平安末期の武士。桓武平氏。経盛(清盛の異母弟)の子。〈無官の大夫〉(大夫は五位の通称)と呼ばれた。閲歴は不明であるが,《平家物語》や幸若舞曲や能の《敦盛》などに語られる,16年の短い生涯を閉じた最期のありさまによって,後世にその名を残す。一ノ谷の合戦は源氏の勝利に終わり,平家一門は海上へと敗走した。敦盛は舟に乗り遅れ,ただ一騎で馬を泳がせ舟を追った。そのとき,源義経配下の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められ,浜辺へ引き返して直実と戦った。組討ちに敗れた敦盛の首を直実がかき切ろうとしたとき,直実の心に敦盛と同年輩の子小次郎のことが浮かび躊躇する。直実は敦盛を助けたいと思うが,すでに源氏の軍勢に取り囲まれており,泣く泣く敦盛を討ち取ったという話である。本来,この話は熊谷直実(法名蓮生)の発心譚であったものが,しだいに敦盛像も理想化されていったらしい。また,敦盛の遺児が敦盛の亡霊と出合い,父の菩提(ぼだい)を弔ったという虚構の後日33baを扱った御伽草子《小敦盛》や能《生田敦盛》がある。
執筆者:西脇 哲夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安末期の武将。経盛(つねもり)の末子。従(じゅ)五位下に叙せられたが官職についていなかったので無官大夫(むかんのたゆう)とよばれた。1184年(元暦1)2月、源義経(よしつね)軍との一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、海上へ逃れた。このとき逃げ遅れた敦盛は、源氏方の武蔵(むさし)国住人熊谷直実(くまがいなおざね)に捕り押さえられ、討たれた。2月7日、16歳または17歳と伝えられる。笛の名手で、祖父忠盛(ただもり)が鳥羽(とば)院より賜った名笛小枝(さえだ)を携えていたという。敦盛を討った直実が、人生の無常を感じ出家する話は『平家物語』などに収められ、幸若(こうわか)舞曲『敦盛』、謡曲『敦盛』、また浄瑠璃(じょうるり)『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』などとしてよく知られている。
[田辺久子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1169~84.2.7
平安末期の武将。平清盛の異母弟の経盛の末子。従五位下の位階をもつが官職につかなかったため,無官大夫と称される。1184年(元暦元)一の谷の戦で敗れた平家方は海上へ逃れたが,敦盛は逃げ遅れて源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた。16歳での悲劇的な死が後世の人々の同情を誘い,「平家物語」や謡曲「敦盛」などに語り伝えられた。横笛の名手ともいう。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
(田中文英)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…宗輔が三段目までを書き,没後に浅田らが完成したと伝えられる。《平家物語》の世界から,一ノ谷の戦における岡部六弥太と平忠度,熊谷次郎直実と平敦盛の戦いの部分を抽出し,脚色したもの。源義経の指令によって,六弥太は忠度に〈さざ波や〉の歌が《千載集》に入集したことを伝えるので,忠度はその恩によって,六弥太に討たれる。…
…一所懸命の地を守り,侍の身分であることを誇りとした東国武士の典型である。なお《平家物語》では,直実が出家したのは,一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取ったことによるとしているが,これは史実ではない。【細川 涼一】
[伝承と作品化]
熊谷直実は実在した武将であるが,伝承の世界でも話題に事欠かぬ人物である。…
※「平敦盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加