スコット(英語表記)Walter Scott

精選版 日本国語大辞典 「スコット」の意味・読み・例文・類語

スコット

[一] (Sir Walter Scott サー=ウォルター━) イギリスの詩人、小説家。スコットランドの歴史、伝説に取材したロマンチックな物語詩、歴史小説を多数残し、ユーゴー、デュマ(父)、スタンダールらに影響を与えた。代表作に「湖上の美人」「アイバンホー」など。(一七七一‐一八三二
[二] (Robert Falcon Scott ロバート=ファルコン━) イギリスの探検家。一九〇一~〇四年、第一次の南極探検。一〇年に二度目の南極探検に赴き、一二年一月一八日、アムンゼンに一月おくれて極点に到達。帰路、遭難して死亡。(一八六八‐一九一二

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デジタル大辞泉 「スコット」の意味・読み・例文・類語

スコット(Walter Scott)

[1771~1832]英国の詩人・小説家。スコットランドの民謡・伝説に基づく物語詩や歴史小説を書いた。物語詩「湖上の美人」、小説「ウェーバリー」「アイバンホー」など。

スコット(Robert Falcon Scott)

[1868~1912]英国の探検家。二度目の南極探検で、1912年1月に南極点に達したがアムンゼンに遅れ、帰途遭難死。記録「探検航海」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「スコット」の意味・わかりやすい解説

スコット
Walter Scott
生没年:1771-1832

イギリスの小説家,詩人。スコットランドのエジンバラに名門の弁護士の子として生まれ,幼時小児麻痺のため片足が不自由になったが,かえって古い伝説や物語にロマンティックな空想をはせる性癖を養った。エジンバラ大学卒業後弁護士となり,かたわら古民謡の採集に熱中,《スコットランド国境地方古謡集》3巻(1802-03)を出版し,古歌謡の形を模した《最後の吟遊詩人の歌》(1805)で詩人としての名声を確立した。《マーミオン》(1808),《湖上の美人》(1810)などスコットランドの過去に取材したロマンティックな物語詩で文名はますます上がった。しかし,新進詩人バイロンの名声が高まるにつれ,詩才の限度をさとって小説に転じ,《ウェーバリー》(1814)をはじめとする歴史小説で,実際の歴史的事件を背景に,ロマンティックな冒険と民衆の多彩な生活を巧みに融合し,全ヨーロッパにわたって名声を博した。スコットの二十数編の小説は〈《ウェーバリー》の著者〉という匿名で出版されたため,一括して〈ウェーバリー小説〉と呼ばれる。初期のものは最高傑作《ミドロージアンの心臓》(1818)のほか《ガイ・マナリング》(1815),《好古家》(1816),《ラマームーアの花嫁》(1819)など,すべてスコットランドの近い過去を題材とし,貴族から浮浪者までの社会各層の人物を活写する民族的記憶の文学といえる。スコットは続いて《アイバンホー》(1820)で中世のイングランドを舞台とし,その後15世紀フランス,エリザベス女王の宮廷などを描いたが,これらは歴史を写実的にとらえるよりも,むしろロマンティックな冒険物語の色彩が強い。作家生活のほかにも多くの官職につき,〈サー〉の称号を授けられ,アボッツフォードに中世趣味の館を建てたりした。晩年には破産事件に巻きこまれ,借財返却のため濫作も強いられている。彼の影響はプーシキンやバルザックらに著しく,ヨーロッパにおけるリアリズム小説の勃興に大きな役割を果たした。日本でも明治初めから《ラマームーアの花嫁》《湖上の美人》など盛んに訳されている。
執筆者:

スコット
Marion McCarrell Scott
生没年:1843-1922

明治初年に英語教師として来日し,日本最初の師範学校で欧米式の公教育教授を初めて指導したアメリカ人教師。日本近代教育方法史上の開拓者とされる。バージニア州に生まれ,南北戦争中にバージニア大学を卒業,のちカリフォルニア州に移り同州の教育行政事務やグラマー・スクールの校長となる。アメリカ駐在少弁務使の森有礼の推挙により,1871年(明治4)9月大学南校(東京大学の一源流)の英語教師として来日した。翌72年〈学制〉により全国に学校制度を施行するのに先立って,小学校教員養成のモデル校として創設された師範学校(東京,東京高等師範学校の源流)へただ一人の教師として招かれた。以後74年8月まで,スコットは東京師範学校においてアメリカ公教育をモデルとした新教授法を教授したが,その指導により日本に初めて欧米式の一斉教授法やペスタロッチ主義の直観教授法などが紹介,移入された。75年からは東京英語学校,東京大学予備門などの語学教師を歴任したが,78年1月解任され,81年に帰国。ハワイでハイ・スクールの校長や視学官に在職する一方,ハワイ移住日本人への親善活動も行った。
執筆者:

