1960年代の日本経済は,明治維新以来の日本の経験に例がなく,諸外国にも類をみないほど,急速な経済成長を遂げた。それを高度経済成長ないし単に高度成長と呼ぶ。またこの時期ないしこの時期を中心とした十数年間を高度成長期という。
この時期には実質成長率が10%を超える年がほぼ続いている(図)。1960年代全体の年平均実質成長率は10.7%であり,50年代の8.8%,70年代の4.5%よりも,明らかに高い。50年代と60年代との差は一見小さいが,50年代の経済成長には戦後復興要因を含んでいる。復興要因がすでに消滅したと考えられる60年代の経済が,復興要因に大いに助けられた50年代の経済よりも,より急速に成長したのである。また,当時大多数の人々は,復興要因の消滅は経済成長を減速させるものと予想していた。
いまから考えると,世界的にみてもこの時期は,第2次大戦後に経済運営の基本原則とされたケインズ主義と福祉国家の考え方が,主としてプラスの効果を発揮して,空前の繁栄期であった。欧米の西側先進諸国の成長率も,日本と比べれば低いが,それら諸国の過去の経験と比べれば高い。この恵まれた国際環境が,日本の高度成長を支えた一つの条件だとも考えられる。また日本国内では,1960年に,注目すべき事件がいくつか起きている。まず,〈石炭から石油へ〉のエネルギー源転換に労働組合が強く抵抗した三井三池鉱山の争議は,60年1月に無期限ストに突入したが,11月には中央労働委員会の斡旋で解決する。また,新日米安全保障条約は,1月に調印され,5月には連日デモ隊が国会を包囲する騒然たる雰囲気のなかで,自由民主党によって衆議院で強行採決されて,6月には自然成立する。他方,7月には池田勇人内閣が発足し,12月に国民所得倍増計画を決定する。それらは,1950年代の〈政治の季節〉の終焉(しゆうえん)を告げ,60年代の〈経済の季節〉の到来を予告する象徴的な事件であった。
高度経済成長は,まず生産の面では,技術革新の急速な進行を特色とする。合成繊維,プラスチック,家庭電器など,新製品が導入され新産業が勃興した。鉄鋼業での高炉の大型化やストリップミルの導入など,生産技術が飛躍的に進歩し,コンビナート化などと相まって,規模の利益を利用して生産コストを大幅低下させた。石油化学系を中心とする新材料が,天然繊維・木材・ゴム・皮革などを代替する動きも顕著だった。コンピューターやオートメーションを使う新しい経営管理方式も,この時期に始まっている。他方,流通の面では,スーパーマーケットが随所に出現し,〈流通革命〉がしきりにいわれるようになった。
その結果,国民生活も大きく変貌する。生活水準が目に見えて上昇するなかで,高度成長の前期には〈三種の神器〉と呼ばれた電気洗濯機,電気冷蔵庫,白黒テレビが,後半期には〈3C〉と呼ばれたカー,クーラー,カラーテレビが,それぞれつぎつぎと家庭へ導入されて人々のライフスタイルを一変させた。インスタント食品が出はじめ,レジャー目的の海外旅行が珍しくなくなりはじめるのも,このころからのことである。
日本の宿命とまでいわれた労働力の過剰が,ごく短期間のうちに解消され,逆に人手不足に転じた。そのため,おもに中小企業では農村部の中学校,高等学校の新規卒業者の採用に力を入れ,毎年春には集団就職列車が東北,九州などから東京,大阪へと走った。大企業と比べて著しく低賃金であった中小・零細企業では,それでは必要な労働力を確保できないことから大幅賃上げをするなど,とくにそれまでの低賃金部門で賃金が急上昇するという形で,企業規模別の賃金格差は急速に縮小し,いわゆる二重構造の解消が進んだ。しかし,賃金が急上昇しながら,生産性の上昇が伴わないときには,生産コストは上がり,それは製品価格に転嫁される。高度成長の開始とほぼ同時に,消費者物価は根づよい上昇傾向をみせはじめ,高度成長の〈ひずみ〉として人々の注目を集めた。
