古代ギリシア文学史の劈頭を飾る二大英雄叙事詩《イーリアス》ならびに《オデュッセイア》の作者と伝えられる詩人。生没年不詳。英語ではホーマーHomerという。彼は古代人によって,たんに〈詩人〉といえばただちに彼を意味するほどの最高の詩人と評価され,その二大叙事詩は,古代ギリシアの国民的叙事詩として,文学はもちろん,宗教,思想,美術等にはかりしれないほど大きな影響を与えた。したがってまた,彼らの文化遺産を継承した古代ローマから現代に至るまでの西欧世界においても,随所に彼の偉大な影響が認められる。
今日われわれの所有する《イーリアス》および《オデュッセイア》は,いずれもヘクサメトロスhexametros(六脚律)と呼ばれる詩行から成るそれぞれ24巻の作品で,前者は1万5693行,後者は1万2110行にのぼる長編であるが,作者にかかわる一片の情報もその膨大な詩行の中には見いだされない。このため,ホメロスはすでに古代においてさえ伝説の霧につつまれた存在となっており,その年代,生涯,業績等についてさまざまな説が唱えられていた。
まず年代に関しては,上限は,前5世紀の史家ヘラニコスHellanikosに由来すると思われるトロイア戦争と同時代人説(トロイア陥落の年は,前3世紀の地理学者,数学者エラトステネスによる前1183年説が一般的)から,下限は,前4世紀の史家テオポンポスのトロイア戦争後500年の人とする説までがある。しかし今日では,前7世紀の詩人カリノスKallinosとアルキロコスがホメロスに言及していること,トロイア戦争物語のうち,《イーリアス》《オデュッセイア》が扱わなかった部分を歌う〈圏kyklos〉と総称される一群の叙事詩が,両詩の存在を前提にして前7~前6世紀ごろにつくられていることなどから,ホメロスの年代を前8世紀後半に置くのが妥当と思われる。
次に生地については,10以上の町が詩聖生誕地の名誉を競った中で,多くの伝承はスミュルナ(現,トルコのイズミル),ついでキオスを名指ししている。いずれもアイオリス地方に隣接するイオニア地方の町で,キオス島にはまた叙事詩吟唱を代々の職業とするホメリダイHomēridai(〈ホメロスの後裔〉の意)なるギルド的団体があったことが知られているが,ホメロスの言語がイオニア方言を基調とし,そこにアイオリス方言を交えたものという事実を考え合わせると,この地方を中心として活躍した人物と思われ,その終焉の地は,伝承が一致して挙げるイオス島であったのかもしれない。なお,ホメロスを盲目の詩人とする巷説は,《ホメロス風賛歌》中の〈アポロン賛歌〉にある〈峨々たるキオスに住む盲(めしい)の人〉という作者自身への言及に由来するもので,ヘレニズム時代以降のホメロスの胸像等はつねに彼を盲目の老人で表現している。
最後に作品については,古くは二大叙事詩のほかにも,〈叙事詩圏〉中の《テーバイス》《エピゴノイ》《キュプリア》や,滑稽詩《マルギテス》(これらはいずれも断片しか伝わらない),約300行の《蛙鼠(あそ)合戦》,長短30数編の《ホメロス風賛歌》などが彼に帰されていたが,今日では,《イーリアス》《オデュッセイア》以外はいずれもホメロスの作にあらずと判断されている。
このようにホメロスに関する伝承があいまいであるにもかかわらず,少なくとも《イーリアス》と《オデュッセイア》に関するかぎり,古代人はそれがホメロスの作たることを信じて疑わず,《オデュッセイア》はホメロスとは別人の作と唱えて〈分離派〉と呼ばれたアレクサンドリアの一部の学者の声などは,まったくの例外にすぎなかった。その後,中世の西ヨーロッパでは,両詩に範をとって歌い上げられたローマ詩人ウェルギリウスの叙事詩《アエネーイス》や,4~5世紀のラテン語散文によるトロイア戦争物語を通じて間接的にホメロスを知る程度で,原詩そのものはほとんど忘却されていたが,14世紀中ごろのイタリアで研究熱が再生し,1488年にホメロスの最初の印行本がフィレンツェで発行されてからは,各国でも刊行があいつぎ,研究を促した。そして1781年にベネチアで,前3~前2世紀のアレクサンドリアの大学者たち,ゼノドトス,ビザンティンのアリストファネス,サモトラケのアリスタルコスらによる,ホメロス本校訂作業の詳細を伝える古注がびっしり書き込まれた《イーリアス》の最古の写本(10世紀)が再発見されると,100年以上の校訂作業を要したホメロスの叙事詩とは,いったい,いかにして成立したものかという問題が強く意識されるようになった。
