伏見天皇(読み)フシミテンノウ

デジタル大辞泉 「伏見天皇」の意味・読み・例文・類語

ふしみ‐てんのう〔‐テンワウ〕【伏見天皇】

[1265~1317]第92代天皇。在位1287~1298。持明院統後深草天皇の第2皇子。名は熙仁ひろひと大覚寺統後宇多天皇のあとを受けて即位両統迭立てつりつの例を開いた。日記伏見院宸記」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「伏見天皇」の意味・読み・例文・類語

ふしみ‐てんのう‥テンワウ【伏見天皇】

  1. 第九二代天皇。後深草天皇第二皇子。名は熙仁(ひろひと)。母は玄輝門院子。弘安一〇年(一二八七)大覚寺統の後宇多天皇の後をうけて即位。持明院統に属し、在位の一二年間は両統迭立のさなかにあった。和歌書道にすぐれ、「玉葉和歌集」を京極為兼に撰集させた。また、上代様の書跡の一派を樹立。日記に「伏見天皇宸記」がある。陵墓は京都市伏見区の深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。文永二~文保元年(一二六五‐一三一七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伏見天皇」の意味・わかりやすい解説

伏見天皇
ふしみてんのう
(1265―1317)

鎌倉時代後期の天皇(在位1287~98)。名は煕仁(ひろひと)。持明(じみょう)院統の後深草(ごふかくさ)天皇の第2皇子。母は玄輝門院愔子(げんきもんいんいんし)。1275年(建治1)大覚寺(だいかくじ)統の後宇多(ごうだ)天皇の皇太子となり、87年(弘安10)即位。両統が交互に皇位につく例を開いた(両統迭立)。90年(正応3)までは後深草上皇の院政で、以後親政を行った。譲位後、後伏見・花園(はなぞの)両朝の院政を1313年(正和2)までとった。和歌と書にも優れ、京極為兼(きょうごくためかね)に『玉葉(ぎょくよう)和歌集』を撰修(せんしゅう)させた。日記『伏見院御記』があり、一部現存する。文保(ぶんぽう)元年9月3日没。御陵は京都市伏見区深草北陵。

[佐々木久彦]

『岩佐美代子著『あめつちの心――伏見院御歌評釈』(1979・笠間書院)』

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改訂新版 世界大百科事典 「伏見天皇」の意味・わかりやすい解説

伏見天皇 (ふしみてんのう)
生没年:1265-1317(文永2-文保1)

第92代に数えられる天皇。在位1287-98年。89代後深草天皇の第2皇子。母は洞院実雄の娘玄輝門院愔子。諱(いみな)は煕仁,持明院殿と称された。1287年(弘安10)10月践祚,翌年3月即位すると親政をしき,鎌倉末期の公家政治振興に努めた。院評定衆の代りに宮中に議定衆をおき,記録所に庭中訴訟を聞くなど,当時としては政治を刷新するものであった。このころ皇統が持明院・大覚寺両統に分かれ,皇位継承問題から激しい政争があった中で,伏見天皇は持明院統の地位を確立した。和歌,書道にすぐれ,和歌では京極為兼を側近として歌壇を形成し,《玉葉和歌集》を勅撰させた。書道は流麗な筆跡で伏見院流とよばれ,その和歌切は広沢切と称されて尊重されている。1313年(正和2)落飾して法諱を素融といった。《伏見院御集》という歌集のほかに,日記《伏見院宸記》や文書が残っている。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
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百科事典マイペディア 「伏見天皇」の意味・わかりやすい解説

伏見天皇【ふしみてんのう】

在位1287年−1298年。持明院(じみょういん)殿と称された。後深草(ごふかくさ)天皇の皇子。1290年までは父の院政であったが,その後は親政をしき,院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)の代わりに宮中に議定衆(ぎじょうしゅう)をおくなど公家政治振興に努めた。また当時皇統が持明院統大覚寺(だいかくじ)統に分かれ,皇位継承をめぐる政争があったが,伏見天皇は持明院統の地位を確立した。《玉葉和歌集》を勅撰させたほか,歌集《伏見院御集》や日記《伏見院御記》などが残る。
→関連項目後宇多天皇後伏見天皇

