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幕末・維新期の軍政家。もと村田良庵,のち蔵六,大村益次郎に改める。名は永敏。長州藩小郡宰判鋳銭司村字大村の勘場(村役所)付医家に生まれる。医業を志し防府の蘭医梅田幽斎に入門し,その勧めにより豊後の広瀬淡窓に漢籍を学び,1846年(弘化3)大坂の緒方洪庵の適塾に医学と蘭学を学び,また長崎でシーボルトにも就学した。48年(嘉永1)に帰坂し,適塾塾頭に任じられ頭角を現した。50年帰郷して医業を開くも振るわず,53年宇和島藩の招きに応じ,高野長英の後任として兵器製造・洋学担当の雇士として兵書翻訳や軍艦製造などに従事した。56年(安政3)同藩士として江戸に出,幕府の蕃書調所教授手伝,講武所教授に出仕。60年(万延1)軍制改革途上の長州藩に呼び戻され,雇士,馬廻士に準じ,のち手廻組に入り,博習堂用掛などを経て64年(元治1)藩校明倫館兵学寮教授になるなど同藩軍制改革に参画した。65年(慶応1)以後は,長州藩の実権を握った討幕派の指導者,木戸孝允,前原一誠らに重用され,西洋流の装条銃を中心とする近代的軍備を徹底させる慶応軍制改革に中心的役割を果たし,このころから農町兵の組織化を積極的に打ち出した。第2次長州征伐に際し,軍政用掛として軍略面を担当し,石州口軍事参謀として幕軍を敗走させ,全軍の作戦についても,大局観と現実性に秀でた戦略を提案し,軍政に不動の地位を得た。戊辰戦争には,新政府の軍務官,江戸府判事,鎮台府民政会計掛に任じられ,戦争終了後は,軍務官副知事,69年(明治2)兵部大輔となり,新政府の軍政を担当。藩兵解散,徴兵制実施,鎮台・鎮守府設置などの急進的な中央集権的軍制を立案した。これは,大久保利通らの藩兵親兵化政策と衝突するものであるとともに,守旧派藩士や地方草莽(そうもう)志士の憎悪を集め,同年京都木屋町で攘夷派の浪士に襲撃されて重傷を受け,その傷がもとで死亡した。
執筆者:井上 勝生
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長州出身の洋学者で近代的軍制の創設者。文政(ぶんせい)8年5月3日、村医村田孝益(むらたたかます)の長男として生まれる。幼名宗太郎(そうたろう)、通称永敏(ながとし)、一時村田蔵六(ぞうろく)と称した。蘭学者(らんがくしゃ)緒方洪庵(おがたこうあん)に師事。洋式兵学の専門家として宇和島藩に招かれてから、幕府に出仕、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)、講武所(教授)を経て長州藩に仕える。一藩を超越した開明的知識人の発想をもち、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの海外密航も斡旋(あっせん)。第二次長州戦争に備えて藩の軍制改革に従事、平民軍の編成に貢献。また、新式銃装備の充実に尽力し、購入のため自ら上海(シャンハイ)に渡った。開戦(1866)になると、石州口(せきしゅうぐち)参謀として優れた戦略を発揮した。王政復古後、明治新政府の軍事指導者となり、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では彰義隊(しょうぎたい)征討に戦功をあげた。1869年(明治2)兵部大輔(ひょうぶたいふ)となる。封建制の解体が進んでいた長州藩の立場を背景に、兵権を天皇に帰属させた全国常備配置の「御親兵(ごしんぺい)」を編成し、ゆくゆくは国民皆兵をもって財政と両立させること、当面はフランス式軍制に拠(よ)りつつ、軍政の根拠地を京阪地方に置くことなど、国軍の基礎を建設する構想を実行に移すべく1869年7月視察に西下した。おりから、その政策は、武士層の特権剥奪(はくだつ)、洋式模倣の弊害をもたらすとして攘夷(じょうい)派の敵意を集めており、同年9月、同じ長州の不平分子らに京都の旅宿で襲撃され負傷、11月5日敗血症で死去した。46歳。その遺志は、山県有朋(やまがたありとも)ら長州系軍政家に継承され、やがて徴兵令の制定に発展する。また、1893年東京・靖国(やすくに)神社に銅像が建立された。
[田中時彦]
『絲屋寿雄著『大村益次郎――幕末維新の兵制改革』(中公新書)』
(影山好一郎)
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1824.5.3~69.11.5
幕末・維新期の軍政家。洋学・兵学に明るく,近代兵器と西洋的組織・陣法を備えた中央集権的軍隊を構想した。はじめ村田良庵,のち蔵六(ぞうろく),大村益次郎。名は永敏(ながとし)。周防国の医師の家に生まれる。緒方洪庵の適々斎塾で学び塾頭にまで進む。宇和島藩に出仕,1856年(安政3)江戸で鳩居堂を開塾。ついで蕃書調所(ばんしょしらべしょ)教授手伝,講武所教授として幕府に出仕。60年(万延元)萩藩に迎えられ慶応軍制改革に参画,66年(慶応2)の第2次長州戦争でその軍制・戦略の有効性が実証された。戊辰戦争でも軍略面で活躍。69年(明治2)新政府の兵部大輔(ひょうぶのたいふ)となり軍制改革を提案,藩兵の親兵化構想と衝突した。また守旧派・草莽(そうもう)志士にもうらまれ,同年京都で襲撃されて約2カ月後に没した。
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