふまえ,情報活動の高度化・効率化を進めることが重要な課題である。

(6)国際協力 地球規模で解決を図るべき課題が増大するとともに,国際交流・協力が活発化しつつある。特に冷戦の終結以後,大国間で一国では実行困難な,先端的大型プロジェクトを国際協力によって推進する動きが強まっている。アメリカ主導の宇宙ステーション計画,また国際熱核融合炉の工学設計活動が92年より始まっており,いずれにも日本は参加している。また発展途上国に対しては,みずから発展する素地を培養するための協力・援助の必要性が増加し,途上国の問題解決のための問題についての共同研究や協力・援助が増大しつつある。また国連関係の機関,OECD(経済協力開発機構)等を通ずる多国間,あるいは日米,日英等の2国間の国際協力が,原子力,宇宙利用,科学技術者の交流,情報交換その他の分野で行われている。とくに世界経済活性化の鍵として先進国首脳会議において科学技術協力が強調され,また東南アジア諸国連合ASEAN)との首脳会談でも科学技術協力がとりあげられるなど,科学技術が国際政治において大きな問題となる趨勢(すうせい)にある。

第2次大戦直後から基礎科学および医学を中心として研究に対する連邦政府の援助の増大,科学技術者養成強化のための大学への援助の拡大,ヨーロッパ諸国の研究所再建への援助など,軍事技術と原子力開発等とならんで新政策を展開してきた。その後1957年ソ連の邦人工衛星打上げの成功が全米に与えたショックを機に,科学技術に対する連邦政府の努力強化の方針がたてられ,61年宇宙開発におけるアポロ計画が発足した。60年代以後社会の進歩に科学技術を用いようとする方向に政策が進められ,海洋開発,環境汚染防止,都市対策,癌対策をはじめとする保健衛生分野の計画が重視され支出も増大していった。その後政権交代が続くが,科学技術振興の基本はいちおう継承されてきた。レーガン政権のもとでは大幅な財政赤字の圧力下に,国防力の増強を重視する反面,民間活力の利用と小さな政府の実現を目ざして,実用化に近い応用,開発研究についての政府の分担を限定し,エネルギー関係への投資を縮小するなどの選別を進めた。そして国防関係の技術開発予算を大幅に増すほか,科学技術面でのアメリカの世界での指導性を強化し,強力な国防と先端産業の基礎となることを強調して,基礎研究への投資を増やし,また産業への直接助成を削減する一方,税制上の優遇措置や国有特許の民間利用の促進など間接的振興策を強化してきた。また大学と産業の連携強化のための共同研究プロジェクトの推進,共同の研究センターの設置や州段階での産学結びつきの諸施策などが進められている。

 アメリカの科学技術を見るとき,国防予算による先端技術関係の研究開発投資の大きさが目立っている。冷戦終結後連邦政府は軍民転換を強く打ち出し,国防省にあって大きな研究開発投資を行ってきた国防高等研究計画局DARPA)が高等研究計画局(ARPA)に改組され関係企業の転換などを支援する技術再投資計画を発足させた。最近のアメリカの国全体の研究投資は1710億ドル,うち政府支出は684億ドル(1995)で40%を占めている。国防関係の支出は減少傾向にはあるが,なお半ばを占めている。

 さて研究開発への政府支出の多くが契約研究,また契約によって運営される研究開発センターといった形で産業界,大学等の民間分野に流れ,国自体の研究所に流れる資金は1/4程度であり,さらにその割合は低下の傾向をたどっている。契約で運営を委託される研究開発センターは,施設を国で設置し,研究の運営いっさいを民間企業,大学,またはそのグループに委託するものである。このような契約研究が発達しているのはアメリカの特色といえるもので,政府からの受注が大きな財源になってはいるが,部外からの契約研究によって成り立っている大規模な研究所が非営利,営利の両方の形で発達しているのもアメリカの特色である。

