熊谷直実(読み)くまがいなおざね

精選版 日本国語大辞典 「熊谷直実」の意味・読み・例文・類語

くまがい‐なおざね【熊谷直実】

鎌倉初期の武将。直貞の子。通称、次郎。武蔵国熊谷の御家人。はじめ平知盛に仕えたが、源頼朝に降り、一ノ谷の合戦で平敦盛を切る。のち、出家して法然に帰依し蓮生と号した。永治元~承元二年(一一四一‐一二〇八

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デジタル大辞泉 「熊谷直実」の意味・読み・例文・類語

くまがい‐なおざね〔‐なほざね〕【熊谷直実】

[1141~1208]鎌倉初期の武将。武蔵国熊谷の人。はじめ平知盛に仕えたが、のち源頼朝に仕え、一ノ谷の戦い平敦盛を討った話は有名。建久3年(1192)所領争いに敗れ、自ら髪を切って法然の門に入り、蓮生れんじょうと名のった。

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改訂新版 世界大百科事典 「熊谷直実」の意味・わかりやすい解説

熊谷直実 (くまがいなおざね)
生没年:1141-1208(永治1-承元2)

鎌倉幕府成立期の在地武士。直貞の次男。武蔵国熊谷郷を本拠地とした。1180年(治承4)の石橋山の戦では平家方であったが,のち源頼朝に従い,佐竹追討に際しての戦功で,一族の久下直光に押領されていた熊谷郷を安堵された。その後,平家追討の戦いでは源義経に従って活躍。87年(文治3)の鶴岡の流鏑馬(やぶさめ)に際して的立て役を命じられたが,同じ御家人で騎馬の射手がいるのに対し,徒歩(かち)の役につくのは恥辱だと拒否。92年(建久3)かねてよりの久下直光との境相論に敗れたことから激怒して出家,法然の弟子となって蓮生(れんしよう)と号した。一所懸命の地を守り,侍の身分であることを誇りとした東国武士の典型である。なお《平家物語》では,直実が出家したのは,一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取ったことによるとしているが,これは史実ではない。
執筆者:

熊谷直実は実在した武将であるが,伝承の世界でも話題に事欠かぬ人物である。《平家物語》巻九〈敦盛最期〉には敦盛と直実の対決が理想化されて描かれている。薄化粧に,鉄漿黒(かねぐろ)をつけた敦盛が,従容と,名のりもしないで討たれるけなげな若者として登場する一方で,直実は生死の際に直面して,なお剛直さと人間味を失わぬ東国武士の典型としてとらえられている。直実の出家については《吾妻鏡》に見える記述が実伝であると考えられており,誤りはないが,〈敦盛最期〉に述べられているように,敦盛の死が直実の出家の動機としてまずあげられ,次に笛の名手であった敦盛の楽の音が,直実をして讃仏乗の因(仏道を賛仰する原因)となったという結句は,語り物の章段の終り方としては効果的である。謡曲《敦盛》になると,音楽にたんのうな敦盛の伝承を生かしながら,亡霊となった敦盛が,念仏者である直実を現在の仇として討たんとしながらも念仏回向を頼み,同じ蓮(はちす)に生まれることを願うという趣向に変わっている。近世に入ると,浄瑠璃の《一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)》(1751初演)が名高いが,三段目(切,生田熊谷陣屋)はよく知られており,義経の内意を悟った直実が,表面は敦盛を討ち取ったと見せ,一子小太郎を身替りに立てるという改変を行っている。そのほか同じ浄瑠璃に,延宝期(1673-81)に宇治加賀掾の語った《念仏往生記》や享保期(1716-36)の説経節天満八太夫正本《熊谷先陣問答》があるが,共通したモティーフとして,出家した熊谷の庵を,父と知らず訪ねた姉弟に,名のりをせずして帰してしまう道心堅固な直実の像が語られている。高野山に隠遁した直実は,重源(ちようげん)を中心とする新別所の社友と深い関係にあったことなどが,二つの作に働きかけ,高野聖としての熊谷の面影を浮上させた。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「熊谷直実」の意味・わかりやすい解説

熊谷直実
くまがいなおざね
(1141―1208)

