デジタル大辞泉
「寂蓮」の意味・読み・例文・類語
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じゃくれん【寂蓮】
- 平安最末期から鎌倉前期にかけての歌人。僧侶。俗名藤原定長(さだなが)。父は俊成の兄弟、醍醐寺阿闍梨俊海。俊成の養子となり、のちに出家。「新古今和歌集」の撰者の一人となったが、撰なかばで没。優艷で技巧的な歌風。狂歌も得意だった。家集に「寂蓮法師集」。保延五年頃~建仁二年(一一三九頃‐一二〇二)
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寂蓮
じゃくれん
(1139ころ―1202)
平安後期・鎌倉初期の歌人。本名藤原定長。父は醍醐寺(だいごじ)の阿闍梨(あじゃり)俊海。父の出家後、藤原俊成(しゅんぜい)の養子となったが、のち辞して出家。西行に倣い諸国行脚をするとともに歌人としても活躍した。御子左(みこひだり)家の一員として九条家歌壇に属していたが、後鳥羽院(ごとばいん)による新古今歌壇形成とともに、活躍はさらに目覚ましく、1201年(建仁1)和歌所寄人(よりゅうど)に、ついで『新古今和歌集』の撰者(せんじゃ)に選ばれたが、翌年没し、選歌は上進していない。「六百番歌合(うたあわせ)」のおりの六条家の顕昭(けんしょう)との論争(独鈷鎌首(とっこかまくび)の争い)、三夕(さんせき)の歌「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」で知られる。家集に『寂蓮法師集』がある。
[後藤重郎]
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寂蓮
じゃくれん
[生]?
[没]建仁2(1202).7.20. 京都
平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人。僧俊海の子。俗名,藤原定長。伯父の藤原俊成の養子となり,官は中務少輔となったが,応保2 (1162) 年定家が誕生したので家督を譲って出家し,寂蓮と称した。以後歌道に専念し,和歌所寄人となり,『新古今和歌集』の撰者にもなった。勅撰集に 117首入集。能書家という伝称はないが,書は江戸時代に古筆として愛好され,切目王子社,滝尻王子社などで詠んだ『熊野懐紙』や消息が現存する。このほか『右衛門切』『元暦校本万葉集巻六』『西本願寺三十六人集兼輔集』『田歌切』など,寂蓮筆と伝称される書跡があるが確証はない。家集『寂蓮法師集』。
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寂蓮 じゃくれん
1139?-1202 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。
保延(ほうえん)5年?生まれ。俊海の子。伯父藤原俊成(としなり)の養子となり,承安(じょうあん)2年(1172)ごろ出家。西行,寂然(じゃくぜん)らとまじわり,後鳥羽院(ごとばいん)歌壇で活躍し,和歌所の寄人(よりゅうど)になる。「千載和歌集」以下の勅撰(ちょくせん)集に117首のる。家集に「寂蓮法師集」。「新古今和歌集」の撰者(せんじゃ)にえらばれたが,撰進に先だち建仁(けんにん)2年の7月20日ごろ死去。64歳? 俗名は藤原定長。
【格言など】村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(「小倉百人一首」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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