北条早雲(読み)ホウジョウソウウン

デジタル大辞泉 「北条早雲」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐そううん〔ホウデウサウウン〕【北条早雲】

[1432~1519]室町後期の武将。後北条氏の祖。初め伊勢新九郎長氏と称し、出家して早雲庵宗瑞と号。駿河の今川氏のもとにいたが、のち、伊豆韮山にらやまに移り、次いで小田原に進出。伊豆・相模を治め、後北条氏5代の基礎を築いた。

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精選版 日本国語大辞典 「北条早雲」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐そううん【北条早雲】

  1. 戦国時代の武将。後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したのち、出家して宗瑞と号す。はじめ今川義忠を頼って駿河に滞在、義忠の死後内紛を平定して興国寺城主、次いで伊豆韮山城に入り明応四年(一四九五小田原城を奪い、これを本拠に関東の制覇にのりだす。早雲の称は、子氏綱が菩提を弔うために相模にたてた早雲寺による。永享四~永正一六年(一四三二‐一五一九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条早雲」の意味・わかりやすい解説

北条早雲
ほうじょうそううん
(1432―1519)

関東の戦国大名、北条氏(後(ご)北条氏)初代。伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)ともいう。入道して早雲庵宗瑞(あんそうずい)と号す。一介の素浪人説が流布し、美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と並んで、下剋上(げこくじょう)の時代を代表する人物とされるが、室町幕府政所(まんどころ)執事伊勢氏の一族であることはほぼ確実である。1483年(文明15)幕府申次衆(もうしつぎしゅう)となった伊勢新九郎盛時をその前身とみる有力な説があり、単なる素浪人ではない。初め足利義視(あしかがよしみ)に仕えて67年(応仁1)の伊勢下向に従ったが、妹が今川義忠(よしただ)の室となっていた縁を頼って駿河(するが)に下る。76年義忠戦死後の家督争いを調停して、妹北川殿の生んだ竜王丸(氏親(うじちか))をたて、その功によって富士下方12郷(静岡県富士市)を与えられ興国寺(こうこくじ)城(沼津市)に入る。当時関東では古河公方(こがくぼう)の力が衰え、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争いを軸に諸勢力の分裂と抗争が相次いでいた。早雲はすでに伊豆の土豪らとよしみを通じていて、そうした状況を把握しており、まず伊豆に討って出て関東侵出の足掛りをつくろうとした。

 1491年(延徳3)堀越(ほりこし)公方足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移り自立、伊豆国を制圧した。ついで95年(明応4)扇谷上杉氏の重臣大森藤頼(ふじより)の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進んだ。『北条記』によれば、早雲はあるとき、ねずみが2本の大杉を食い倒してのち虎(とら)になった夢をみ、ねずみを子(ね)年生まれの早雲に、2本の大杉を山内と扇谷の両上杉氏になぞらえて、めでたい夢と喜んだという。早雲は両上杉氏、古河公方、武田氏などと、相模、武蔵(むさし)、甲斐(かい)に戦い、手痛い敗北も経験しながら東に向かう。1512年(永正9)相模守護家の三浦氏を岡崎城(神奈川県平塚市)に攻めてこれを追い、鎌倉に入った。鎌倉の北西に玉縄(たまなわ)城を築いて三浦、江戸、さらには関東制圧の拠点とし、16年新井(あらい)城(同三浦市)に三浦氏を滅ぼし、相模一国を従えた。

 早雲は太田道灌(どうかん)と同じ年に生まれたが、30年余りも長生きして北条氏発展の基礎をつくり、永正(えいしょう)16年に88歳で死去、箱根湯本の早雲寺に葬られた。「早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)」はその生涯の生活信条を記した早雲の家訓といわれている。仏神を信じよ、早寝早起きをせよ、すこしの隙にも書を読むようになど、基本的な心得が細かに述べられている。早雲寺にある画像は経略に優れた戦国武将の風貌(ふうぼう)をよく伝えている。