平安末期から鎌倉初期の武将。直貞(なおさだ)の次男。母は武蔵(むさし)国の豪族久下権守直光(くげごんのかみなおみつ)の妹。法名は蓮生(れんしょう)。当初は直光に仕える身であったが、直光の代官として京都大番を務めたおりに、武蔵国の国司平知盛(とももり)に仕えた。そのため直光は、直貞、直実に与えた武蔵国熊谷(くまがや)郷(埼玉県熊谷市)を押領(おうりょう)。以後、直実は直光からの自立を目ざしていく。1180年(治承4)石橋山の戦いには、大庭景親(おおばかげちか)に属して、源頼朝(よりとも)を攻めたが、東国の状況を察した直実は、頼朝に従い佐竹秀義(さたけひでよし)追討に功をたて、ついに頼朝より熊谷郷の安堵(あんど)を受ける。その後、平氏追討に活躍する。一ノ谷の戦いで平敦盛(あつもり)を討ち出家した話は有名であるが、じつは92年(建久3)直光との堺(さかい)(境)相論にあたり、頼朝の下そうとする判決が不当なものだとして怒り出家したものである。この直実の行動は、87年(文治3)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の流鏑馬(やぶさめ)に歩行(かち)役である的立役(まとたてやく)に任じられたことに対して、「御家人(ごけにん)はみな傍輩(ほうばい)なり」と主張し、断固拒否したというエピソードとともに、御家人身分に列することで自立化を図ろうとした東国の小武士の姿勢をよく示している。

[鈴木哲雄]

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朝日日本歴史人物事典 「熊谷直実」の解説

熊谷直実

没年:承元2.9.14(1208.10.25)
生年:永治1(1141)
平安末・鎌倉前期の武士。武蔵国大里郡熊谷郷(熊谷市)の領主,直貞の次男。通称次郎,法名蓮生。2歳で父を失い,叔父の久下直光に養育されたが,直光の代理で大番役に上洛したとき,傍輩の侮辱を受けて憤慨し,平知盛に仕えて都にとどまった。その間に直光が直実の所領を押領したため境相論が発生した。治承4(1180)年4月の石橋山の戦では,平家方として源頼朝を攻めたが,まもなく頼朝の配下となり,11月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功をあげ,本領の熊谷郷の地頭職に補任された。次いで,元暦1(1184)年の宇治川の戦や,一の谷の戦などでも武名をあげるが,特に一の谷の戦で16歳の平敦盛を討ったことは有名で,『平家物語』などは,これがのちに直実が出家する機縁になったという。文治3(1187)年,鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して,頼朝の不興を買い,所領の一部を没収された。さらに建久3(1192)年叔父直光との境相論の席上,頼朝が直光を支持する気配をみせたことに立腹して,逐電。京都に赴き,法然の門に入り,蓮生と号した。直実の出家の動機をこの所領相論にもとめる説が有力。その直情径行な性格にふさわしく,一心に上品上生の往生を立願して,死期を予言し,予言どおり,端座合掌して高声念仏しながら往生したという。

(田中文英)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「熊谷直実」の意味・わかりやすい解説

熊谷直実
くまがいなおざね

[生]永治1(1141)
[没]承元2(1208).9.14. 京都
平安時代末期~鎌倉時代初期の武士。父は直貞。桓武平氏貞盛の子孫と伝えられる。武蔵国大里郡熊谷の住人。京都で平知盛に仕え,源頼朝挙兵の当初には,平氏軍の一員として相模国石橋山で頼朝を攻めた (→石橋山の戦い ) 。その後頼朝の家人となり,治承4 (1180) 年の常陸国佐竹氏の討伐,寿永3 (84) 年の源義仲との戦い,同年の一ノ谷の戦いなどに活躍して一騎当千と称せられた。一ノ谷の戦いで平敦盛を斬ったことは特に有名。建久3 (92) 年,一族久下直光と領地の境界について紛争を起し,裁判の不利な経過に憤激して鎌倉を去り,京都で法然の弟子となって出家した。法名蓮生。

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百科事典マイペディア 「熊谷直実」の意味・わかりやすい解説