しかし,東京,大阪,名古屋の三大都市圏へ向けて,全国各地から,とくに若い労働力が移動することは,一方で農山村に〈過疎〉を生じさせ,農業など第1次産業の不振を招くばかりか,ときには地域共同体そのものの崩壊にまで及ぶこととなった。他方,大都市では,急激な人口急増に住宅や社会資本の充実がなかなか追いつかない結果,逆に〈過密〉が生じてきた(〈過疎・過密〉の項参照)。〈過密〉を放置したままで生産を増大させれば,公害やその他環境破壊が多発することは避けられない。それらもまた,すべて高度成長の〈ひずみ〉とみなされる。
とくに高度経済成長の後期には,成長の恩恵よりはむしろその〈ひずみ〉のほうに,より多くの注目が集まるようになる。ちょうどそのころから,国際環境が大きく揺らぎはじめた。1971年8月に,アメリカのニクソン大統領は金ドル交換停止,新10%の輸入課徴金,90日間の物価・賃金凍結などを内容とする新経済政策を発表し,ドルとそれを支えるアメリカの経済力とに,往年の強さがないことをみずから認めた(ニクソン・ショックないしドル・ショックといわれる)。同年12月の多国間通貨調整は,新しい為替レート下で固定相場制を復活させるかにみえたが,その2年後,73年の2~3月に起きた国際通貨不安は,ついに固定相場制を崩壊させ,世界が変動相場制へ突入した。さらに同年10月には,OAPEC(アラブ石油輸出国機構)が〈石油戦略〉を発動し,全世界に大きな衝撃を与えた(第1次石油危機)。
図に見るとおり、日本の高度成長は1960年代とともに終わった。60年代が〈経済の季節〉だとすると,70年代は,世界とそれを構成する多数の諸国にとっては,おそらく〈混乱の季節〉といえよう。そのなかで日本経済は,成長率はかつての半分をさえ下まわるとはいえ,国内の混乱を最小限に抑え,世界における地歩を高めることに成功した。
執筆者:飯田 経夫
高度経済成長期は,池田勇人,佐藤栄作両内閣の時代にほぼ見合っており,政府の基本政策としても高度経済成長が採用された時期であった。
第2次大戦によって日本経済は壊滅的打撃をうけたので,戦後の政府の大きな課題は経済の再建復興であった。そして傾斜生産方式やドッジ・ラインなどの独占資本を中心とする再建政策でしだいに再編強化の道を歩み,鉱工業生産指数は1934-36年平均を100として55年には180に達した。財界主導の経済発展をめざす経済団体連合会(経団連),日本経営者団体連盟(日経連),経済同友会(同友会),日本商工会議所(日商)の経済4団体は,経済成長をめざす政策の安定のために,保守合同の促進を図り,たびたび共同声明を発表して,55年11月の自由民主党結成をリードした。保守合同後の第3次鳩山一郎内閣は,55年12月経済自立五ヵ年計画を立て,独占資本を中心とする合理化と弱小企業切捨て政策を積極的に推進した。55年は世界経済が好況を続け,国際的な緊張緩和(デタント)の影響もあって,後半から輸出船のブームが始まり,〈神武景気〉とうたわれた。56年日ソ国交回復と国連への加入が実現し,国際社会に日本が正式に復帰したことにより,貿易が拡大した。1955年以来の好況は57年,58年にいったん〈なべ底景気〉を迎えるが,59年には設備投資の増加,耐久消費財の大幅な普及によってふたたび好況に転じ,59年後半期から60年後半期にかけては,〈岩戸景気〉といわれる活況を呈していた。
自由民主党結成以後の鳩山,岸信介両内閣は,憲法改正,再軍備を目標とし,占領下の吉田茂政治を否定し,戦前の軍事大国への復帰をめざす政策を進めた。これに対し国民のなかには反戦平和と憲法擁護の運動が広がった。こうした運動を背景に1955年2月の衆議院総選挙と56年4月の参議院選挙では,いずれも革新派が1/3を突破してとりあえず改憲阻止に成功し,58年5月の衆議院総選挙では,社会党が単独で1/3を超す166議席を得た。60年1月岸内閣は,日米安保体制の固定化を図る新日米安保条約に調印したが,これに対しては空前の規模の反対運動がおこった。安保反対闘争のかつてない高揚は,国民のなかに平和への意志が強く,改憲・再軍備政策の強行が保守政権にとって得策でないことを明らかにした。財界からも,保守政党内部からも,政策転換が求められてきたのである。