 人材養成については1957年のソ連邦の人工衛星打上げ時に関心が高まり,いくつかの施策がとりあげられたが,教育に対して連邦政府の役割は伝統的に限定されているため大きな進展はない。しかし先端技術分野におけるアメリカの地盤沈下などの認識が一般化して,科学技術者養成の不足,高校以下での教員や施設の貧弱の是正を求める声が高まり,施策に織り込まれつつある。

 科学技術に関する行政は伝統的に各省に分属して行われてきたが,これを総合的にみるため,現在は76年に置かれた科学技術政策局Office of Science and Technology Policyがあり,政策,予算編成等における助言的機能を果たしている。またアメリカ科学財団(NSF)は基礎研究,教育に対する助成機関であるが,77年以来,傘下の全米科学審議会National Science Boardの審議をふまえ,アメリカの科学の現状および問題点を評価分析して,大統領および議会に報告する権限を与えられた。このほか各省ごとに研究開発を調整する機能ができている。

科学技術政策は20世紀初頭以来古い歴史を持ち,第2次大戦後もたびたび改革を重ねてきたが,72年のロスチャイルド報告の線に沿った体制が約20年間続けられた。ここでは政府全体の科学技術行政を総合調整する機構は置かず,おのおのの省により遂行される体制をとり,研究会議のもとで進める科学研究,および人材養成を所管する教育科学省と,経済との結び付きのもとに技術革新を進めようとする関係省との二つの流れのもとで進められてきた。

 イギリスでは伝統的に基礎・科学研究を重視・尊重する風潮が強く,反面,産業化・技術革新の立遅れが指摘されてきており,政策面でも改革が試みられてきたが,成果を挙げるまでには至らなかった。

 しかし90年代に入り,ヨーロッパ連合(EU)の成立,さらにグローバル化する世界経済の中で,イギリスの産業競争力の立遅れに対する危機感が高まり,メージャー政権は科学技術面の潜在力を経済の面に発揮させるための政策の見直しを進めた。93年5月政府は新しい政策の基本を示した〈科学・工学・技術白書〉を発表,その線に沿って政策が進められた。

 近年の戦略目標としては,国家の将来的なニーズを満たすため公的部門の科学技術を発展させること,科学技術人材の育成,科学技術に対する国民の意識・理解の向上が掲げられている。国防関係の研究は引き続き重視されているが,成果の民生への移転を促進するほか国防・民生の両用の技術センターの設立が進められている。

第2次大戦後の経済の復興は,高い科学技術の水準によってもたらされたところが大きく,科学技術政策は大きな柱となって展開されてきた。1990年の東西ドイツの統一は,政府の財政に影響を与えているが,科学技術振興は引き続き重点とされてきている。伝統的に連邦政府の施策は,各省によって行われてきており,また大学はいずれも州立で,科学研究と教育についての行政は主に州が負ってきていた。しかし時代とともに連邦政府の段階で措置すべき大規模な問題が増えて,重要研究分野への助成や,大学の拡充への資金供給が行われ,さらに72年に研究技術省が独立して設けられた。ドイツ統一後も体制はそのまま引き継がれている。ドイツ全体の研究投資は788億マルク(1995)で,国民総生産に対する比率は2.8%であり,そのうち政府支出は21.5%である。研究技術省の傘下には,旧東ドイツを含めた16の大規模研究機関,基礎研究で伝統あるマックス・プランク協会,応用技術を中心とした47の研究施設を持つフラウンホーファー応用研究促進協会などがある。また研究・技術革新に関し,各省にまたがる事項を審議するための評議会が,94年首相府に設けられた。