スコット
Robert Falcon Scott
生没年:1868-1912

イギリスの南極探検家。イングランドのデボンポートに酒造家の長男として生まれた。父の強制で海軍士官となったが,国家的計画の南極探検隊長に選ばれ,1901-04年ディスカバリー号でロス海に入り,科学調査を続けた。02年E.H.シャックルトンらと犬ぞりで南極点を目ざし,12月30日南緯82°17′に達したが,壊血病と凍傷を負い帰船した。帰国して大佐に昇進,英雄視された。重症のため中途送還されたシャックルトンが09年極点に迫る探検を果たすと,スコットは退官して極点初征服を掲げて資金を集め,10年機帆船テラ・ノバ号で再びロス海に入った。11年11月ロス島基地を出発,12年1月17日極点に到達した。しかし前年12月14日にアムンゼンが先着していた。帰途,猛吹雪のため遭難,基地を目前にして3月29日凍死。再度の探検記,とくに遺体と共に残った探検記録《スコットの最後の探検》(1913)は著名。
執筆者:

スコット
Charles Prestwich Scott
生没年:1846-1932

イギリスのジャーナリスト。1871年2月,オックスフォード大学卒業後,《スコッツマン》紙の記者を経て,いとこのテーラーJohn Edward Taylorの経営していた《マンチェスター・ガーディアン》(のちの《ガーディアン》)に入り,72年25歳で編集長。グラッドストンリベラリズムに共鳴,同紙をリベラル左派の高級紙に育成して全国的な声価を確立する。1905年テーラーの死後は同紙を買いとり,名実ともに支配者となった。ボーア戦争(1899-1902)に反対した少数のひとりで,購読者の激減,暴徒の脅迫に屈せず,最後まで批判を続けたことは著名。1895-1905年,自由党下院議員となる。晩年労働党に好意をもち,その進出を支持した。
執筆者:

スコット
George Gilbert Scott
生没年:1811-78

イギリス,ビクトリア朝時代の代表的建築家。バッキンガムシャーのゴーコット生れ。1844年ハンブルクの教会設計競技に入賞し,国際的名声を獲得。ピュージンに傾倒してゴシック様式の普及に努め,実際に建設された作品が教会堂を中心に900を超す多作で知られる。イーリーその他の大聖堂の修復では復元主義を強固に推し進めたため,後にW.モリスらの批判を浴びた。代表作はイタリア・ルネサンス風の外務省庁舎(ロンドン,1873),ゴシック・リバイバルの世俗建築では最大の規模といわれるセント・パンクラス駅およびホテル(ロンドン,1874)。
執筆者:

スコット
Michael Scot

12世紀後半から13世紀前半にかけて,アラビア学問の移入に寄与したイギリス人グループの一人。生没年不詳。スコットランド出身。当時すぐれたアラビア学問の宝庫だったトレドに,さらにはシチリア島フリードリヒ2世のもとに来て翻訳者として活躍した。とくにアリストテレスの動物学,アベロエスイブン・ルシュド)の注釈付き天体論,ビトルージーの天文書などをラテン語に翻訳した意義は大きい。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スコット」の意味・わかりやすい解説

スコット
Scott, Ridley

[生]1937.11.30. ダラム
イギリスの映画監督。視覚に訴える手法と細部まで凝った作品のつくり手として称賛された。イングランドのウェストハートルプールで育ち,ウェストハートルプール美術大学を経てロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学んだ。イギリスのテレビ界で舞台装置と演出の仕事に携わっていたが,1967年からコマーシャルの監督に転じ,自社で 2000本以上の作品を制作した。コマーシャル制作では映像を重視し,独特の雰囲気をかもし出す照明効果にこだわった。この手法は映画監督となった 1977年以降もスコットの特徴となった。映画の第一作『デュエリスト―決闘者―』The Duellists(1977)はカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞。SF作品の『エイリアン』Alien(1979),『ブレードランナー』Blade Runner(1982),『レジェンド/光と闇の伝説』Legend(1985)を撮ったのち舞台を現代に移し,『誰かに見られてる』Someone to Watch Over Me(1987)や『ブラック・レイン』Black Rain(1989)などで再び映像の名手として称賛された。『テルマ&ルイーズ』Thelma and Louise (1991)以後低迷したが,『グラディエーター』Gladiator (2000,アカデミー賞作品賞),『ハンニバル』Hannibal(2001),『ブラックホーク・ダウン』Black Hawk Down(2001),『アメリカン・ギャングスター』American Gangster(2007)など話題作を発表した。

