鎌倉幕府成立期の在地武士。直貞の次男。武蔵国熊谷郷を本拠地とした。1180年(治承4)の石橋山の戦では平家方であったが,のち源頼朝に従い,佐竹追討に際しての戦功で,一族の久下直光に押領されていた熊谷郷を安堵された。その後,平家追討の戦いでは源義経に従って活躍。87年(文治3)の鶴岡の流鏑馬(やぶさめ)に際して的立て役を命じられたが,同じ御家人で騎馬の射手がいるのに対し,徒歩(かち)の役につくのは恥辱だと拒否。92年(建久3)かねてよりの久下直光との境相論に敗れたことから激怒して出家,法然の弟子となって蓮生(れんしよう)と号した。一所懸命の地を守り,侍の身分であることを誇りとした東国武士の典型である。なお《平家物語》では,直実が出家したのは,一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取ったことによるとしているが,これは史実ではない。
執筆者:細川 涼一
熊谷直実は実在した武将であるが,伝承の世界でも話題に事欠かぬ人物である。《平家物語》巻九〈敦盛最期〉には敦盛と直実の対決が理想化されて描かれている。薄化粧に,鉄漿黒(かねぐろ)をつけた敦盛が,従容と,名のりもしないで討たれるけなげな若者として登場する一方で,直実は生死の際に直面して,なお剛直さと人間味を失わぬ東国武士の典型としてとらえられている。直実の出家については《吾妻鏡》に見える記述が実伝であると考えられており,誤りはないが,〈敦盛最期〉に述べられているように,敦盛の死が直実の出家の動機としてまずあげられ,次に笛の名手であった敦盛の楽の音が,直実をして讃仏乗の因(仏道を賛仰する原因)となったという結句は,語り物の章段の終り方としては効果的である。謡曲《敦盛》になると,音楽にたんのうな敦盛の伝承を生かしながら,亡霊となった敦盛が,念仏者である直実を現在の仇として討たんとしながらも念仏回向を頼み,同じ蓮(はちす)に生まれることを願うという趣向に変わっている。近世に入ると,浄瑠璃の《一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)》(1751初演)が名高いが,三段目(切,生田熊谷陣屋)はよく知られており,義経の内意を悟った直実が,表面は敦盛を討ち取ったと見せ,一子小太郎を身替りに立てるという改変を行っている。そのほか同じ浄瑠璃に,延宝期(1673-81)に宇治加賀掾の語った《念仏往生記》や享保期(1716-36)の説経節,天満八太夫の正本《熊谷先陣問答》があるが,共通したモティーフとして,出家した熊谷の庵を,父と知らず訪ねた姉弟に,名のりをせずして帰してしまう道心堅固な直実の像が語られている。高野山に隠遁した直実は,重源(ちようげん)を中心とする新別所の社友と深い関係にあったことなどが,二つの作に働きかけ,高野聖としての熊谷の面影を浮上させた。
執筆者:岩崎 武夫
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平安末期から鎌倉初期の武将。直貞(なおさだ)の次男。母は武蔵(むさし)国の豪族久下権守直光(くげごんのかみなおみつ)の妹。法名は蓮生(れんしょう)。当初は直光に仕える身であったが、直光の代官として京都大番を務めたおりに、武蔵国の国司平知盛(とももり)に仕えた。そのため直光は、直貞、直実に与えた武蔵国熊谷(くまがや)郷(埼玉県熊谷市)を押領(おうりょう)。以後、直実は直光からの自立を目ざしていく。1180年(治承4)石橋山の戦いには、大庭景親(おおばかげちか)に属して、源頼朝(よりとも)を攻めたが、東国の状況を察した直実は、頼朝に従い佐竹秀義(さたけひでよし)追討に功をたて、ついに頼朝より熊谷郷の安堵(あんど)を受ける。その後、平氏追討に活躍する。一ノ谷の戦いで平敦盛(あつもり)を討ち出家した話は有名であるが、じつは92年(建久3)直光との堺(さかい)(境)相論にあたり、頼朝の下そうとする判決が不当なものだとして怒り出家したものである。この直実の行動は、87年(文治3)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の流鏑馬(やぶさめ)に歩行(かち)役である的立役(まとたてやく)に任じられたことに対して、「御家人(ごけにん)はみな傍輩(ほうばい)なり」と主張し、断固拒否したというエピソードとともに、御家人身分に列することで自立化を図ろうとした東国の小武士の姿勢をよく示している。
[鈴木哲雄]
(田中文英)
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1141~1208.9.14
平安末~鎌倉初期の武士。直貞の子。平治の乱には源義朝方に属するが,乱後,京都大番役勤務中に平知盛に仕える。1180年(治承4)石橋山の戦で平家方の大庭景親に従うが,まもなく源頼朝に服する。佐竹氏討伐の戦功により,2年後,本領の武蔵国大里郡熊谷郷(現,埼玉県熊谷市)の地頭職を安堵される。源義仲や平家との戦いでも活躍,一の谷の戦では先陣を争い,平敦盛を討ちとる。87年(文治3)流鏑馬(やぶさめ)の的立て役を忌避して所領の一部を没収される。92年(建久3)久下(くげ)直光との所領争いで不利な裁決がくだると,上洛して法然の門下に入る。法名は蓮生(れんしょう)。
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…《言継卿記》)。熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討つことになり,敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届け書状を取りかわす。無常を感じた直実は法然上人を師として出家,蓮生坊と名乗って敦盛の菩提を弔い,高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げる。…
…〈兵の本意は先登なり,先登に進むの時,敵は名謁(なのり)をもってその仁を知る〉との《吾妻鏡》に引用する下河辺行平の詞は武士一般の先懸への思惑を端的に示すものであろう。また同じく《吾妻鏡》には熊谷直実が佐竹征伐の功績によって熊谷郷の地頭職を安堵された下文(くだしぶみ)が見えるが,そこには〈直実,万人に勝れて前懸(さきがけ)し,一陣を懸け壊り,一人当千の高名を顕す〉との文言が付され,これが合戦における武士の勧賞(げんしよう)に値するものであったことを示している。しかし,後世集団戦が一般化すると個人本位の先懸は姿を消すに至る。…
…敦盛は舟に乗り遅れ,ただ一騎で馬を泳がせ舟を追った。そのとき,源義経配下の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められ,浜辺へ引き返して直実と戦った。組討ちに敗れた敦盛の首を直実がかき切ろうとしたとき,直実の心に敦盛と同年輩の子小次郎のことが浮かび躊躇する。…
※「熊谷直実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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