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イスタンブール İstanbul

翻訳|İstanbul

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イスタンブール
İstanbul

トルコ西部,アジアとヨーロッパの両大陸にまたがり,ボスポラス海峡マルマラ海に面するトルコ最大の都市。イスタンブール県の県都。ギリシア時代にはビザンチオン(前657頃~330),ビザンチン帝国時代にはコンスタンチノープル(330~1453)と呼ばれ,オスマン帝国以降に今日の名称となった。1923年まで首都であった。大イスタンブールはヨーロッパ側にあるベイオール,エミノニュ,イスタンブール(ファティフ),アジア側にあるユスキュダル,カドキョイの 5地区で形成されている。ヨーロッパ側の市街地は,各国公館,ホテル,レストラン,商店などが林立し,ヨーロッパの近代都市と変わらない景観を呈しているが,古いオリエント的な雰囲気が漂う旧市街には有名なスルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク),スレイマン・モスクをはじめ,ハギア・ソフィアトプカプ宮殿,中東で最大の規模を誇るグランド・バザール(→バザール)などギリシア,ローマ,オスマン帝国時代の繁栄を偲ばせる名所,旧跡が数多く残り,1985年世界遺産の文化遺産に登録された。政治,外交の中心は首都アンカラに移ったが,依然として経済,文化,商業,工業の中心地である。イスタンブール大学は 15世紀の創設でトルコ最古。西ヨーロッパ,ギリシア,イラクのバグダード方面に国際列車が走り,市の西方 25kmにイェシルキョイ国際空港がある。ボスポラス海峡にはボスポラス海峡橋がかかる。人口 1075万7327(2007)。

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デジタル大辞泉の解説

イスタンブール(İstanbul)

トルコ北西部の商工業都市。ボスポラス海峡を挟んで東西にまたがる。メカラ人の植民都市ビザンチウムとして栄えた後、コンスタンティヌス1世によってローマ帝国の首都とされ、コンスタンティノポリスと称した。その後、東ローマ帝国オスマン帝国の首都。アジアとヨーロッパの接点。アヤソフィア寺院など、ビザンチン文化遺跡やイスラム教寺院が残る地域は、1985年「イスタンブール歴史地域」の名で世界遺産(文化遺産)に登録された。人口、都市圏1082万(2007)。イスタンブル。旧称コンスタンチノープル。

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百科事典マイペディアの解説

イスタンブール

トルコ北西部,ボスポラス海峡南端,マルマラ海に臨む,アジアとヨーロッパにまたがるトルコ最大の都市。良港〈金角湾〉に恵まれ,古来東西交易の結節点。バグダード鉄道の起点。
→関連項目ビザンティウム

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世界大百科事典 第2版の解説

イスタンブール【İstanbul】

トルコ西端,ボスポラス海峡を隔ててアジアとヨーロッパにまたがる歴史的都市。トルコ最大の商業・文化都市。人口761万6000(1994)。古代ギリシア・ローマ時代はビュザンティオンByzantion,ビュザンティウムByzantium,ビザンティン時代はコンスタンティノポリスKōnstantinoupolis∥Constantinopolisの名で知られ,トルコ語で正しくはイスタンブルとよばれる。コンスタンティノポリスの英語名コンスタンティノープルConstantinopleも旧称として広く使われている。

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大辞林 第三版の解説

イスタンブール【İstanbul】

トルコ北西部、アジアとヨーロッパとの接点、ボスポラス海峡の両岸に臨む港湾都市。市の主要部はヨーロッパ側にある。海峡に1973年ボスポラス橋が、また88年第二ボスポラス橋が架けられた。トルコ最大の商工業都市。ビザンツ帝国・オスマン帝国の首都がおかれた地で、アヤソフィア、トプカプ宮殿などの史跡が多い。古称ビザンチウム。旧称コンスタンチノープル。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イスタンブール
いすたんぶーる
stanbul

トルコ北西部、ボスポラス海峡の東西両岸、ヨーロッパとアジアにまたがって所在するトルコ最大の都市。イスタンブール県の県都でもある。人口880万3468(2000)。トルコの文化、交通、経済、学術、観光の中心である。市域は、ヨーロッパ側は、コンスタンティノープルとよばれていた昔を受け継ぐ旧市街(エミニョニュ、ファティフ地区などに分かれる)のほか、その西方、マルマラ海沿いに延びるゼイティンブルヌ、バクルキョイ地区、およびハリチ湾(金角(きんかく)湾)を隔てて旧市街の北に位置するベイオゥル、ベシクタシュ、シシュリ地区などからなり、またアジア側は、ウシュキュダル、カドゥキョイ地区などからなる。
 イスタンブールはトルコの工業生産のうえで重要な地位を占める。おもな業種は金属、機械、繊維、薬品、食料品、衣料、皮革、製紙、電気機器などであり、伝統的な中小工場が旧市街やシシュリ地区などに凝集する。そのほか、かつては海運の便のあるハリチ湾沿岸も優れた工業立地点であったが、近年は陸運の便を求めて、アジア側ではアンカラへ通じる国道、ヨーロッパ側ではエディルネへ通じる国道沿いに、近代工場の進出がみられる。また、古来ボスポラス海峡を扼(やく)する海上交通の要衝で、現在もエミニョニュ地区やその対岸のカラキョイなどを拠点にして海上交通が盛んであり、貿易活動も活発である。また、ボスポラス海峡を数か所で横断するフェリーの便は、市民の重要な足となっている。一方鉄道交通の面では、エミニョニュ地区にオリエント急行のターミナル駅として著名なシルケジ駅があり、アジア側にはアンカラなどに通じるハイダルパシャ駅がある。また、1973年に延長1074メートルのボスポラス橋が架せられ、ヨーロッパ・ハイウェー5号線が開通してのちは、市域の数か所に設けられたインターチェンジによって、自動車交通の便も好条件にある。なお、空の玄関口イェシルキョイ国際空港は市街地の西22キロメートルにある。
 長い歴史を背負ったイスタンブールには史跡や由緒ある建造物が満ちあふれている。とりわけ旧市街には、トプカプ宮殿(現博物館)、ハギア・ソフィア(現博物館)、スルタン・アフメット・モスク(青のモスク)、スレイマニエ・モスク、ウァレンスの水道橋などがあり、旧市街の西を限っていたビザンティン時代の城壁もその一部が残されている。旧市街は1985年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。また、ハリチ湾に架せられたガラタ橋、アタチュルク橋によって通じる北の新市街にも、ジェノバ人居留地の名残(なごり)をとどめるガラタ塔、アタチュルクが執務中死去した場所としても著名なドルマバフチェ宮殿などがある。旧市街にある伝統的商業区グランドバザールは規模の壮大さで有名であるが、ハリチ湾の北の新市街にもタクシム広場やイスティクラール通りなど活況を呈した商業区がある。旧市街には、考古学博物館、古代オリエント博物館、イスラム美術博物館、イスタンブール大学などの学術・文化施設がある。[末尾至行]

