出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
奈良県北西部,生駒郡の町。1947年に竜田町,法隆寺村,富郷村が合体して改称。人口2万7734(2010)。奈良盆地の中西部から矢田丘陵の南半部を占める。町名は聖徳太子によって造営された斑鳩宮に由来する。町の中央部に位置する法隆寺は,現存する世界最古の木造建築として有名で,日本の古代美術の宝庫である。付近には弥勒菩薩で知られる中宮寺,その北東方には三重塔の美しい法起寺や法輪寺,西方には紅葉の美しさを古歌にうたわれた竜田川や三室山があって古くから〈斑鳩の里〉として親しまれ,観光客が多い。JR関西本線が通じ,国道25号線沿いには電気機器関係などの工場が立地し,宅地化も徐々に進みつつある。なお,竜田地区はかつてこの地域の商業の中心として栄えたが,今は小規模な街村にすぎない。
執筆者:橋本 征治
矢田丘陵南東麓,富雄川右岸の斑鳩の地が,クローズアップされてくるのは,601年(推古9)2月,聖徳太子が斑鳩宮の造営を開始したときからである。聖徳太子は,605年10月に斑鳩宮に移り,621年2月に斑鳩宮で没した。643年(皇極2),上宮王家は蘇我入鹿によって滅ぼされ,その際,斑鳩宮も焼失した。1939年,東院伽藍(夢殿を中心とする地域)の修理に際し,舎利殿,絵殿,伝法堂の地下調査が行われ,斑鳩宮のものと考えられる掘立柱穴が確認された。また,82年には,斑鳩宮の南限を示す大溝が検出された。聖徳太子は,斑鳩宮にいたとき,法隆寺を建立している。すなわち,747年(天平19)の《法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳》によれば,607年(推古15)に法隆寺が完成した。また,金堂の薬師如来光背銘はいろいろ問題を含むものであるが,同年に,用明天皇の遺命に従い,推古女帝とともに,この薬師像を造ったことになっている。この法隆寺は,いわゆる若草伽藍であり,669年(天智8)もしくは翌年に焼亡した。普門院の裏に,若草伽藍の塔の心礎が残っている。また,1982年秋の発掘調査で,若草伽藍の北限を囲む柵列が検出された。壬申の乱後,天武朝に入って,若草伽藍西側の丘陵を利用して,西院伽藍(現在の法隆寺)の造営が開始され,711年(和銅4)ころには,主要な堂塔がほぼ完成した。斑鳩の地には,このほか,いくつかの宮や寺院が存在した。《大安寺伽藍縁起資財帳》にみえる聖徳太子の飽波(葦垣)宮,法起寺塔露盤銘にみえる山背大兄王の山本宮(岡本宮とも),聖徳太子の母である穴穂部間人皇女の宮(中宮と称された)等があり,寺院としては,法輪寺,法起寺,中宮寺などがある。斑鳩地域には,3種以上の地割痕跡があり,数度にわたり整地・開発の進められたことがうかがえる。斑鳩と飛鳥を結ぶ古道に太子道(筋違(すじかい)道)があり,斑鳩からは竜田越を利用できた。また,大和川にも近く,大和川水運を利用できる,水陸交通の要衝であった。こうした地理的条件が,7世紀に,斑鳩を飛鳥とならぶ文化の中心地としたのであろう。
執筆者:和田 萃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…《日本書紀》によれば595年,高句麗から慧慈,百済から慧聡が来朝し,翌年の竣工とともに同寺止住の僧侶となり,ここにはじめて仏法僧が備わった法興寺が出現したのである。
[斑鳩移宮]
598年になると,高句麗は隋の遼西地方に侵入し,隋は敗北した。600年新羅は任那に侵入し,日本も新羅に派兵するという緊迫した情勢の下に,日本は遣隋使を派遣する(《隋書》倭国伝)。…
※「斑鳩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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