フランスの詩人。本名ギヨーム・アルベール・ウラジミール・アレクサンドル・アポリネール・コストロウィツキー。母は亡命ポーランド貴族の娘だったが、父は不明。シチリア王国の退役将校フランチェスコ・コンスタンチーノ・カミロ・フルジー・ダスペルモンであろうと推定されている。したがって、アポリネールはスラブの血を受けた私生児ということになる。1880年8月26日ローマに生まれ、1916年フランスに帰化した。
少年時代をモナコ、カンヌ、ニースで過ごし、19歳のときパリに出てくる。生活は苦しかったが、ピカソ、ドラン、ルソー、ジャコブ、サルモン、ジャリなど前衛的な若い詩人や画家とつきあう。1903年、サルモンたちと月刊誌『イソップの饗宴(きょうえん)』を創刊、『腐ってゆく魔術師』を連載する。この小説は1909年、最初の著作としてドランの木版入りで刊行される。続いて『サド侯爵作品集』の編集(1909)、自ら「幻想の媚薬(びやく)」と命名し、ゴンクール賞の候補作品となった『異端教祖株式会社』(1910)を世に送る。そして1913年には、2冊の画期的な書物、すなわち詩集『アルコール』と美術論集『立体派の画家たち』によって時代のパイオニアとなる。『アルコール』には、マリー・ローランサンとの悲恋を歌った「ミラボー橋」をはじめ、「地帯」「ふられ男の唄(うた)」「ランダー街の移民」のような革新的な作品が含まれている。また、『立体派の画家たち』が果たした歴史的な意味も大きい。
1914年7月に第一次世界大戦が始まると、志願してニームの砲兵隊に入った。ルイーズ・ド・コリニー・シャティヨン(通称ルウ)に会う。彼女への思いを綿々とつづった書簡集『ルウへの手紙』(1955刊)は、晩年のアポリネールの姿を知るための貴重な資料である。1916年はチューリヒでトリスタン・ツァラのダダイズム運動がおこった年だが、この年の3月、頭部に負傷し、後送される。二度の開頭手術が行われたほどの重傷だった。戦傷が治ると、ふたたび文学活動を始め、小説『虐殺された詩人』(1916)、シュルレアリスム演劇『ティレシアスの乳房』の上演(1917)、詩集『恋に命を捧(ささ)げよ』(1917)、『カリグラム』(1918)などに成果をみせる。前衛的な詩誌『北南』や『シック』に協力するのもこのころのことで、1917年にバレエ『パラード』のプログラムにおいて初めてシュル・レアリスムSur-réalismeなることばを用いた。このことばは1918年刊行の『ティレシアスの乳房』の序文では、シュルレアリスムSurréalismeとなった。また、1917年の講演草稿に手を加え、1918年に発表された詩論『新精神と詩人たち』は、ダダからシュルレアリスムを予言する重要な書物である。1918年5月に結婚したが、同年11月9日、当時流行したスペインかぜにかかって急逝。38歳。
[窪田般彌]
『鈴木信太郎・渡辺一民編『アポリネール全集』全1巻(1964・紀伊國屋書店)』▽『飯島耕一・窪田般彌編『アポリネール全集』全4巻(1979・青土社)』▽『『ユリイカ 特集アポリネール』(1979・青土社)』
フランスの詩人,小説家,評論家。本名はWilhelm Apollinaris de Kostrowitski。イタリア人貴族を父に,ポーランド亡命王族の娘を母に,私生児としてローマに生まれた。その文学的活動は1899年にパリに出てきたころに始まる。それは,象徴主義の圧倒的な影響のもとに開始され,ドレフュス事件に際しての政治的挫折を経て,いわば象徴主義の閉ざされた風土から自由な生の意識への脱出の模索というふうに規定できるものであって,1900年代のその展開は,詩集《アルコール》(1913),短編集《異端教祖株式会社》(1911)に収められることとなる作品にうかがうことができる。他方,彼は早くからピカソをはじめとするフォービスム,キュビスムの画家たちと親交があり,08年ころより新しい芸術を擁護する理論家としても活躍し始め,12年には雑誌《レ・ソアレ・ド・パリ》を創刊して,名実ともに第1次大戦前夜のパリの前衛芸術運動の指導者となった。この間のエッセーを集めたものが《キュビスムの画家たち》(1913)である。この時期はまた彼がオートマティスム,句読法の廃止,カリグラムなど詩法上のさまざまな冒険をこころみ,前衛文学の旗手としてひろく認知されたときでもあった。当時の詩作品は大戦中の作品とともに詩集《カリグラム》(1918)を構成している。第1次大戦に従軍して負傷し,それが遠因となって大戦休戦の日に病没した。以上のほか作品としては,短編集《虐殺された詩人》(1916),長編小説《腐っていく魔術師》(1908),戯曲《ティレジアスの乳房》(1917)などがある。のちのシュルレアリストたちに深い影響をあたえたアポリネールは,ふつう現代詩の始祖とされるが,象徴主義とシュルレアリスムのあいだにあって,両者の懸橋としての役割を果たした,大きな幅をもった特異な文学者・芸術家であったといえよう。日本では堀口大学の訳詩集《月下の一群》(1925)によって紹介され,モダニズムの作品にすくなからぬ影響をあたえた。
執筆者:渡辺 一民
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…〈私は映画を発明こそしなかったが,産業化した〉とパテー自身がいい放ったとおりのすさまじい発展ぶりであった。〈映画は超現実の創造者である〉と1907年に宣言するフランスの詩人アポリネールも,当時の〈映画〉の投機的熱狂ぶりを1人の山師的犯罪者の冒険譚として描いている(《贋救世主アンフィオン・ドルムザン男爵の冒険物語》の一話〈傑作映画〉。1903年ころ執筆)。…
…1904年4月)という絵画理念を端的に実現したものであったが,これがキュビスムの起りとされる。ボークセルLouis Vauxcellesをはじめとする批評家たちはこの傾向をヨーロッパ美術の栄誉ある伝統を汚すものと非難したが,芸術運動の目的を社会改革におく象徴主義文学運動の後継者であるアポリネールやサルモンらがこれを弁護,支援し,積極的な運動に結束させた。キュビスムにはピカソ,ブラック,グリスらの〈洗濯船Bateau lavoir〉のグループと,画家ジャック・ビヨンJacques Villon(1875‐1963。…
…66年にブルトンが死んでからは運動は弱体化するが,その後も断絶的ながら世界各地で,この運動の継承を唱える種々の試みがなされている。
[思想・方法とその成果]
〈シュルレアリスム〉という言葉自体は,元来アポリネールの造語であった。しかしそれを借用したとき,ブルトンは別個の意味を担わせたことを強調している。…
…ポーランドという場所の指定がありながらも,かつ〈世界のどこの場所でもなく〉,開幕早々〈糞ったれ!〉という挑発的文句で観客を驚倒させたこの舞台は,のちのシュルレアリスト(シュルレアリスム)たちの演劇の指針となった。1917年に上演されたG.アポリネールのシュルレアリスム劇《ティレジアスの乳房》は,妻が男性に性転換し,一方女性になった夫が4万0049人の赤ん坊を生むという奇怪な内容だが,その独創性で50年代演劇の先駆となった。リブモン・デセーニュ,レーモン・ルーセルなどの作品,あるいは《ユビュ王》初演30年後に結成された〈アルフレッド・ジャリ劇場〉の推進者R.ビトラックとA.アルトーなどの実験的作品がその後に続く。…
※「アポリネール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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