岩崎弥之助(読み)イワサキヤノスケ

デジタル大辞泉 「岩崎弥之助」の意味・読み・例文・類語

いわさき‐やのすけ〔いはさき‐〕【岩崎弥之助】

[1851~1908]実業家土佐の人。弥太郎の弟。小弥太の父。三菱財閥第2代統率者。事業多角化につとめ、銀行・鉱山造船などを一体とした三菱合資会社を発足させた。第4代日本銀行総裁。

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朝日日本歴史人物事典 「岩崎弥之助」の解説

岩崎弥之助

没年:明治41.3.25(1908)
生年:嘉永4.1.8(1851.2.8)
明治期の実業家。三菱財閥の2代目当主。土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の岩崎弥次郎の次男で,弥太郎の弟。母は美和。土佐藩校の致道館を修了後,大阪の兄のもとに行き,ニューヨークで家庭教師に学んだ。明治6(1873)年に三菱商会の副社長に就任し,後藤象二郎の長女の早苗と結婚し,兄を助けて三菱の近代化を進めた。兄の死後の19年に三菱社と改称して社長に就任し,「海から陸へ」の戦略を実行し,まず20年に長崎造船所の払い下げを受けて近代的造船所に育成し,北九州と北海道の炭坑11カ所,佐渡と生野を含む鉱山6カ所を買収した。また第百十九国立銀行を買収し,三菱製紙,小岩井農場,麒麟麦酒を創設した。 26年までに全国で2336町歩の土地を取得し,新潟県では1126町歩の小作地を経営し,児島湾干拓事業にも進出した。22年に東京・丸の内の陸軍用地の原野13.5万坪を150万円で,献金のつもりで買い取り,目的を聞かれて「なに竹を植えて虎でも飼うさ」と大笑したが,やがて丸の内には大ビルが多数建設され,三菱財閥の本拠地になった。20年代には山陽鉄道,九州鉄道,筑豊興業鉄道,北越鉄道,岩越鉄道などに出資し,鉄道の近代化に貢献。23年貴族院議員,29年には第4代日本銀行総裁に就任。 26年の商法施行とともに三菱合資会社を発足させ,弥太郎の長男の久弥が社長,弥之助が監務に就任したが,久弥は温和な性格であったので,実際には弥之助の時代は40年ごろまで続いた。三菱合資本社には銀行部,営業部,鉱山部,造船部が設置され,独立採算に基づく分権的事業部制が展開された。特に営業部は社炭,社銅の販売から出発して取り扱い商品を多角化させ,総合商社の基礎を築いた。弥之助の経営理念は合理主義漸進主義で,専断を行わず,三菱を政商から近代産業基盤とする財閥へ発展させた保守的かつ積極的な2代目であった。3子があり,長男小弥太は久弥のあと三菱財閥4代目当主となった。<参考文献>岩崎弥太郎・弥之助伝記編纂会編『岩崎弥之助伝』,三島康雄『三菱財閥史・明治編』

(三島康雄)

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百科事典マイペディア 「岩崎弥之助」の意味・わかりやすい解説

岩崎弥之助【いわさきやのすけ】

三菱財閥の2代目で岩崎弥太郎の弟。土佐の人。創業者弥太郎の没後,三菱は政府後援の共同運輸会社と利益の少ない激烈な商戦を継続して展開していた。弥之助は日本の海運業の前途のため三菱が海運事業から転換することを決意。政府勧告にのっとり三菱会社共同運輸会社を合併して日本郵船が創立されると,1886年海運を除く三菱の諸事業(鉱山・造船・銀行など)をまとめて三菱社(三菱合資会社の前身)を設立,社長となる。この転換により三菱は,弥太郎の時代の海運中心から陸上事業中心に再生された。1896年弥太郎の長男の久弥に社長を譲り,同年日銀総裁に就任。文化事業にも力を入れ静嘉堂文庫を作った。
→関連項目岩崎小弥太小岩井農場

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩崎弥之助」の意味・わかりやすい解説

岩崎弥之助
いわさきやのすけ
(1851―1908)

三菱(みつびし)財閥第2代の統率者。明治の代表的な実業家。嘉永(かえい)4年1月8日、土佐国安芸(あき)郡井ノ口村(高知県安芸市)に三菱の創業者弥太郎(やたろう)の弟として生まれる。藩校致道館(ちどうかん)や大坂の成達(せいだつ)書院に学び、兄弥太郎の片腕となって九十九(つくも)商会以来の草創期三菱の事業に尽力した。1885年(明治18)弥太郎の死後、海運業を分離した後の三菱社の社長となり、事業多角化に努め、93年財閥本社(三菱社)、銀行、鉱山、炭礦(たんこう)、造船などを一体とした三菱合資会社を発足させた。その際、社長を弥太郎の長男久弥(ひさや)へ譲り後見役に退いた。96年第4代日銀総裁に就任。なお同年には久弥とともに男爵を授けられた。妻早苗(さなえ)は後藤象二郎(しょうじろう)の娘、長男小弥太(こやた)は第4代の三菱財閥統率者になる。

[松元 宏]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩崎弥之助」の意味・わかりやすい解説

岩崎弥之助
いわさきやのすけ

[生]嘉永4(1851).1.8. 土佐
[没]1908.3.25. 東京
三菱財閥の2代目の当主。岩崎弥太郎の弟で,弥太郎の在世中はその補佐役であったが,1885年兄のあとをうけて三菱会社の社長となり,敵対していた共同運輸会社と合併して日本郵船会社を設立。その後も鉱山,銀行,造船など諸事業を発展させ,三菱財閥を確立させた。 93年三菱合資会社に改組し,弥太郎の嗣子久弥に社長を譲って引退,96年日本銀行総裁となる。彼の在任期間は短かったが,金本位制の確立,恐慌対策において努力するところがあった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩崎弥之助」の解説

岩崎弥之助 いわさき-やのすけ

1851-1908 明治時代の実業家。
嘉永(かえい)4年1月8日生まれ。岩崎弥太郎の弟。三菱財閥2代目。明治18年病死した兄の跡をつぎ郵便汽船三菱社長となる。共同運輸と合併し日本郵船を設立するとともに海運事業から転換。鉱業,造船,銀行などの事業をすすめる。26年甥(おい)の岩崎久弥と三菱合資を創立。29年第4代日銀総裁。静嘉堂文庫をつくった。明治41年3月25日死去。58歳。土佐(高知県)出身。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岩崎弥之助」の解説

岩崎弥之助
いわさきやのすけ

1851.1.8~1908.3.25

明治期の実業家。土佐国生れ。岩崎弥太郎の弟。弥太郎の主宰する郵便汽船三菱会社の経営を助けたが,1885年(明治18)弥太郎の死にともない同社の社長に就任,同年共同運輸と合併して日本郵船を設立した。86年三菱社を設立,鉱業・造船などを拡充して三菱財閥の基礎を築き,93年弥太郎の長男久弥を社長に合資会社に改組した。96年男爵。同年日本銀行総裁に就任,98年退任した。

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