フランスの科学技術における特色は,まず伝統的に基礎研究に力を注いできたことであり,国立科学研究センター(CNRS。1939年創立。1996年現在7部門(人文・社会科学系の1部門を含む)から成り,約1400の研究センター等と2万5000人をこえるスタッフをもつ)や,パスツール研究所や大学関係で高い水準を維持してきている。一方国家プロジェクトとして技術開発を進めてきており,動力炉開発,国防分野のほか,宇宙開発,航空におけるアリアン・ロケット,エアバス機や,高速鉄道,海洋開発,電子,通信分野などに見られるように,世界に誇示できる多くの成果をおさめ,フランスの技術水準を高めるうえで効果を挙げてきた。しかしその後,それまでの行き方が政府主導の研究開発に偏ったため,産業における技術開発の沈滞による国際競争力の立遅れをもたらしたとして,80年代に入って成立したミッテラン政権以後,民間研究活動の振興策を積極的に取り上げるようになった。そして行政機構面では研究技術省を新設し,組織上の強化を図った。さらに,当時国内総生産比1%台であった研究開発費の増大を政策目標に掲げ,その増強を図った。その結果,90年代に入ると2.4%と,他の先進国並みの水準に達して現在に至っている。また政府支出の予算構成においても,半ばをこしていた国防関係の支出の比率は次第に低下して40%を割り,民生関係予算がこれを上回る60%を占める状況になっている。行政機構についてはその後しばしば変革が行われ,国民教育・研究・技術省が傘下に国立科学研究センターをはじめとする多くの研究機関を持つほか,政府の科学技術予算の取りまとめ,大学,民間などでの研究開発の助成を担当している。また大統領府に研究評価国家委員会がおかれており,民生向け科学技術関係機関およびそれらの機関の研究開発計画の評価を定期的に行うこととなっている。

社会主義体制の下にあった旧ソ連邦時代にあっては,高度の科学技術を計画的に育成し,産業の発展に育成していくことを国策の基本として掲げてきており,科学技術は毎次の経済5ヵ年計画の重要な部分として取り上げられた。そして基礎分野については,ソ連邦および各共和国の科学アカデミーおよび高等教育機関において研究が進められ,戦後の自然科学分野のノーベル賞受賞者も8人を数えるなど,かなりの水準を維持してきた。応用・技術開発の分野では,核兵器,人工衛星の打上げなど軍事関係を中心とした分野で,第2次大戦後顕著な成果をおさめたが,民生分野では停滞を続けていた。89年以後の国際政治における冷戦の終結に続いて,91年のソ連邦の崩壊という大きな変革が起こり,旧ソ連は15の独立国に分かれたが,旧ソ連のロシア共和国の地域でロシア連邦を組織し,科学技術については主要部分を受け継いでいる。総体的に見て政治,経済の変革が進められ,市場経済化の進展という流れの中で科学技術の面でも混迷が続いている。旧ソ連の体制の主力を引き継いでいるものの,急激なインフレの進展,政府の財政難の両者の影響の直撃を受け,研究者の給与,研究費の実質的な大幅ダウンとなり,活動が低下しているほか,研究者の海外流失が相次いでいる。こうしたなかで科学技術政策に責任を持つ機関として,科学技術政策省が91年に設立され,経済再建に必要なプロジェクトを取り上げる国家科学技術計画を93年に策定して推進を図っている。また92年には新たにロシア特許法を制定するなどの方策を講じている。

1960年代後半からの文化大革命等による社会的・経済的大混乱を経験した中国は,その後,経済建設を重視した現実路線へと移行し,75年のいわゆる〈四つの現代化〉政策(20世紀中に農業・工業・国防・科学技術を現代化し,国民経済を世界の前列にたたせる)において,科学技術を四本柱の一つに位置づけた。その後中国は〈社会主義市場経済〉という目標を立て,市場経済システムを取り入れた経済体制への移行を進めている。科学技術に関しては〈科学技術を活用した経済社会の発展〉〈ハイテクおよびハイテク産業の育成〉〈基盤となる基礎研究の推進〉を目標として掲げている。その実現を図るため,バイオテクノロジー,宇宙技術,情報技術,新材料など7分野を開発の重点として選んだ〈ハイテク研究開発計画〉を87年末に発足させた。さらに基礎研究においては主要10分野の水準向上を図る〈クライミング・アップ計画〉を91年より実施している。また96年からの第9次5ヵ年計画においては,15の振興最重点項目を掲げ,科学技術の促進を計画している。行政体制は82年の国務院機構改革において改められ,科学技術計画は国家計画委員会,生産技術に係る部分は国家経済委員会の担当となり,また国家科学技術委員会が科学技術政策の研究,上記両委員会との協力による重要科学技術研究課題の提出等を行うこととなった。研究機関としては,国家の自然科学の最高学術機構であり,総合研究センターである中国科学院のほか,国務院を構成する各行政機関付属の研究機関が存在する。中国科学院は,本院,全国13ヵ所の分院,123の付属研究所等で構成されており,科学技術スタッフは6万人をこえる。