スコット
Scott, George C.

[生]1927.10.18. バージニア,ワイズ
[没]1999.9.22. カリフォルニア,ウェストレークビレッジ
アメリカ合衆国の映画俳優。フルネーム George Campbell Scott。約 40年間にわたり,圧倒的な存在感としゃがれ声を武器に個性豊かな人物たちを演じた。バージニア州で生まれたが,幼い頃からミシガン州デトロイト近郊で暮らした。1940年代後半に海兵隊に 4年間所属したのち,ミズーリ大学でジャーナリズムと演劇を学んだ。演技の才能がないと思い込み機械工として働いていた 1957年,ジョゼフ・パップ演出のシェークスピア劇『リチャード3世』Richard IIIで主役に抜擢され,批評家に高く評価された。1959年映画界にデビューし,『或る殺人』Anatomy of a Murder(1959)でアカデミー賞助演男優賞候補になった。『ハスラー』The Hustler(1961)で再び助演男優賞候補となったが,ノミネートの拒否を表明。その後もその方針を貫き,スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』Dr. Strangelove(1964)では名演を披露したにもかかわらず,ノミネートさえされなかった。最大のはまり役となったのは,『パットン大戦車軍団』Patton(1970)で演じたジョージ・S.パットン大将役。あまりにもみごとな演技であったため,受賞拒否を表明したにもかかわらずアカデミー賞主演男優賞に選ばれた。

スコット
Scott, Sir Georges Gilbert

[生]1811.7.13. バッキンガムシャー,ガウコット
[没]1878.3.27. ロンドン
イギリスの建築家。ロンドンの建築家のもとで建築の修業を重ね,A.ピュージンの中世建築の研究に影響を受ける。 1840年初めてオックスフォードの殉教者記念館を設計,次いで 44年ハンブルクの聖ニコライ聖堂建立 (1845~63) の国際競技設計に入選,以来聖堂建築家として有名になった。 51年イタリア建築を研究。ビクトリア時代のゴシック・リバイバルの代表者となった。ロイヤル・アカデミー教授 (68~78) 。またイギリス王立建築家協会RIBAの会長もつとめた (73~76) 。ケンジントン・ガーデンのアルバート記念碑 (63~72) ,エディンバラのセント・メアリー聖堂 (74~79) など 500近い聖堂の建造,改築を手がけた。主著『世俗建築および住宅論』 Remarks on Secular and Domestic Architecture,Present and Future (58) 。息子のジョージ (39~97) ,ジョン・オルドリット (42~1913) はともに父の作風を受継いで,ゴシック様式を得意とした建築家。

スコット
Scott, Sir Walter

[生]1771.8.15. エディンバラ
[没]1832.9.21. ロックスバラ,アボッツフォード
スコットランド生れのイギリスの詩人,小説家。最初法律家として世に出たが,イングランドとの国境地帯に伝わる伝説や民謡に興味をもち,これを収集出版した。処女作は物語詩『最後の吟遊詩人の歌』 The Lay of the Last Minstrel (1805) ,以後『湖上の美人』 The Lady of the Lake (10) などを発表したが,散文に転じてロマンチックな歴史小説 (→歴史文学 ) を書いた。『ウェーバリー』 Waverley (14) ,『ガイ・マナリング』 Guy Mannering (15) ,『ミドロージアンの心臓』 The Heart of Midlothian (18) ,『アイバンホー』 Ivanhoe (20) ,『ケニルワース』 Kenilworth (21) などの作品で広い読者層をつかみ,ヨーロッパでも名声を博した。