新安保条約批准後に岸内閣が退陣し,1960年7月池田勇人内閣が成立すると,早急な改憲・再軍備への政策は背後に隠して,もっぱら経済成長をめざす政策を前面に押し出した。池田内閣は岸内閣の〈高姿勢〉にかわって〈低姿勢〉を旨とし,〈寛容と忍耐〉を説いた。そして池田首相は所得倍増,高度成長論をくりかえしたが,60年12月27日の閣議では,国民所得倍増計画(いわゆる所得倍増計画)を決定した。これは同年11月の経済審議会の答申にもとづく計画で,61年度から70年度までの10年間に年平均7.2%の経済成長を続け,70年度のGNPを26兆円にし,1人当り国民所得を2倍の20万8000円にするという内容である。その後の実際の成長は,はるかにこの目標を突破するのだが,政府がここで正式な政策として高度経済成長をとりあげたのである。この計画達成のために,政府は計画的に公共投資を配分して民間経済の成長を誘導することとした。また成長に伴う労働力の大量な需要に対応するため,政策として農業人口の削減にのりだした。池田首相は1960年9月の記者会見で,10年間に農民を1/3に減らすと言明(のち6割減らすと訂正)したが,61年6月には農業の構造改善を図り農業人口減をめざして農業基本法を公布した。農業を切り捨てての成長政策が採用されたのである。
こうして60年の後半から,池田内閣によって高度経済成長政策が開始されたが,国内・国外の諸条件に恵まれて,計画以上に順調な経済発展が続いた。農地改革や労働改革などの戦後改革の成果により,国内の消費市場が拡大していたこと,教育水準の高い良質で豊富な労働力が存在していたこと,後進工業国であるために,先進国よりも最新の技術設備の導入が容易であったこと,さらに世界経済の活況が日本の輸出拡大に有利に作用したことなどが,日本の経済成長を支えたのである。好況不況にはいくつかの波があり,62年には繊維や紙パルプの不況,65年(昭和40)には大規模な証券不況(40年証券不況)に襲われはしたが,1960年代を通してほぼ一貫して10%台の経済成長を続けた。その結果67年には鉱工業生産水準がイギリス,西ドイツを抜いてアメリカにつぐ資本主義世界第2位に達し,国民総生産も69年度には同じく第2位となった。こうした成長を象徴する出来事は,1964年10月の東海道新幹線開業と東京オリンピックの開催であり,いずれも莫大な公共投資の産物であった。
しかしこうした急速な成長は,多くの矛盾を生みだした。農業就業人口は急激に減少し,1961年には全就業人口に占める比率は30%を割り,67年には20%を割った。兼業農家も増えつづけ,1963年には農業収入より兼業収入のほうが多い第2種兼業農家の全農家に占める比率が40%を超えた。そして過疎・過密化とそれのもたらすものが大きな社会問題となり,社会の矛盾が深まった。
64年11月まで続いた池田内閣も,それ以後72年7月までの長期政権となった佐藤栄作内閣も,このような矛盾に対してはもっぱら補助金,補給金などの政府の財政支出によって対処する方策をとった。成長に伴う税収の伸びが,こうした財政支出を可能にしたのである。しかし公共事業費や補助金の増大という財政の体質は,のちに大きな問題を残すことになった。また成長に伴うひずみと矛盾が集中的にあらわれたのが大都市であったが,大都市住民の不満は1960年代後半から反公害闘争をはじめとするさまざまな住民運動となってあらわれはじめた。そして67年4月東京都知事に美濃部亮吉が当選したのに続いて,70年代前半にかけて大都市を中心につぎつぎに革新首長が誕生した。こうした都市住民の不満に対して,自民党政権は公害対策や都市施設に政府資金を支出して対応しようとしたので,財政支出は増加する一方で,佐藤内閣は1966年1月から赤字国債の発行を開始することにより,戦後はじめて均衡財政から国債依存の財政に移行した。