[池上裕子]

『杉山博著『北条早雲』(1976・名著出版)』

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改訂新版 世界大百科事典 「北条早雲」の意味・わかりやすい解説

北条早雲 (ほうじょうそううん)
生没年:1432-1519(永享4-永正16)

戦国時代の武将。後北条氏初代。早雲は庵号で,また彼は北条を称したことはなく,一般にいいふるされている呼称は俗称。正しくは伊勢新九郎で,入道して早雲庵宗瑞あるいは宗瑞とみずから記している。実名は長氏とされ,また氏茂などを伝えているが,いずれも確証はない。生国も伊勢,備中,京都などの諸説があるが,京都の伊勢氏とみるのが最も適切であろう。彼の駿河下向は1469年(文明1)とみられ,駿河守護今川義忠の室であった妹をたよって今川氏に身を寄せ,石脇城を居城としたと推測される。76年の義忠戦没後の今川家内紛では,竜王丸(氏親)支持の側に立ったが,このとき範満支援のため扇谷上杉定正から派遣されてきた太田道灌と出会い,両者の調停によって内紛は一応収拾され,これより彼は歴史に登場することになる。早雲,道灌ともに45歳であった。道灌が謀殺された翌87年(長享1),早雲は範満を駿府の館に攻めて自害させ,竜王丸を駿府に移し名実ともに今川家の家督とした。この功績により,駿河の富士下方12郷を与えられ,興国寺城主となる。91年(延徳3)堀越御所足利政知没後の紛糾した伊豆に攻め入り,政知の子茶々丸を討って平定し,韮山に城を築いて居城とし,伊豆の経営に当たった。95年(明応4)9月相模の小田原城を攻め,大森藤頼を追ってこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。この早雲の伊豆,相模への進出は,扇谷上杉定正や山内上杉顕定を利用しての行動とみられるが,小田原城攻略の翌年,早雲は相模で顕定から大反撃されて,弟の弥次郎を失っている。

 1504年(永正1)早雲は今川氏親とともに,扇谷上杉朝良を助けて顕定と武蔵の立川原で戦い勝利をおさめた。同年京都の医者陳定治を小田原に招いて透頂香(外郎(ういろう))の製造販売を行わせるなど,城下の整備を図っている。06年にはすでに検地の実施と新基準の貫高の採用が確認され,新しい領国支配体制の基礎固めを行っている。06年と08年の2回にわたり,氏親の援軍として三河に出陣したが,10年ごろからは相模の征服を開始し,12年には岡崎城に三浦義同(よしあつ)を攻めて住吉城に敗走させ,その8月13日に鎌倉へ入った。彼は〈枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ〉と詠じたと伝えられ,荒廃した鎌倉の再興を誓ったことが知られる。同じ12年玉縄城を築き,翌13年には義同の反撃を退けて新井城に追い込め,16年の7月ついに義同・義意父子を討って三浦氏を滅亡させ,相模を征服した。18年に家督を氏綱に譲ったとみられる。翌年8月15日,伊豆の韮山城で没し,相模箱根の早雲寺に葬られる。法名は早雲寺殿天岳宗瑞。家訓といわれるものに《早雲寺殿廿一箇条》があり,家法《伊勢宗瑞十七箇条》の存在が指摘されている。平生《太平記》を愛読していた一面をもち,また倹約家として知られていた。
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朝日日本歴史人物事典 「北条早雲」の解説