スコット
Scott, Robert Falcon

[生]1868.6.6. デボンシャー
[没]1912.3.29? 南極大陸
イギリスの南極探検家。海軍大佐。 1901年イギリスのロイヤル・ソサエティと王立地理学会の支持でイギリス遠征隊の指揮者となり,『ディスカバリー』号で南極探検に出発。マクマード湾を基地として,エドワード7世半島を発見したのち,02年 12月南緯 82°17′の地点まで達したが,氷雪にはばまれて帰国。再び南極点への到達を志し,10年『テラノバ』号で大遠征に出発し,R.アムンゼンに遅れること 34日,12年1月 17日に南極点に達した。しかし,帰途4人の同行者とともに遭難,日誌への3月 29日の記入を最後に極地の雪原のテントの中でその生涯を終えた。テントは同年 11月 12日発見された。著書に"The Voyage of the Discovery" (1905) ,"Scott's Last Expedition" (13) 。

スコット
Scott, Charles Prestwich

[生]1846.10.26. バス
[没]1932.1.1. マンチェスター
イギリスのジャーナリスト,新聞経営者。1869年にオックスフォード大学を出て,地方紙で 2年間働いたのち,1871年いとこの J.E.テーラーの経営していた新聞社『マンチェスター・ガーディアン』(のちの『ガーディアン』)に入社,1872年には 26歳で編集長となり,テーラーの死後は 1907年に同紙を買い取り 1929年まで社主を務め,一流紙に発展させた。スコットのもとで『マンチェスター・ガーディアン』は,ホイッグ党支持から自由党支持へとしだいに論調を変えた。自身も 1895~1906年ランカシャーから自由党の下院議員に選ばれた。

スコット
Scott, Marion McCarrell

[生]1843
[没]1922
アメリカ人の教育家。アメリカの近代的教育内容・方法を伝え,日本の初等教育の近代化の基礎づくりに貢献した。バージニア州に生まれ,サンフランシスコの教育局に勤務。 1871年大学南校 (東京大学の前身) の教師として訪日,翌 1872年師範学校の創設とともに教員養成に関する経歴を認められて同校教師に招聘され,アメリカの教育理論・実践に基づいて実物教授法,一斉教授法など近代的な教育方法を教員に伝習した。またアメリカの教科書,教材,教具などを取り寄せ,師範学校での教科書,教材の編集にも指導的役割を果たした。 1881年日本を去り,ハワイでハイスクールの校長として 1919年まで在任した。 (→実物教授 )

スコット
Scott, Winfield

[生]1786.6.13. バージニア,ピーターズバーグ
[没]1866.5.29. ニューヨーク,ウェストポイント
アメリカの陸軍軍人。アメリカ=イギリス戦争 (1812) に参加し,ナイアガラ付近で戦う。 1838年チェロキー族インディアンの強制移住を監督。 41~61年連邦陸軍総司令官。アメリカ=メキシコ戦争の総司令官として,47年9月メキシコシティーを占領,戦争を終結させた。 52年ホイッグ党より大統領候補に指名された。 61年4月南北戦争勃発時には連邦軍の指揮をとったが,11月に高齢のため引退。

スコット
Scott, David Randolph

[生]1932.6.6. サンアントニオ
アメリカの宇宙飛行士。陸軍士官学校卒業後,空軍に勤務。マサチューセッツ工科大学より航空工学で修士の学位を取得後,テストパイロットになり,1963年第3期宇宙飛行士の一人に選ばれた。 66年3月ジェミニ8号で N.アームストロングと地球を周回し,標的のアジェナ衛星とのランデブー,ドッキングに成功。 69年3月にアポロ9号に J.マクディビット,R.シュウェイカート両飛行士と乗組み,地球を周回しながら,アポロ宇宙船のテストを行なった。次いで 71年7月にはアポロ 15号で J.アーウィン,A.ウォードン両飛行士とともに月に向い,月面車で調査旅行を行い,多くの貴重な資料を持帰った。

スコット
Scott, Hugh

[生]1900.11.11. バージニア,フレデリックスバーグ
[没]1994.7.21. バージニア,ホールズチャーチ
アメリカの弁護士,政治家。ペンシルバニア,バージニア両大学に学んだのち,弁護士,地方副検事を経て,1940~42,44~58年下院議員。 59~77年上院議員。 69年 E.ダークセン上院議員の死去に伴い,共和党上院院内総務となった。著書『政界入りの方法』 How to Go into Politics (1949) ,『中国美術の黄金時代』 The Golden Age of Chinese Art (67) ほか。