このような中で1795年,ドイツのF.A.ウォルフが,両詩は一個人の作にあらずと主張する《ホメロス叙説》を世に問うて大きな反響を呼んだ。彼の論旨は次のようなものであった。いわゆるホメロスの時代に文字はなかった,しかるに《イーリアス》《オデュッセイア》のごとき長詩は文字なくしては制作不可能である,したがって両詩は,大部分はホメロスがつくったが,残りはその構想をうけついだホメリダイが完成したもので,それが多くの変化をこうむりながら伝えられるうち,前6世紀の中ごろ,アテナイの僭主ペイシストラトスの命により集輯・文字化され,その後もなおさまざまの改訂・改竄を加えられてようやくアレクサンドリア時代の姿となった,と。以後,ウォルフ説を継承する学者たちは,両詩の中からホメロスの真作部分を抽出すべく作品の分析にとりくみ,各人各様の説を発表したが,19世紀には,二大叙事詩をそれ以前の小叙事詩の寄せ集めにすぎないと断じ,ホメロスの存在をまったく否定する論者も現れ,一時は多数の賛同者を得さえした。これに対して,複数作者論に与(くみ)しない学者たちは,両詩の中に僅少の夾雑物を認めつつも,作品の全体的な統一性を強調して,少なくともおのおのに一人の作者を認めるべきと主張して譲らず,〈分析派〉と〈統一派〉の議論は久しく平行線をたどるのみであった。
しかしながら,1930年代に入ると,アメリカのパリM.Parryは定型句の徹底的な研究を通じて,両詩が幾世代にもわたる口誦詩人たちが蓄積した即興詩吟誦の技法を縦横に駆使してつくられた口誦詩であることを論証し,またパリの後継者で,今なお命脈を保つユーゴスラビアの口誦叙事詩を実地調査したロードA.B.Lordは,文字なくしても長大な叙事詩の制作が可能であることを示した。このため近年では,従来,複数作者論の根拠とされていた作中の前後矛盾や同一の詩句・詩行の繰り返し等は,逆にホメロスの叙事詩が口誦詩であることを示す証拠と正しく理解されるようになり,口誦叙事詩の伝統の頂点に立つ偉大な創造者が,ほぼ今日の《イーリアス》《オデュッセイア》に近い構造をもつ2編の叙事詩をつくったとの認識が定着しつつあるように思われる。しかし,前8世紀後半に語りものとして生まれた両詩が,現存の形のホメロスを伝える〈流布本〉が成立したとみられる前2世紀までの間に,どのようにして文字文学に定着していったかは,拠るべき資料の絶対的不足に妨げられて未解明のままであり,ウォルフによって種をまかれた〈ホメロス問題〉の真の解決は,いまだ道遠しといわねばならないだろう。
なお,近代以降にも《イーリアス》と《オデュッセイア》の作者を別人とする〈分離派〉の議論があるが,所詮は圧倒的な古代の伝承を覆すに足るほどのものではない。とはいえ《オデュッセイア》には,《イーリアス》に比して,若干の新しい要素の存在が認められることは確かであり,もし両詩がともにホメロスの作であるならば,それは,伝ロンギノス(3世紀)が《崇高について》の中で述べているように,《オデュッセイア》は天才の盛りをすぎて老境に入ったホメロスの作ということの反映であるかもしれない。
→ギリシア文学
執筆者:水谷 智洋
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生没年不詳。古代ギリシアの二大叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』の作者といわれる叙事詩人で、紀元前8世紀ごろの人か。彼の生まれや生涯などについてはほとんど知られていない。伝記といわれるものが数編伝わっているが、いずれも民話風物語で、歴史的人物としてのホメロスを知る手掛りにはならない。そのなかの一編は、ヘロドトスの作として伝えられるもので、資料的価値は他と大同小異だが、漂泊の詩人の生涯を描いていて、古代吟遊詩人の生活をうかがわせる点で興味深い。叙事詩の言語がイオニア方言を主体とする点から、叙事詩がまず小アジアのイオニアにおこったと考え、ホメロスもまたイオニアの人と解釈するのが妥当であろう。彼の生地として古来いくつもの地名があげられるが、キオス島あるいはスミルナ(現在のイズミル)がもっとも有力である。作品制作年代については、前10世紀から前7世紀までの広い幅で諸説が分かれ、今日では『イリアス』が前750年ごろ、『オデュッセイア』がやや遅れて前8世紀末とするのが定説に近い。また伝承のように両作品ともに同一作者(ホメロス)によるものか、作者はそれぞれ別であるかについても、古来から論議されているが、今日では同一作者ではないとする見解のほうが優勢である。ただし、同一作者である可能性も残っている。