北条早雲

没年:永正16.8.15(1519.9.8)
生年:永享4(1432)
室町・戦国時代の武将。小田原北条氏(後北条氏)の初代。早雲は庵号で,北条を称したことはなく,一般にいうこの呼称は俗称。正しくは伊勢を氏,新九郎を通称とし,入道ののちは自ら早雲庵宗瑞と記している。実名は長氏とされ,氏茂などの名も伝えるが確証はない。出自については諸説があり(1)伊勢の関氏一族出身説(2)京都の伊勢氏出身説(3)備中の伊勢氏出身説の3説がその主たるもの。近年,実名を盛時として(2)(3)の折衷説も提唱されているが確証はない。従って父母の確定までには至っていない。初見としては,文明8(1476)年,駿河守護今川義忠の家督相続を巡ってその子氏親を支持し,相手方の小鹿範満を支持する太田道灌と共に事態の収拾に当たったというのが確かなところである。道灌の没した年の翌長享1(1487)年,早雲は範満を討って氏親を名実ともに今川家の家督とし,この功により駿河の富士下方12郷を与えられ興国寺城主となった。 延徳3(1491)年,伊豆に攻め入ってこれを平定し,韮山城に拠る。大森藤頼の小田原城を攻略し,関東進出の第一歩を印したのは明応4(1495)年9月のことであった。山内上杉・扇谷上杉両氏の抗争を巧みに利用して領域を拡大し,永正3(1506)年にはすでに小田原付近で検地を実施。新基準による貫高の採用が確認され,新しい領国支配体制の基礎が固められている。同7年ごろより相模の征服を開始。同9年8月,三浦義同の岡崎城を陥れ住吉城に敗走させ,初めて鎌倉の土を踏む。その同じ年,玉縄城を築き,翌10年には義同の反撃を退けてさらに新井城まで追い詰め,同13年7月,ついにその子義意共々討ち滅ぼして相模を征服した。同15年に家督を子氏綱に譲ったとみられる。翌年韮山城で死去。家訓に「早雲寺殿廿一箇条」がある。平生『太平記』を愛読し,倹約家であったことでも有名。道灌の器量を見抜いて一目置いており,戦国大名北条氏発展の基礎を築いた。<参考文献>杉山博『北条早雲』

(佐脇栄智)

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百科事典マイペディア 「北条早雲」の意味・わかりやすい解説

北条早雲【ほうじょうそううん】

戦国大名小田原北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称し,入道して早雲庵宗瑞(そうずい)と号した。出自は不明だが,京都の伊勢氏とみるのが適切か。今川氏の食客となって勢力をのばし,1491年堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知の子茶々丸を攻めて敗死させた。韮山(にらやま)城を築いて独立し,さらに相模(さがみ)に進出し,小田原を本拠に北条氏の関東征覇の基礎を確立。《早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)》をつくった。
→関連項目小田原城神奈川[県]修禅寺沼津[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条早雲」の意味・わかりやすい解説

北条早雲
ほうじょうそううん

[生]永享4(1432)
[没]永正16(1519).8.15. 伊豆
戦国時代の大名。後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したが,入道して宗瑞と号した。出自は不明で,室町幕府政所執事伊勢氏の一族とも,鎌倉幕府執権北条氏の子孫ともいい,出身地も伊勢,京,備中などの諸説がある。応仁年間 (1467~69) 今川義忠を頼って駿河に下向し,義忠の死後国内が乱れたときにこれを平定し,興国寺城主となった。延徳3 (91) 年堀越公方足利政知の遺児茶々丸を殺して伊豆を領し,明応4 (95) 年相模小田原城主大森藤頼を追出して同城を奪った。永正9 (1512) 年相模岡崎城の三浦義同 (よしあつ) を破り,同 13年同国新井城に三浦氏を滅ぼし,相模を手中に収め後北条氏の基礎を築いた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条早雲」の解説

北条早雲
ほうじょうそううん

1432~1519.8.15

戦国期の武将。戦国大名後北条氏の初代。北条氏を称するのは2代氏綱以後で,早雲は伊勢新九郎と称した。入道して早雲庵宗瑞(そうずい)。京都の出身で,1469年(文明元)頃駿河に下向したという。76年以後今川氏の内紛に関係。87年(長享元)駿河国興国寺城(現,静岡県沼津市)城主となり,以後独自の勢力圏を築いた。93年(明応2)堀越公方足利政知の遺児茶々丸(ちゃちゃまる)を攻めて伊豆を,95年大森藤頼を追って相模国小田原を制圧。また扇谷(おうぎがやつ)上杉氏を支援して武蔵・相模で山内上杉氏と戦った。1516年(永正13)三浦義同(よしあつ)を滅ぼして相模全域を制圧。この間検地の実施や貫高の整備に着手したほか,家訓・家法(「早雲寺殿二十一箇条」)を制定したといわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条早雲」の解説