1960年代の日本経済の成長は,アメリカへの輸出に支えられた面が多い。とくに65年からアメリカのベトナムへの軍事介入が本格化すると,ベトナム特需への依存が大きな要因となっていた。そしてベトナム戦争による膨大な戦費とドルの流出は,アメリカに財政破綻(はたん)の危機をもたらした。ベトナム戦争のいっそうの激化によってドル危機はますます深刻となり,前述のように71年8月アメリカのニクソン大統領はドル防衛策として新経済政策を発表した。これはアメリカの世界経済への支配の終りを象徴するものだが,アメリカ依存型の日本経済にも大きな打撃を与えるものであった。佐藤内閣は円の変動相場制への移行を決定しこれに対応したが,高度成長を支える最大の基盤がなくなったのである。72年7月,佐藤内閣にかわって田中角栄内閣が成立したが,田中首相はこうした国際条件の変化にもかかわらず,〈日本列島改造論〉をかかげて,いぜんとして大型公共投資を中心とする経済成長政策を追い求めようとした。この結果土地投機ブームが起こり,それとともに物価上昇のテンポが速まったが,そこを73年10月,第4次中東戦争にさいしてのアラブ産油国の石油戦略によるオイル・ショック(石油危機)が直撃した。そのため同年11月,12月にかけては,敗戦直後と同じようなインフレ状態となり〈狂乱物価〉があらわれた。田中内閣は73年11月末の改造で福田赳夫を蔵相に入れて引締め政策に移り,石油需給適正化法,国民生活安定緊急措置法を公布してインフレ抑制に努めたが,74年にはいっても消費者物価の暴騰が続き,不景気のなかの物価高であるスタグフレーション現象がおさまらなかった。74年度のGNPは実質で対前年比0.2%減で,戦後はじめてのマイナス成長となった。74年12月,田中内閣にかわって三木武夫内閣が成立すると,総需要を抑制し,経済成長政策から安定成長政策への転換を政府としても図ることにした。高度成長は1960年代の終りからかげりをみせはじめ,ドル・ショックとオイル・ショックによってとどめをさされた形となり,ここで政府としても低成長政策へ転換することとなったのである。
60年代を中心とする日本の高度経済成長は,世界に類をみない速度で進み,短期間に日本を世界屈指の工業国に発展させた。日本社会に与えた影響も甚大で,農山漁村の崩壊,都市の肥大化が進行し,第1次産業人口が減少し,第3次産業人口が急増した。この結果,社会構造や国民の生活様式および意識のうえにも大きな変化があらわれ,70年代以降は政治にも影響し,企業意識が定着,現状維持的傾向が強まっている。
執筆者:藤原 彰
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1955年(昭和30)頃から始まり74年に終末を迎えた実質経済成長率10%におよぶ高度な経済成長。米欧の技術導入・技術革新による大規模な設備投資と新産業開発を中心におこった,歴史的にもまれな長期にわたる経済成長であった。この結果,日本の伝統的な過剰労働力は解消し,産業構造は高度化して,68年にはアメリカに次ぐ資本主義世界で第2位のGNPという経済大国に躍進した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…蔵相,通産相時代,〈中小企業の一部倒産やむなし〉〈貧乏人は麦を食え〉の発言が問題にされたが,その後も,〈所得倍増〉〈農業人口の6割削減〉など経済成長主義の姿勢を一貫させた。60年安保条約反対闘争の高揚で辞職した岸信介の後を受けて首相となってからは,大平正芳,宮沢喜一らに支えられ〈低姿勢〉〈寛容と忍耐〉を唱えるなど,保守本流内閣としての柔構造を4年間,3次にわたって持続させ,日本経済が戦後復興を成し遂げ高度経済成長段階へ突入する過程を担った。【高橋 彦博】。…