叙事詩の起源はおそらくミケーネ時代(前1400~前1200)にさかのぼるもので、ホメロスの二大叙事詩は、その長い伝統の終着点と考えられる。ホメロスが実在の人物であったとしても、作品は普通の意味で彼の創作というわけではなく、物語の素材、言語、韻律のほとんどが伝承されたものに拠(よ)っている。用語はイオニア方言を主体とするが、それにアイオリス方言や、アルカディア・キプロス方言なども交えて、一種人工的につくられた叙事詩語を形成している。伝統的語句(枕(まくら)ことば)や成句がその大半を占め、詩人は、できあいの素材を用いて家や道具を制作する職人になぞらえることができる。叙事詩人のレパートリーは、トロイア(トロヤ)伝説に限らず、豊富な神話伝説の広い分野にわたったはずだが、『イリアス』『オデュッセイア』のみが残ったのは、ギリシア悲劇作品に比肩されるみごとな構成によるところが大きい。この構想力こそホメロスの天才を示す最大の証(あかし)といえよう。なお両作品が文字になって定着したのは前6世紀ごろで、それまではもっぱら口頭で語り伝えたものであろう。
詩聖と仰がれるホメロスがギリシア民族の精神的糧(かて)として、ヘレニズム時代を介してローマ、さらには中世、近世に強い影響を与えていることは周知のとおりで、後世の詩人ウェルギリウス、ダンテ、ミルトンらはホメロスのはるかな後裔(こうえい)といえる。
[松平千秋]
『高津春繁著『ホメーロスの英雄叙事詩』(岩波新書)』▽『藤縄謙三著『ホメロスの世界』(1965・至誠堂)』
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ギリシアの最古最大の叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の作者とされている人。その実在は明らかでない。両詩編とも,おそらく前13世紀頃実在したトロヤ戦争に関するもので,ギリシア軍勢の帰国後まもなく起こったドーリア人のギリシア侵入のためイオニアに避難移住した人々により,その戦争関係の諸伝承が記憶,口承の形で保存され,また文学的に練り上げられて,前8世紀頃モニュメンタルな姿に編集されたらしい。しかし,両詩編おのおのが優れた結晶性を示している点から,この編集は,ある個人的な天才により,統合され秩序づけられたものと考えられる。
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…これはギリシアに伝わってAsiaとEuropaとなった。もっともエウローパは,ホメロスのアポロン賛歌(前9世紀)のなかでは,当時の彼らの世界であるペロポネソス半島とエーゲ諸島のみを指しているから,もう一つのアジアのほうは,それ以外の東のほうを広く,漠然と指していたとみられる。東の限界が,ペルシアまでかインドまでかは不明である。…
…文法,語源学,正書法,文献批判の分野で功績が大。ホメロス,ヘシオドス,アルキロコス,アルカイオス,アナクレオン,ピンダロスのテキストの校訂を行い,注解,批評論文を書く。とくにホメロスの校訂に貢献し,そのための各種の記号を考案。…
…《オデュッセイア》と並ぶ,ホメロスによるギリシア最古の長編叙事詩(前8世紀中ごろ,1万5693行)。神話伝説的にはヘシオドスが《農と暦(仕事と日々)》でいう英雄時代,歴史的にはミュケナイ時代(前1600‐前1100)を背景に,トロイア戦争を題材にする。…
…この語はもと神と人間から生まれた半神を指したが,知力や体力や戦技において常人に卓越したものをもつすぐれた人間を,さらには英雄たちの実在が信じられた時代の自由人一般を指す言葉ともなった。ホメロスの詩に活動するギリシアとトロイアの勇士たちは英雄の典型と考えられた。前700年ごろのヘシオドスは《農と暦(仕事と日々)》の中で,人間の歴史を,金・銀・銅・英雄・鉄の人間が次々に出現した五つの時代としてとらえ,英雄はテーバイ攻撃やトロイア攻撃で死に,その中の一部は〈福者の島〉で幸福な生活を営んでいると歌った。…
…コンスタンティノープルに生まれ,教育をうけ,同地の教会諸職を歴任。なかでも総主教座付属学校で修辞学を教え,古典の注釈(ホメロス,ピンダロス),釈義(ディオニュシオス・ペリエゲテスの地誌)を著す。1175年以後テッサロニケ府主教となり,自らが推進した修道院改革とかかわって神学諸論文を書いたほか,一連の弁論,書簡,また,自らの体験に基づいて85年のノルマン人占領を記す《テッサロニケ占領記》をのこした。…
…この予想外の結果に当初は疑問を投げる学者もいたが,現在ではほぼ学界の承認するところとなり,ギリシア語の歴史は文献的に前1400年ころにまでさかのぼることが可能になった。それは,ホメロスの叙事詩に語られているクレタとミュケナイを中心とする英雄時代に属するもので,前1200年ころに小アジアからギリシア一帯をおそった破滅の嵐によってこの世界が〈暗黒時代〉を迎えるまで続いている。しかしその文書の内容は非常に限定されていて,宮廷の書記がメモのように財産を書き留めたものが多く,文学作品はない。…