スコット
Scott, Duncan Campbell

[生]1862.8.2. オタワ
[没]1947.12.19. オタワ
イギリス系カナダの詩人。地方主義詩人の代表者の一人。 50年以上インディアン行政官をつとめ,北部の荒々しい自然とインディアン保護地の生活を歌った。オタワの詩人ランプマンの親友で,その影響を受けた。

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百科事典マイペディア 「スコット」の意味・わかりやすい解説

スコット

英国の詩人,小説家。エディンバラ生れ。初め家業を継いで弁護士となった。スコットランドの伝説採集に興味を示し,《スコットランド国境地方古謡集》(3巻,1802年―1803年)を編集,次いで《最後の吟遊詩人》(1805年),《湖上の美人》(1810年)などのロマン的物語詩を書く。のち詩作をあきらめて歴史小説に転じ,〈ウェーバリー小説〉と称される27編を1814年―1832年に発表した。いずれもスコットランドあるいは中世に題材をとったもので,《ウェーバリー》《ガイ・マナリング》《ロブ・ロイ》《ミドロージアンの心臓》《ラマームーアの花嫁》《アイバンホー》《ケニルワース》などが有名。
→関連項目エッジワースオパールデュマ[父]

スコット

英国の南極探検家,海軍大佐。1901年―1904年南極探検隊を指揮。次いで1910年に2回目の南極探検に出発,辛苦の末に1912年1月17日極点に達したが,約1ヵ月前にアムンゼンが達した後であった。帰途吹雪のためスコット隊は5人とも死亡した。→南極大陸
→関連項目シャックルトン

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朝日日本歴史人物事典 「スコット」の解説

スコット

没年:1922(1922)
生年:1843.8.21
明治時代の教育学者。アメリカのヴァージニア州ファキア生まれ。父はジョン,母はマーガレット。ケンタッキー州ウラニア・カレッジを経てヴァージニア大学卒業後,サンフランシスコで教育行政,また学校長職を経験。明治4(1871)年に来日,大学南校(東大)で英語を教え,明治5年には東京師範学校に移り,学級一斉授業というアメリカ式初等教育の教授法を教え,初等教育の内容を整えた。明治8年から14年までは東京英語学校(のちの大学予備門。一高の前身)の英語教師。教え子に加藤高明,穂積八束,宮部金吾。英作文の教え方にきわめて巧みであった。明治14年に帰国。以後ホノルルに居住し,ハイスクールの校長などを務めた。終始日本の親友として,排日問題の調停や日本に対する誤解の弁明に努力した。

(加納孝代)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界の祭り・イベントガイド 「スコット」の解説

スコット【Sukkot<ヘブライ>】

イスラエルで開催されるユダヤ教の行事。はるか昔、出エジプトで荒野を流浪したときに小さな庵を作って7日間過ごしたことを忘れないように、人々は家の庭や屋上などに簡素な庵をつくって8日間暮らす。この期間は祝日となる。多くのユダヤ教徒がエルサレムに集まり、町は賑わう。観光客用の庵風休憩所もある。開催時期は毎年10月頃だが、太陰太陽暦の祭りであるため、祝日がいつかは決まっていない。◇「仮庵の祭り」ともいう。

出典 講談社世界の祭り・イベントガイドについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「スコット」の解説

スコット Scott, Marion McCarrell

1843-1922 アメリカの教育者。
1843年8月21日生まれ。明治4年(1871)大学南校の教師として来日。翌年東京に創設された師範学校にうつり,欧米式の学級一斉教授法を紹介,師範教育制度の制定につとめた。8年東京英語学校(一高の前身)英語教師。14年帰国。ハワイで死去。享年79歳。バージニア大卒。

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367日誕生日大事典 「スコット」の解説

スコット

生年月日:1843年8月21日
アメリカの教育者
1922年没

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世界大百科事典(旧版)内のスコットの言及

【人相学】より

…西欧人相学にはこのように,古くから動物類推と占星術という二つの方法があった。 占星術を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の寵を受けたM.スコットの《人相論》,三次方程式の解法で知られるG.カルダーノの《占星術的人相学》,教皇アレクサンデル6世に破門されて焚刑に処せられたG.サボナローラの伯父M.サボナローラが著した《人相学》など,いずれも占星術による人相学である。他方,11世紀のアラビア科学を代表するイブン・シーナーの《動物の諸本性》は,霊魂と動物の形態とを目的論的に説明して神の摂理を説き,これに触発されたアルベルトゥス・マグヌスは《動物について》の中で人相学を論じている。…