…しかし,これらの事実は,世界における東西両陣営の激しい冷戦とあいまって,むしろ西洋主義を急速に風俗化させることとなる。こうした状況のもとで,〈西欧に追いつき追いこせ〉という高度経済成長が進行するが,その一応の実現は,欧米先進国のみならず社会主義国にも行詰りないし根深い矛盾が顕在化したことを背景として,一方では,産業化=西洋化に対する根本的な疑問を惹起すると同時に,他方では,〈もはやモデルを外に求めえない〉という意識を生み出すことになった。有史以来,観念の世界ではなくて外の世界にモデルを求めてきた日本の伝統が,果たして打ち破られるかどうかは将来の問題である。…
…こうした同時平行性は,電力,全国通信網,土木建設などの領域でもきわだっている。自力による技術開発の場合,ひとつの技術革新が,産業の相互連関をとおして他部門の技術革新を誘発するまでにはどうしても時間がかかるが,戦後の日本の場合,これが技術導入の方法で,相互に関連する部門で同時平行的におこったことが,高度経済成長の異常なスピードを生んだといえよう。その点の差はあるが,革新が相互に革新を呼びつつ,単に生産面にとどまらず企業の行動形態,大衆の消費行動や日常生活の型,都市の構造,ひいては社会全体のあり方まで一変させていった点は,産業革命期のイギリスや20世紀前半のアメリカの場合と同じであった。…
…この場合,外国の機関が重要な提携先として大きな役割を演じる場合も少なくない。 高度経済成長を支え,それに支えられてきた戦後日本の金融システムの特徴の多くは,低成長の到来とともに消滅する傾向をたどった。金利規制,専門金融機関主義,預金・貸出しを通じる顧客関係重視といったものの維持が困難となり,金利の自由化や金融の自由化が促され,市場競争が活発化したのである。…
…
[経営・管理の語意]
〈経営〉という言葉は今日,企業をはじめ行政,教育,宗教,組合など各種組織の運営にかかわる言葉として使われているが,日本語としていつごろ定着したかは確かではない。《日本国語大辞典》1940年版には,(1)縄張りをして土台をすえいとなみ造ること,(2)工夫をこらして物事をいとなむこと,とされ,中国春秋時代の《詩経》に(1)(2)の早い使用例があり,日本では(2)の使用例が室町時代の《太平記》にみられる。…
…日本の工業生産指数は,敗戦時の1946年に戦前(1934‐36基準)の約1/4に低下し,ドッジ・ラインの設定された49年までに約1/2に回復し,朝鮮戦争を経た51年に戦前水準を超えるに至るが,その間未曾有のインフレーションを収束し,生産復興を軌道づけた主要な契機は,第1に賃金抑制の物価体系の設定と基幹産業への重点的財政投融資およびアメリカの対日援助,第2に占領軍の対日政策の転換(1948年5月ドレーパー使節団報告)で具体化された政策(賠償緩和・集中排除緩和による日本経済自立化,対日援助打切り,均衡財政の確立,為替レート設定による貿易拡大)を強力に実施したドッジ・ライン(1949)であったが,しかしそれだけでは,すなわち第3の契機である1950年以後の朝鮮戦争ブームがなければ日本の急速な経済復興はありえなかった。【大石 嘉一郎】
【高度経済成長期】
朝鮮戦争による特需景気で戦前水準を回復した日本経済は,1955年から73年の石油危機の勃発まで,20年近くにわたってめざましい高度経済成長を実現した。この間1957年,62年,65年,71年と数年おきに経験した景気後退期にも成長率はプラスを維持し,年平均の実質GNP成長率は約10%と,世界史的にも未曾有の高成長をなしとげたのである。…
※「高度経済成長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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