古代イスラエル人の王国。前1000年ころ,イスラエル王国初代の王サウルがフィリステア人(ペリシテ人)と戦って敗死すると,フィリステア人の国に亡命していたダビデは,南方諸部族の中心都市ヘブロンに行き,ユダ王国を建てた。その後,ダビデはイスラエル王国の王位も兼ねたが,ユダ王国はイスラエル王国と別個の政治組織として残された。このように,ユダ王国は,ユダ族出身のダビデが北方諸部族に対してユダ族を中心とする南方諸部族を糾合した政治勢力として興ったのである。ダビデの第3皇子アブサロムの反乱にユダ族も参加したが,反乱鎮圧後ダビデがユダ族優遇政策をとった結果,ユダ族のダビデ家支持はいよいよ強固になった。ソロモンはこの政策を継承して,ユダ族に免税特権を与えたらしい。前928年ころソロモンが死ぬと,北方諸部族はダビデ家に背いて北イスラエル王国を建てたが,ユダ族はダビデ家に従って南ユダ王国を守った。この間に,ダビデのエルサレム遷都とソロモンのエルサレム神殿建立を背景に,全イスラエルを支配する王朝,王都としてヤハウェはダビデ家とエルサレムを永久に選ぶことを約束した,という主張が起こった(〈ダビデ契約〉)。この〈ダビデ契約〉の思想は,王国400年の歴史を通じてダビデ家の支配を絶対化しただけではなく,王国滅亡後は,ダビデの子孫からメシアが現れるというメシア思想の源泉となった。したがって,南ユダ王国においては,北イスラエル王国においてひんぴんと起こったような王朝交代は一度もなかった。前842年ころ,オムリ家出身の王母アタリヤAthaliahがユダ王国の王位を奪したが,7年後にアタリヤは殺され,ダビデ家のヨアシJoashが王位を再興した。この事件に関連して〈国の民〉と呼ばれるユダ族の代表が,ダビデ家に王位を取り戻すために活躍した。王国末期にも,〈国の民〉は王位継承問題にたびたび関与している。
北イスラエル王国が独立してから約50年間,南北両王国は戦争状態であった。ようやく,北イスラエル王国にオムリ王朝が興ると両王国は平和条約を締結,ダビデ家はオムリ家と婚姻関係を結んだ。しかし,北イスラエル王国でエヒウが〈ヤハウェ主義革命〉を起こして,オムリ家のヨラムJoramとともにユダ王アハジヤAhaziahを殺害してから両王国は再び敵対関係を続けたが,ウジヤUzziah王になって,南ユダ王国は北イスラエル王国と同盟を結び,繁栄を回復した。その後,前722年にアッシリアが北イスラエル王国を滅ぼし,前701年にはエルサレムに侵攻して来た。ヒゼキヤ王が守るエルサレムは奇跡的に陥落を免れたが,その後約70年間,ユダはアッシリアの属国となった。前7世紀後半になってアッシリアが衰退すると,ヨシヤ王は軍事国家を建設し,アッシリアの属州となっていた北イスラエルを併合,〈申命記改革〉によって民族主義的精神復興を図った。しかし,ヨシヤはエジプトと戦って敗死し,前586年バビロニア軍がエルサレムを占領,ユダの支配階級は捕囚されて,王国は滅亡した。
→イスラエル王国
執筆者:石田 友雄
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古代のイスラエル王国の分裂によって成立した王国(前928~前586)。ソロモン王の没後、イスラエル王国は、北の10部族からなるイスラエル王国(北王国)と、南のユダ人とベニヤミン人を含むユダ王国(南王国)に分裂独立した。ソロモンの子レハベアムを初代の王(在位前928~前911)とし、20人の王が続き、エルサレムを首都として南パレスチナのユダ地方を支配した。ユダ王国は、イスラエル王国に比べて、農耕に適する土地が少なく、その経済構造は家畜飼育に大きく依存していたが、エルサレムを基盤とした政治的、宗教的中心をもち、かつダビデの家系を継いだ安定した王朝と、住民が比較的同質であったために総じて平和な長い治世が続いた。たとえば、第3代王アサ(在位前908~前867)の41年間、第4代王ヨシャファト(在位前867~前847)の21年間という長い治世がみられる。
ユダ王国は、勢力を盛り返したエジプトとアッシリアとの間にたたされ、内政・外交ともに振るわなかったが、紀元前721年、アッシリアのサルゴン2世によるイスラエル王国滅亡後も存続した。宗教的には、異教の神々の礼拝に対して預言者たちの反対運動が起こり、ヒゼキヤ王(在位前727~前698)やヨシヤ王(在位前640~前609)による祭儀改革が行われた。ヨシヤの長子エホヤキムは即位後3年間エジプトの宗主権に服し、その子エホヤキン(在位3か月)は新バビロニア軍に降伏し、エルサレムは一時的に救われたが、エルサレム神殿と王の宝庫は略奪され、エホヤキンと指導者階層(約1万人)は捕らえられてバビロンへ移された(前597年、第1回バビロン捕囚)。エホヤキンとともに連行された祭司エゼキエルは、バビロンで捕囚民の預言者として活動した。ついでユダ王国最後の支配者に任ぜられたゼデキアも新バビロニアに背いたため、エルサレムは落城し、徹底的に破壊され、ユダ王国は、新バビロニアの属州となり、ユダの住民はバビロニアに連れ去られ、滅亡した。ちなみに、前582年ころ、エルサレム残留民の一部はバビロンへ捕らえ移された(第3回バビロン捕囚)。
[高橋正男]
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ヘブライ人の王国。前931年頃にソロモン王が没すると統一王国は分裂し,パレスチナ南部にソロモンの子レハブアムを王とするユダ族中心の国家が,イェルサレムを首都として成立した。北のイスラエル王国滅亡後も存続したが,エジプトとアッシリアという二大勢力に挟まれて苦境をなめたあげく,新バビロニアのネブカドネザル2世に前587年ないし前586年に滅ぼされ,人々はバビロン捕囚の悲運に見舞われた。
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…ただし,この複合王国を代表する名称はイスラエルであった。そこで,サウルとダビデ,ソロモンが支配したイスラエル王国を〈統一イスラエル王国〉,ソロモンの死後ダビデ家の支配を脱して南のユダ王国と対立したイスラエル王国を〈北イスラエル王国〉と呼んで,両者を区別する。 前10世紀初頭に,ダビデは南方部族の中心都市ヘブロンから,南北複合王国の中間に位置するエルサレムに遷都し,そこへ王国成立前の部族同盟の象徴であった〈契約の箱〉を搬入して,イスラエルの神ヤハウェがエルサレムを選び,同時にダビデとその子孫を全イスラエルの支配者に選んだと主張した。…
…エルサレムは政治的だけでなく宗教的にも国家の中心となり,人々は毎年イスラエル全土からエルサレム巡礼に出かけた。 ソロモンの死後イスラエル統一王国が南北に分裂すると,エルサレムは南のユダ王国の首都となる。前586年,ユダはバビロニアのネブカドネザル王の率いる軍隊によって征服され,エルサレム全市が破壊されて炎上,人々はバビロニアの地に連れ去られる。…
※「ユダ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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