南北朝時代の武将,文化人。近江佐々木氏の庶流京極宗氏の子,外祖父宗綱の子貞宗の嗣子。法名道(導)誉。《太平記》いらい,佐々木道誉の名で知られる。京極氏は在京御家人として活躍し,京都高辻京極に邸宅を構えて家名とした。近江での本拠は北近江で,伊吹山麓の太平寺に荘園支配の政所(まんどころ)をおき,柏原にも邸館をおいていた。道誉の出生,成育の地は不明だが,京都,近江のいずれかであろう。道誉は1322年(元亨2)京極氏の家職たる検非違使(けびいし)となり,ついで従五位下,佐渡守となった。一方北条高時の相伴衆にも連なり,26年(嘉暦1)高時の出家とともに出家した。《太平記》では,しばしば佐渡判官入道とも記される。元弘の乱(1331)に際し,32年(元弘2)後醍醐天皇隠岐配流の警固を命じられ,ついで北畠具行を鎌倉へ護送の途中,幕命によって近江柏原で斬った。事の次第は《増鏡》《太平記》にくわしい。ついで足利尊氏の上洛に際し近江番場宿で饗応し密約したというが(《丸亀京極家譜》),史料は不十分で,建武新政下でも道誉の事跡は見いだせない。
道誉が史上に再登場するのは中先代(なかせんだい)の乱(1335)に際し尊氏とともに東下してからで(《太平記》),以後尊氏配下の武将としてたびたびの合戦に従軍し,幕府の再興と安定に貢献した。その功により36年(延元1・建武3)東近江の守護となったのを手はじめに,若狭,出雲,上総,飛驒,摂津の守護(比較的短期の場合が多い)となり,近江柏原,伊吹,甲良荘以下各地に所領を宛行あるいは安堵され,さらに2度にわたって幕府の政所執事をつとめた。京極氏がのち幕府四職家の一つとなる基礎は高氏によって築かれたといえる。とはいえ,その過程は容易ではなかった。40年(興国1・暦応3)には有名な妙法院焼討ち事件をおこして嫡男秀綱とともにいったん配流され,南朝軍との合戦の中で秀綱やその子秀詮を失うなどの痛手もうけた。観応の擾乱(じようらん)に代表される幕府の内訌には主として尊氏・義詮側にたったが,南朝から尊氏,直義,義詮追討の綸旨(りんじ)をうけて尊氏軍と陣をかまえたこともある。政治情勢の変転きわまりない内乱期に,いわゆる権謀術数を駆使することで,よく京極家の家運をひらいたのであった。
ところで道誉のいま一つの顔は〈ばさら〉の王者の顔である。〈ばさら〉とは当時では武将を中心に流行していた服装や遊宴に贅をつくす華美な風潮をいうが,道誉の場合は66年(正平21・貞治5)の大原野花会に代表されるように,自由奔放の中にも創意をこらした〈ばさら〉を楽しみ,有名となった。〈ばさら〉は庶民芸能の源流となったが,道誉個人も諸芸能の発展と深くかかわっている。すなわち道誉は茶寄合や立花,聞香を愛好し,近江の田楽(でんがく)をひいきにし,世阿弥とも接触があった。さらに連歌をよくし,道誉風の連歌が流行したといわれ,《菟玖波集》には73句が採用されて第4位を占める。同集が勅撰に準ぜられたのも,道誉の尽力による。なお《立花口伝之大事》が道誉撰の奥書をもつが,これは疑わしい。近江甲良荘に道誉みずからが菩提寺として創建した勝楽寺には,道誉71歳の寿像(自賛がある)を蔵する。
執筆者:熱田 公
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南北朝時代の武将。宗氏(むねうじ)の子。貞宗(さだむね)の猶子。京極(きょうごく)氏。導誉(どうよ)と号す。鎌倉幕府のもとで執権北条高時(たかとき)に仕え、検非違使(けびいし)・佐渡守(さどのかみ)となる。元弘(げんこう)の変(1331)後、幕命により後醍醐(ごだいご)天皇を隠岐(おき)に護送した。しかし1333年(元弘3・正慶2)には足利尊氏(あしかがたかうじ)の幕下に参加。34年(建武1)には雑訴決断所寄人(ざっそけつだんしょよりゅうど)となった。