全地球的視野で解決を要する天然資源,食糧,環境,衛生,エネルギーなどの諸問題についての活動が展開され,また発展途上国の国民経済の発展を図るための科学技術力の強化を図る援助活動が続けられている。国連における〈開発のための科学技術政府間委員会〉〈新・再生可能エネルギー政府間委員会〉などは総合的なものであるが,発展途上国援助につき国連開発計画(UNDP),国連貿易開発会議(UNCTAD),国連工業開発機構(UNIDO)などの機構において技術協力が活発化しており,また宇宙空間平和利用委員会,国連環境計画(UNEP(ゆーえぬいーぴー))などの活動のほか,国際原子力機関(IAEA),国連食糧農業機関(FAO),世界保健機関(WHO),国連教育科学文化機関(UNESCO)等の専門機関が,それぞれ技術援助や情報活動を行っている。また経済協力開発機構(OECD)においては,科学技術政策委員会(CSTP)などいくつかの委員会で交流が行われている。

 石油危機後に発足した主要先進国首脳会議の第8回会議(1982年,ベルサイユ)において,科学技術の問題が世界経済再活性化および成長の鍵を握るものとしてとりあげられ,作業部会を設けて具体的協力課題等について検討し,促進を図ることとなった。またヨーロッパではEUにおいて,ヨーロッパにおける産業の科学技術基盤を強化し,国際競争力を高めるための研究開発を取り上げている。このほか国際機関以外でも,2国間または複数国間で,巨大科学技術におけるさまざまな協力や,一般の情報交流,共同研究についての協力が数多く行われ,ますます増加の傾向にある。
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大学事典 「科学技術政策」の解説

科学技術政策
かがくぎじゅつせいさく

科学技術が社会に与えうる種々の影響を最適化するために計画的・組織的になされる施策群や,それらを統合する政策体系を指す。科学技術を政策の対象とする「科学のための政策policy for science」と,科学技術を政策遂行の手段とする「政策のための科学science for policy」とに区分されるが,両者は密接に関係している。英語圏ではscience policyの語で科学技術政策を表すことがある。

[科学技術政策の特徴]

科学技術そのものならびにその影響に対する認識の変容に伴って,科学技術政策が意味するところも変遷しており,確たる定義がない。しばしば引用されるのは,経済協力開発機構(OECD)『科学・成長・社会』(1971年,通称「ブルックス報告」)における「科学研究と技術開発に対する資源の配分,産業発展と経済成長のための戦略の基礎となる科学技術への政府の助成,さらには公共部門における諸問題への科学の適用などにかかわるもの」という文言である。

 科学技術政策は文化・教育政策,経済・産業政策,環境・都市政策などと近縁である。科学技術が未発達のうちは科学技術政策もこれらの政策から未分化である場合が多く,科学技術に対する政府の期待や懸念の高まりが科学技術政策を形成させる基盤となる。ただし科学技術関連人材育成は,科学技術のレベルによらず高等教育政策から切り離しがたい。政府が科学技術政策に取り組む目的・根拠は,①政府の援助が必要な科学技術活動の支援,②公共的ニーズのための科学技術活動の推進,③公共的観点からの科学技術活動に対する規制・統制・誘導,④科学技術活動の悪影響からの国民の保護および科学技術活動への国民の参画の4点に大別される。