北条早雲 ほうじょう-そううん

1432-1519 室町-戦国時代の武将。
永享4年生まれ。駿河(するが)(静岡県)の今川氏の食客となり,延徳3年堀越公方(くぼう)足利茶々丸を攻めて伊豆(いず)を制圧。明応4年大森藤頼の小田原城を攻略して本拠とし,永正(えいしょう)13年相模(さがみ)(神奈川県)を平定,北条氏の関東制覇の基礎を確立した。家訓に「早雲寺殿廿一箇条」がある。出身地は伊勢(いせ),京都,備中(びっちゅう)説など。永正16年8月15日死去。88歳。本姓は伊勢。名は長氏。通称は新九郎。法名は早雲庵宗瑞。
【格言など】すべて寅に起きて得分(とくぶん)有るべし(「早雲寺殿廿一箇条」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条早雲」の解説

北条早雲
ほうじょうそううん

1432〜1519
戦国時代の武将。小田原に拠って栄えた後北条氏の祖
伊勢新九郎長氏 (ながうじ) といい,出身は京都・伊勢(三重県)・備後(広島県)の諸説がある。今川氏を頼って駿府に下り,1491年堀越公方足利政知 (まさとも) の子茶々丸を殺して伊豆韮山 (にらやま) に移った。'95年小田原の大森藤頼を追って小田原城に入り,後北条氏発展の基礎を築いた。

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世界大百科事典(旧版)内の北条早雲の言及

【伊豆国】より

…将軍義政は僧であった政知を還俗させて,鎌倉に派遣して関東の安定を図ろうとしたが,政知は関東に入ることができず韮山堀越(ほりごえ)に落ち着き堀越公方と称した。91年(延徳3)沼津興国寺城主であった北条早雲は堀越公方を倒し,たちまち伊豆国を奪い韮山城を根拠地とし,のち小田原へ進出する。早雲の伊豆侵略と民政,在地武士の掌握は着実に進められ,在地武士松下(三津),鈴木(江梨),大見三人衆(上村,佐藤,梅原),富永(土肥),山本(田子),高橋(雲見),村田(妻良)等は早雲入国と同時にこれに従った。…

【小田原[市]】より

…市域は箱根火山の東麓と,酒匂(さかわ)川下流の沖積地(足柄平野)とを含み,市街地は早川と酒匂川に挟まれた臨海部にある。1495年(明応4)北条早雲が大森氏を滅ぼしてここに拠ってから,後北条5代,約100年間にわたって南関東の中心となり,江戸時代には小田原藩大久保氏の城下町として,10代180年にわたって,足柄一帯の中心地であった。東海道が整備されると,箱根山をひかえた宿場町としてもにぎわうようになった。…

【後北条氏】より

…伊勢宗瑞(俗称北条早雲)を始祖とし,氏綱,氏康,氏政,氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名(図)。早雲はその出自など多くがなぞにつつまれた人物であるが,1476年(文明8)に義忠没後の今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。…

【早雲寺殿廿一箇条】より

…早雲寺殿は伊勢宗瑞(北条早雲)の法名に加贈された尊称であって,宗瑞が制定したとされる家訓。《北条早雲廿一ケ条》ともいう。…

【韮山城】より

…静岡県田方郡韮山町韮山にあった中世の城。1491年(延徳3)北条早雲が堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆を征服し,この地に築城したことに始まる。早雲は相模進出後も居城とし,1519年(永正16)に同地で没した。…

※「北条早雲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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