…ついでその及ぼした影響についてみれば,まずギリシア文化そのものにおいて,およそそのすべての文化的達成の母胎であったことが指摘できる。古代ギリシア文学はホメロスとヘシオドスとの圧倒的影響下にあるが,これら両人の創造の前提はほかならぬ神話であった。壮大な神殿は神話に活躍する神々の住居であり,彫刻は神像の描出に始まった。…
…VIおよびVIIについては〈ビザンティン文学〉とこの項末尾の記述を参照されたい。
【I叙事詩成立の時代】
ミュケナイ時代の記録には文学の痕跡は発見されていないが,前8世紀以降台頭するホメロス,ヘシオドスらの叙事詩文学の最初の萌芽は,前12世紀以降の〈暗黒時代〉に諸地を歴遊した吟遊詩人(アオイドスaoidos)の語り物技芸に発する。今日伝わる両詩人の作品は初期イオニア方言をおもに用いた職業的詩人たちの間で口承の語り物として成立し,彼らの間で代表的レパートリーとして発展・熟成の過程をたどった。…
…くり返し享受されているうちにしだいにテキストが定まり,とりわけ祭儀や宮廷行事などの場を中心に専門的な朗吟者が,ついで専門的な作者が出るようになったものだろう。文字に記されて残っているものとしては,古代オリエントの《ギルガメシュ叙事詩》や古代インドの二大叙事詩,古代エジプトの〈ピラミッド・テキスト〉や神々への賛歌,古代ギリシアのホメロスの叙事詩,旧約聖書中の韻文テキスト,古代中国の《詩経》などが名高い。日本の場合は,《古事記》《日本書紀》《風土記》などに古代の歌垣や婚姻の歌,国ほめや神ほめの歌が記録されているほか,祝詞(のりと)などの宗教的テキスト,《万葉集》の中の伝承歌謡などがあり,また沖縄の《おもろさうし》や,時代は下るがアイヌ民族の口誦叙事詩群〈ユーカラ〉も知られている。…
…すなわち,はじめはエポスepos(言葉で表されたもの)とポイエインpoiein(作る,製作する)とを合成して作られ,それは韻文で話を語ることを指していた。 近代ヨーロッパにおいて,叙事詩という語が一般に用いられるようになったとき,人々はホメロスの《イーリアス》《オデュッセイア》を最高の模範とみなしながら,ある特定の文学ジャンルを明確に指す用語として使用したのである。それによれば,叙事詩とは,ある歴史的な事件,あるいは民族全体にかかわる伝説上の事件において,華々しい英雄的な功業を遂げた人物の行動を,韻文形式で語る文学作品を意味した。…
…副葬品からは死者がなお生きつづけているという信仰と,墓室が住居の模倣であることが知れる。 ホメロスの時代になると文献で葬制の実態がわかるようになるが,本質的にはそう変化はない。埋葬は近親者の神聖な義務であり,敵でさえ葬らずにおくことは罪深いこととされた。…
…オックスフォード大学を中退し,一時軍人として海外遠征に加わったこともあるが,難解で神秘的な哲学的寓意詩《夜の影》(1594)によって世に出た。その後C.マーローが未完のまま残した《ヒーローとリアンダーHero and Leander》を完結させた(1598)ほか,生涯をかけてホメロスの翻訳を完成し(《イリアッド》1611,《オディッセー》1615,全訳の出版は1616年),その華麗で力強い文体はのちの詩人に大きな影響を及ぼすことになった。劇作家としては海軍大臣一座の座付作者として出発し,喜劇《アレクサンドリアの盲乞食》(1596初演)など数編を書いたが,1600年ごろに少年劇団にくら替えし,《取次ぎ役》(1602?),《すべて愚者》(1604?),《ムッシュー・ドリーブ》(1604)など軽快なロマン的色彩の濃い喜劇と,《後家の涙》(1608?),《東行き!》(1605,B.ジョンソンおよびJ.マーストンとの合作)など風刺的な喜劇を執筆した。…
…巫女や口寄せの技能とも相通じるこうした盲人独特の技能は歌謡と芸能の分野にも及び,吟遊詩人や楽器演奏者として諸国を遍歴することも多かった。事実,古代絵画においてホメロスはしばしば桂冠を被った盲目の老人として表現され,《オデュッセイア》にもオデュッセウスをもてなす盲目の歌い手デモドコスDēmodokosが登場する。この伝統は中世にまで引き継がれ,大道芸人には盲人が相当数加わっていた。…
※「ホメロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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