熊谷直実【くまがいなおざね】

鎌倉初期の武士。直貞の次子。次郎直実と通称される。武蔵熊谷(むさしくまがや)郷の人。幼時父を失い久下(くげ)直光に養われた。源頼朝挙兵の時,初め平氏に属して頼朝を攻めたが,のち頼朝に従い戦功をたてた。1192年久下直光との所領相論に敗れて出家,蓮生(れんしょう)と称した。一ノ谷の戦平敦盛を斬った話は有名だが,史実ではない。
→関連項目光明寺誕生寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「熊谷直実」の解説

熊谷直実
くまがいなおざね

1141~1208.9.14

平安末~鎌倉初期の武士。直貞の子。平治の乱には源義朝方に属するが,乱後,京都大番役勤務中に平知盛に仕える。1180年(治承4)石橋山の戦で平家方の大庭景親に従うが,まもなく源頼朝に服する。佐竹氏討伐の戦功により,2年後,本領の武蔵国大里郡熊谷郷(現,埼玉県熊谷市)の地頭職を安堵される。源義仲や平家との戦いでも活躍,一の谷の戦では先陣を争い,平敦盛を討ちとる。87年(文治3)流鏑馬(やぶさめ)の的立て役を忌避して所領の一部を没収される。92年(建久3)久下(くげ)直光との所領争いで不利な裁決がくだると,上洛して法然の門下に入る。法名は蓮生(れんしょう)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「熊谷直実」の解説

熊谷直実 くまがい-なおざね

1141-1208 平安後期-鎌倉時代の武将。
永治(えいじ)元年生まれ。武蔵(むさし)大里郡(埼玉県)熊谷(くまがや)郷の人。平家方から源頼朝の配下に転じ,本領熊谷郷の地頭職をみとめられる。平氏追討に活躍し,一ノ谷の戦いで平敦盛(あつもり)を討つ。建久3年伯父久下(くげ)直光との領地あらそいに頼朝がくだした裁定を不服として出家,法然の門にはいった。承元(じょうげん)2年9月14日死去。68歳。通称は次郎。法名は蓮生(れんじょう)。
【格言など】浄土にもがう(剛)のものとや沙汰すらん西にむかひてうしろみせねば(「法然上人絵伝」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「熊谷直実」の解説

熊谷直実
くまがいなおざね

1141?〜1208
鎌倉初期の武将
平貞盛の子孫で,武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)に住む。1180年,石橋山の戦いに源頼朝 (よりとも) を攻めたが,のち頼朝に従い,一の谷の戦いで平敦盛 (あつもり) を討ちとるなど,平氏征討に功をたてた。'92年所領争いに敗れて出家し,法然の門に入り蓮生と名のった。

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世界大百科事典(旧版)内の熊谷直実の言及

【敦盛】より

…《言継卿記》)。熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討つことになり,敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届け書状を取りかわす。無常を感じた直実は法然上人を師として出家,蓮生坊と名乗って敦盛の菩提を弔い,高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げる。…

【先懸(先駆)】より

…〈兵の本意は先登なり,先登に進むの時,敵は名謁(なのり)をもってその仁を知る〉との《吾妻鏡》に引用する下河辺行平の詞は武士一般の先懸への思惑を端的に示すものであろう。また同じく《吾妻鏡》には熊谷直実が佐竹征伐の功績によって熊谷郷の地頭職を安堵された下文(くだしぶみ)が見えるが,そこには〈直実,万人に勝れて前懸(さきがけ)し,一陣を懸け壊り,一人当千の高名を顕す〉との文言が付され,これが合戦における武士の勧賞(げんしよう)に値するものであったことを示している。しかし,後世集団戦が一般化すると個人本位の先懸は姿を消すに至る。…

【平敦盛】より

…敦盛は舟に乗り遅れ,ただ一騎で馬を泳がせ舟を追った。そのとき,源義経配下の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められ,浜辺へ引き返して直実と戦った。組討ちに敗れた敦盛の首を直実がかき切ろうとしたとき,直実の心に敦盛と同年輩の子小次郎のことが浮かび躊躇する。…

※「熊谷直実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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