翌年の北条時行(ときゆき)の乱(中先代(なかせんだい)の乱)に際し尊氏に従って東下したが、やがて新田義貞(にったよしさだ)の追討軍を迎えていったんこれに降(くだ)り、箱根竹の下の戦いにはまた尊氏に従った。やがて近江(おうみ)を抑えて尊氏を支え、36年(延元1・建武3)尊氏の幕府創立ののちは近江・若狭(わかさ)・出雲(いずも)・飛騨(ひだ)・上総(かずさ)などの守護職となり、幕府を支える力となった。しかし既成の権威を無視するいわゆる「バサラ大名」の典型でもあり、40年(暦応3・興国1)には、天台座主妙法院宮亮性(みょうほういんのみやりょうしょう)法親王の御所を焼いたかどで流罪に処せられたが、まもなく復帰した。50年(正平5・観応1)から翌年にかけての観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)には尊氏を助け、尊氏が鎌倉に下ったあとは、京都を守る義詮(よしあきら)をよく助けた。67年(正平22・貞治6)には南朝との講和交渉にあたったが不調に終わった。奔放な性格ながら連歌(れんが)・立花・茶などにも才があり、風流を解する武将としての一面もあった。73年(文中2・応安6)8月25日死去。
[池永二郎]
『林屋辰三郎著『日本を創った人びと10 佐々木道誉』(1979・平凡社)』
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1306~73.8.25
京極高氏とも。南北朝期の武将。宗氏の子。四郎。佐渡大夫判官。外祖父宗綱をついで京極家の家督を継承。1326年(嘉暦元)北条高時の出家に従って剃髪,導誉(どうよ)と称す。32年(元弘2)後醍醐天皇の隠岐配流の警固を勤めた。翌年足利氏に従って六波羅探題を滅ぼし,建武新政では雑訴決断所奉行人。中先代(なかせんだい)の乱(1335)で尊氏が関東へ下向すると先鋒を勤め,室町開幕後は評定衆・引付頭人・政所執事,および若狭・近江・出雲・上総・摂津・飛騨各国守護を歴任。40年(暦応3・興国元)妙法院焼打事件で上総へ配流の際,出京のいでたちは山門・朝廷を愚弄したものであり,婆裟羅(ばさら)大名の典型とされる。配流は履行されず,まもなくゆるされて出仕。観応の擾乱ではおおむね尊氏・義詮(よしあきら)に属した。
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…佐々木信綱の三男泰綱は京都六角東洞院に住して六角氏を称し近江国守護となり,四男氏信は京極高辻に住して京極氏を称した。京極氏は5代佐々木高氏(道誉)によって南北朝・室町期の隆盛の基が築かれた。高氏は元弘・建武の騒乱で足利尊氏の最も忠実な武将として活躍し,重用されてその勢いは惣領家六角氏をしのいだ。…
…香木を素材とする聞香(ぶんこう∥もんこう)の芸道を香道という。日本独自のもので他に類例をみない。成立は室町時代末期であるが,奈良時代以来の前史がある。
[前史]
香木が登場する奈良時代の香は,もっぱら神仏に供えられたが,平安時代には部屋にたきこめたり,着物に移香するための空薫(空香)物(そらだきもの)(練香(ねりこう))が盛行,精緻な発達をみせた。やがて,その艶麗華雅な創作を鑑賞し,2種の薫物の優劣を競う薫物合(たきものあわせ)が興る。…
…香木の微味幽趣を探るため14世紀の末には(銀)葉(ぎんよう)という隔火の具も考案されている。この時代の香木の歴史を語るにあたって逸することのできないのは佐々木道誉(佐々木高氏)で,香木の収集に執念を燃やし,什器,仏像まで香木とあらば割ってたいたという。彼が所持した177種の名香木は死後東山殿の所有に帰したと伝えられる。…
※「佐々木高氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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