中国、三国魏(ぎ)の武将。字(あざな)は仲達(ちゅうたつ)。河内(かだい)郡温(おん)県(河南(かなん)省温県)の人。崔琰(さいえん)・荀彧(じゅんいく)に評価されて曹操(そうそう)に仕えるが、才能を警戒され、高位につくことはなかった。魏の初代皇帝である文帝(ぶんてい)曹丕(そうひ)のときに、陳羣(ちんぐん)と並んで行政の最高位にのぼり、明帝(めいてい)曹叡(そうえい)のときに、撫軍(ぶぐん)大将軍に都督荊豫二州(ととくけいよにしゅう)諸軍事を加えられて、方面軍司令官としての資格を得、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))に呼応して反乱を起こした孟達(もうたつ)を斬った。230年には大将軍・大都督(だいととく)となり、諸葛亮の侵攻を防ぐことを通じて軍事権を掌握し、234年には持久戦により、諸葛亮を五丈原(ごじょうげん)に陣没させた。遼東(りょうとう)の公孫(こうそん)氏を滅ぼしたのち、一時、曹室の権力の建て直しを目ざす曹爽(そうそう)に権力を奪われた。しかし、240年、正始(せいし)の政変により曹爽を打倒して権力を確立、王淩(おうりょう)の乱を未然に防ぎ、司馬氏の基盤をつくりあげた。オオカミのように後ろを振り返ることができる狼顧(ろうこ)の相で、顔だけを真後ろに向けることができたという。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』
中国,三国魏の将軍。晋朝建国の基礎を固めたので,のちに宣帝と追尊される。字は仲達。河内郡(河南省)温県の豪族。曹操の知恵袋といわれた荀彧(じゆんいく)の推薦で出仕し,ことに魏の文帝曹丕(そうひ)に重用されて,遺詔により明帝,叡(在位226-239)を補佐すべき重臣に指定された。かくて呉,蜀に対する戦争指導の最高責任を負い,諸葛孔明の指揮する蜀軍と対決して,234年(青竜2)には五丈原で孔明を病死に追いこみ,蜀の脅威を根絶したあと,238年(景初2)には遼東太守の公孫淵を討って朝鮮半島北部に至るまで魏の版図を広げた。239年,明帝の遺詔を受けて新帝の斉王,芳(在位239-254)を補佐することになったが,政敵であった帝室の曹爽(そうそう)一派に実権を奪われ,一時は雌伏を余儀なくされた。その後249年(嘉平1),クーデタによって曹爽一派を誅滅したあとは,司馬懿とその子の司馬師・司馬昭兄弟がつぎつぎに実権を完全に握り,昭の子の司馬炎が晋の初代皇帝(武帝)となった。
執筆者:川勝 義雄
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179~251
魏の権臣。河内温(河南省温県)の人。曹操(そうそう),文帝,明帝(めいてい),斉王に仕え,屯田経営,蜀(しょく)との戦い,遼東の公孫淵(こうそんえん)征討などに功あり,249年クーデタで丞相(じょうしょう)となり,魏の政権を握り,孫の司馬炎が晋(西晋)を建てる基礎を築いた。
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…後をついだ子の曹丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする魏国が正式に成立した。曹丕(文帝)の次の明帝曹叡(そうえい)は高句麗を破り,独立していた公孫淵を滅ぼして,支配地域を遼東から北朝鮮に広げたが,やがて249年(嘉平1)以後,実権は司馬懿(しばい)父子の手に握られ,その意のままに天子の廃立が行われる状態になった。263年(景元4),魏は蜀を滅ぼして,これを併合したが,265年,元帝曹奐(そうかん)は司馬懿の孫の司馬炎に帝位を譲り,魏は5代45年で滅んだのである。…
※「司馬懿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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