【ガーディアン】より

…すでに1836年から週2回刊であったが,55年7月2日から日刊,57年には1ペニーに値下げ,68年には《マンチェスター・イブニング・ニューズManchester Evening News》を出して基礎を固める。しかし,有力地方紙の枠を超え,全国的権威を確立するのは,72年創業者の甥C.P.スコットが編集長(1872‐1929)になってからである。彼はグラッドストンのリベラリズムを熱烈に支持し,アーノルドWilliam T.Arnoldら,著名な学者,文人をライターに集め,1899‐1902年のボーア戦争では,最初から最後まで徹底して反対した。…

【黒板】より

…ヨーロッパで16世紀ころに使用されはじめ,19世紀に公教育制度の確立とともに広く普及した。日本では,1872年(明治5)創設の東京師範学校で外人教師M.M.スコットがアメリカから取り寄せて用いたのが最初であり,73年全国各地に小学校が設立されるに伴って,必需の教授用具として全国に普及した。当初は木板に墨汁を塗りつけただけの粗末なものだったが,学校設備の整備とともに退色しないよう塗料に改良が加えられ,今日では永久着色の合成板を用い,光線の反射をさけて両端をゆるく湾曲させ,チョークとの色彩コントラストを配慮して緑色のものが多い。…

【南極】より

…その名は,採集した魚類などの学名(例,ウロコギスTrematomus hansoni)に入っている。1901‐04年イギリスのR.F.スコットはロス島で越冬し科学調査を行い,南緯77゜59′までそり隊が南下した。後にスコットは南極点に到達する。…

【歴史小説】より

…しかし,ここでは作者の想像力の働きがあまりにも自由すぎて,歴史的事実が影のうすいものとされているので,アン・ラドクリフ夫人の《ガストン・ド・ブロンドビル》(出版は作者死後の1826年だが,執筆は1802年ころ)を例外として,歴史小説とは呼びにくい。 ゴシック・ロマンスからそのロマンス的要素を受け継いだスコットランドの文豪W.スコットこそ,量質ともに真の意味での歴史小説の大成者といえよう。彼の作品は大別してスコットランドの歴史によるもの(《ウェーバリー》(1814),《ミドロージアンの心臓》(1818)など,数は最も多い),イングランドの歴史によるもの(《アイバンホー》(1820),《ケニルワース城》(1821)など),およびフランスの歴史によるもの(《クウェンティン・ダーワド》(1823)など,数は少ない)となるが,イギリス文学史上に多くの追随者を生んだのみならず,ヨーロッパ大陸の多くの文豪に強い影響を与え,数々の歴史小説の傑作を生み出させることとなった。…

【ロマン主義】より

…しかし,その影響力は大きく,例えばバイロンのギリシア解放戦争への参加と死はヨーロッパに衝撃を与え,ギリシア独立支持運動と古代ギリシア文学愛好熱高揚の引金となった。一方,スコットランドの過去の歴史をよみがえらせ,中世騎士道精神と郷土愛を賞揚するスコットの一連の歴史小説Waverley Novelsは,歴史学と小説に中世賛美の機運を興し,過去の時代の精確な生き生きとした描写を目ざす一種のロマン主義的写実主義とも称すべき傾向を生み,ユゴーの《ノートル・ダム・ド・パリ》やメリメの《シャルル9世年代記》,あるいはミシュレの《フランス史》等に影響を与えた。 ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。…

【ロマン派演劇】より

…妖精劇から出発したJ.ネストロイがこのジャンルを完全に離れたように,ロマン主義の末期には写実主義的傾向が入ってきている。
[ヨーロッパ各国での展開]
 ヨーロッパのドイツ語圏以外へのドイツ・ロマン派(演劇)の影響は,まずデンマークでA.エーレンスレーヤーのようなロマン派劇の作家を生み,イギリスではW.スコットが《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》を翻訳し,W.ワーズワースやS.T.コールリジはシラーの《群盗》の影響を受けた。バイロンの《マンフレッド》(1817),P.B.シェリーの《チェンチ一族》(1819)などは,当時はむしろ書斎劇と考えられており,舞台で再評価しようとする試みはずっと後になって行われることとなった。…

※「スコット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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