改訂新版 世界大百科事典 「チャールズ1世」の意味・わかりやすい解説
チャールズ[1世]
Charles Ⅰ
生没年:1600-49
ピューリタン革命で処刑された,イギリス・スチュアート朝の国王。在位1625-49年。ジェームズ1世の次男。兄ヘンリーの夭折により皇太子となる。父王の要請により妃を迎えるためにマドリードに赴いたが宗教上の理由で果たせず,25年に即位したのちフランス王女ヘンリエッタ・マライアと結婚。芸術のパトロンとして知られ,ファン・デイク,P.P.ルーベンスらの画家を招き,I.ジョーンズに宮殿建築をまかせ,また仮面劇を好んだ。そのため,この国王の宮廷をヨーロッパにおける最後のルネサンス宮廷とみる評価がある。しかし統治においては寵臣バッキンガム公の専横が国民の不満を買い,また,スペインのカディスへの遠征やフランスのラ・ロシェルのユグノー救援に失敗し,国庫を枯渇させて重税を課し,議会との摩擦を生んだ。そのため第3議会は1628年〈権利請願〉を提出,イギリス国民の既得権に基づいて国王の失政を批判した。国王はいったんこれを認めたが,翌年議会を解散,以後11年間,カンタベリー大主教W.ロードとアイルランド総督ストラフォード伯の2人を側近として,専制支配を行った。不法な課税を強要し,星室裁判所などを利用して非国教徒への弾圧を強めたが,37年J.ハムデンの船舶税支払い拒否を契機として地方行政を担当していたジェントリー層の離反を招き,また同年スコットランドでは英国国教会の祈禱書強制に反対する暴動が起きた。鎮圧の戦費を得るため40年春やむなく招集した議会は,国王批判の姿勢を崩さなかったため解散させられた(短期議会)。しかし越境してきたスコットランド軍への賠償金支払いのため,同年秋再度議会を開いた。これがピューリタン革命の主要な舞台となった長期議会である。
議会はただちに改革に着手し,国王大権の恣意的な行使を許さぬ法的措置を講じ,国王もこれを認めた。しかし議会の不満は消えず,〈大抗議文〉によって宗教改革の徹底,大臣選任権の掌握を意図したため,議会内部に国王支持に回る者も出てきた。42年1月国王はみずから議会に乗り込み,指導者5人の逮捕を企てて失敗,ロンドンを退去して北部に向かい,同年8月ついに内戦となった。当初戦局は国王側に有利に展開したが,45年のネーズビーでの敗戦ごろからしだいに劣勢となり,国王は翌年スコットランド軍に投降,ついで議会の支配下におかれた。47年ワイト島に逃れ,反革命勢力と通じて第2次内乱を起こしたが48年8月敗れ,議会軍の監禁下におかれた。このころから国王に対する不信はいちだんと強まり,翌49年初め独立派だけで構成されるランプ(残部)議会は特別法廷を設置し,人民を代表する議会に戦いをしかけた国王の罪を追及したが,国王はこの裁判に合法性を認めず弁論を拒んだ。1月27日〈専制君主,反逆者,殺人者,国家に対する公敵〉として死刑の判決が下され,30日群衆の見守るなかで,ホワイトホール宮殿の迎賓館の外で処刑された。
→ピューリタン革命
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報