 科学技術が高度に専門分化したこと,科学技術の不確実性,影響する程度や範囲の広さなどが,科学技術政策を複雑かつ多様なものにするとともに,科学技術政策への科学技術人材の参画を余儀なくさせている。加えて,科学技術活動に求められる創造性のために,科学技術コミュニティに一定の自律性が担保されてきた経緯がある。各政府は,科学的助言制度(科学アカデミー,審議会,外郭組織,科学顧問など)や研究費助成におけるピア・レビューによって,政策過程に科学技術人材を参画させている。このような複雑さに科学技術政策の固有性ならびに存立意義が認められる。

[科学技術政策の歴史的概観]

実質的に科学技術政策とみなせるものは,第2次世界大戦中やそれ以前からあった。アメリカ合衆国の初代首席科学顧問B. ブッシュが,『科学―限りなきフロンティア』(1945年)において国の基礎研究機関創設を勧告したことがよく知られている。各国の制度の中にscience policyの語が出現するのは1947年から55年ごろである。大学等の基礎的研究開発に対する支援政策(学術政策)を土台として,行政的あるいは公共的目的の研究開発を大学等に委ねる方式を採用したことから科学技術政策が始まっている。

 科学技術政策という概念が国際的に共通理解を得たのは1970年前後のことである。OECDが初の科学担当大臣会合を開催したのが1963年であり,71年に発表された「ブルックス報告」(前述)が今日的な科学技術政策概念の起源と言える。国の威信をかけた科学技術競争,科学技術活動の巨大化,産学官連携の進展,公害問題の出現などにより,多様化した施策群を調整・統制する必要が各国に生じた時代であった。ときに他国を参照しながら政策立案や制度設計が進められたが,実際の科学技術の制度や政策は国ごとに異なる歴史的背景に根ざしており,現在に至るまで多様性がきわめて大きい。産学連携や大学からの技術移転が主要課題であった時代を経て,2000年前後からはイノベーション政策や科学技術と社会・公共との関連を重視する政策への転換が進み,関連する政策分野・事項やステークホルダーが急拡大してますます複雑になっている。科学技術政策への市民参画やエビデンスに基づいた政策立案が昨今の課題である。

 日本の科学技術政策については,明治期に始まった学術政策や学士院設立が土台となり,第2次世界大戦の戦時下に科学動員ならびに技術院や科学技術審議会の設置が行われ,戦後1948年(昭和23)に日本学術会議と科学技術行政協議会(日本)(のちに科学技術庁となり,2001年(平成13)の省庁再編により文部科学省)が設置されるなど,おおむね諸外国の動向に共通または追随して推移している。特殊性としては,初期の大学にすでに工学があったこと,比較的早い1917年(大正6)に産業発達を目的とする理化学研究所が創設されたこと,戦後に科学動員を否定するところから再始動したこと,1980年代後半から90年代前半のいわゆる「基礎研究シフト」などが挙げられる。なお科学技術政策という概念が明示的に登場したのは,科学技術会議に対する諮問「1970年代における総合的科学技術政策の基本について」(1971年)と見られる。

 2015年現在,日本の科学技術政策における主要根拠法令は「科学技術基本法」(1995年)と「研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する法律」(略称「研究開発力強化法」,2008年)である。内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)や総合科学技術・イノベーション会議が省庁横断型で置かれているほか,文部科学省に科学技術・学術政策研究所がある。
著者: 齋藤芳子

参考文献: 小林信一「第1章 科学技術政策とは何か」『科学技術に関する調査プロジェクト調査報告書―科学技術政策の国際的な動向』国立国会図書館調査および立法考査局,2011.

参考文献: 乾侑『科学技術政策―その体系化への試み』東海大学出版会,1982.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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