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伏見天皇」の解説

伏見天皇 ふしみてんのう

1265-1317 鎌倉時代,第92代天皇。在位1287-98。
文永2年4月23日生まれ。後深草天皇の第2皇子。母は藤原愔子(いんし)(玄輝門院)。大覚寺統の後宇多天皇からゆずられ即位。持明院統。正応(しょうおう)5年十三ヵ条の新制を制定し,政治の刷新をすすめるが,大覚寺・持明院両統の対立は激化する。子の後伏見天皇に譲位して後伏見・花園天皇の代に院政をしく。和歌,書にすぐれ,「玉葉和歌集」を撰進させた。文保(ぶんぽ)元年9月3日死去。53歳。墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は煕仁(ひろひと)。法名は素融。別名に持明院殿。歌集に「伏見院御集」,日記に「伏見院御記」。
【格言など】更(ふ)けぬるか過ぎ行く宿もしづまりて月の夜道にあふ人もなし(「玉葉和歌集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伏見天皇」の意味・わかりやすい解説

伏見天皇
ふしみてんのう

[生]文永2(1265).4.23. 京都
[没]文保1(1317).9.3. 京都
第 92代の天皇 (在位 1287~98) 。持明院統の祖,後深草天皇の第2皇子。母は玄輝門院藤原よし子。名は煕仁 (ひろひと) 。建治1 (75) 年大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり,弘安 10 (87) 年践祚。いわゆる両統迭立の事象はこの時代から生じた。和歌,書にすぐれ,『玉葉和歌集』を撰進させた。また能書家の名声が高く,鎌倉時代後期を代表する書家の一人。西本願寺の歌集残簡 (広沢切) が伝来する。日記『伏見院御記』がある。陵墓は京都市伏見区の深草北陵。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伏見天皇」の解説

伏見天皇
ふしみてんのう

1265.4.23~1317.9.3

在位1287.10.21~98.7.22

後深草天皇の第2皇子。名は熙仁(ひろひと)。母は洞院(とういん)実雄の女玄輝門院愔子(いんし)。1275年(建治元)大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり,87年(弘安10)践祚(せんそ)。後深草上皇の院政をへて,90年(正応3)から親政,裁判制度の整備などに積極的にとりくんだ。京極為兼を和歌の師とし,歌壇の振興にも努めた。1313年(正和2)出家,法名素融。

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367日誕生日大事典 「伏見天皇」の解説

伏見天皇 (ふしみてんのう)

生年月日:1265年4月23日
鎌倉時代後期の第92代の天皇
1317年没

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世界大百科事典(旧版)内の伏見天皇の言及

【玉葉和歌集】より

…〈二十一代集〉中第14番目の勅撰和歌集。20巻。伏見院の院宣により1312年(正和1)に京極為兼が撰進。《玉葉集》と略称。後の《風雅和歌集》とともに,京極派の歌風を中心とする勅撰集として,《新古今集》以降の勅撰集のなかで異彩を放っている。当時の歌壇における二条・京極・冷泉3家の対立を背景に,本集の成立には複雑な経緯があり,伏見院ははじめ在位中の1293年(永仁1)に勅撰集の撰定を二条為世,京極為兼,飛鳥井雅有,六条隆博に諮問した(雅有は不参)が,撰定方針等をめぐり為世と為兼の間に対立を生じ,おりからの為兼の配流,隆博・雅有の物故もあり,この企図は中絶した。…

【書】より

…これらには後鳥羽天皇を中心とする《新古今集》の宮廷歌人の筆跡がまとまって伝存し,法性寺流を基調としながらも個性的な筆勢が明らかである。名筆として知られた伏見天皇(1265‐1317)は平安時代の書に習熟し,復古的な流麗さをもって著名で,その皇子尊円親王は世尊寺流に宋風を加味した尊円流を創めた。青蓮院(しようれんいん)流とも呼び,後世の御家流(おいえりゆう)の基礎となった。…

※「伏見天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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