歴史

起源は、バルカン半島から移住したトラキア人の集落に求められるが、紀元前7世紀中ごろギリシア人によって植民され、ビザンティウムByzantiumとよばれて漁業や海上貿易の基地として栄えた。前201年にローマの同盟都市となったが、紀元後193~196年にセプティミウス・セウェルス帝はここを占領し、城壁、競馬場、浴場などを建設した。330年よりコンスタンティヌス大帝はここをローマ帝国東方領の首都とし、以後この町は「コンスタンティヌスの町」すなわちコンスタンティノポリスKonstantinopolis(コンスタンティノープルConstantinople)とよばれ、4世紀には人口20万に上る大都市となった。413年テオドシウス帝によって城壁が拡大され、それが今日に残されている。主要な建築物はローマを模して七つの丘に建てられた。町は14の地区に分けられ、400を超える教会、礼拝堂があった。なかでも326年に建立されたハギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)大聖堂は東方キリスト教世界の中心をなしていた。395年における東西ローマの分裂後は東ローマ(ビザンティン)帝国の首都として繁栄し、5世紀初めには人口50万に達し、その後100万を数えた時期もあった。11世紀ごろからベネチア人やジェノバ人が地中海貿易に進出すると、ビザンティン帝国の商業と財政は彼らに支配され、この町の隆盛は失われた。1204年第四次十字軍によって占領されると、町は略奪され、カイ帝国は首都をニカイアに移した。1261年十字軍によるラテン帝国が崩壊してビザンティン帝国の首都として復帰したが、町はもはや昔日のおもかげを完全に失い、1453年にオスマン帝国によって征服されたころには人口は3万ないし5万にすぎなかった。
 オスマン帝国のメフメト2世(在位1451~1481)は、征服後ただちにハギア・ソフィア大聖堂をはじめ多くの教会をモスクに変えるとともに、1457年以降この町を帝国の首都としてその名をイスタンブールと改めた。彼はアナトリアとバルカン各地から、トルコ人、ギリシア人、アルメニア人などをこの町に強制移住させ、モスク、バザール(市場)、キャラバン・サライ(隊商宿)、学校、病院などの社会施設を整えた。15世紀末にはスペイン系のユダヤ人が多数受け入れられたほか、中央アジアのサマルカンドや西アジア各地から商人、職人、学者、文人の移住が相次いだ。その結果、16世紀中ごろには人口50万ほどに達する大都市として歴史上に復活した。スレイマン1世(在位1520~1566)の帝国最盛期には、黒海、地中海の制海権を掌握したオスマン艦隊の本拠地として、また、東西、南北に及ぶ国際貿易の中心として栄華を極めた。16世紀末に人口70万に達すると、食料難、インフレにみまわれ、常備軍団の反乱や民衆蜂起(ほうき)が頻発した。ビザンティン帝国時代よりハリチ湾右岸のガラタ地区はイタリア人商人の居留地であったが、17世紀以後イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が競ってここに領事館を建設し、キリスト教諸教会も建立されて新市街を形成した。1845年に旧市街と新市街とを結ぶガラタ橋がハリチ湾に架けられた。
 歴史時代を通じてこの町はたびたび火事、地震、津波などの災害にみまわれた。1774年1月の大火では2万戸が焼失したといわれ、1839年1月にはオスマン帝国の政庁(バーブ・アーリー)が全焼した。19世紀以後、帝国の近代化と植民地化とが進むと、一方ではこの町は西アジア、バルカン諸民族の反帝国主義運動の中心地となったが、他方ではヨーロッパ資本やオスマン宮廷の手によって各種学校、図書館、電気、都市ガス、水道などの公共施設が建設された。第一次世界大戦後、トルコ人による反帝国主義運動がアナトリアに起こると、イギリスをはじめとする連合国は1920年3月にこの町を正式に占領した。1923年トルコ共和国が成立してオスマン帝国が滅亡すると、首都はアンカラに移された。[永田雄三]
『那谷敏郎著『イスタンブール案内』(平凡社カラー新書)』

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世界大百科事典内のイスタンブールの言及

【スレイマン1世のモスク】より

…イスタンブールにあるモスク。建築家シナンハギア・ソフィアをモデルとして1550‐57年に建立。…

【ハギア・ソフィア】より

…トルコ,イスタンブールに残るビザンティン建築の代表的遺構。〈ハギア・ソフィア〉は〈聖なる叡智〉の意。…

【バルカン】より

…たしかに支配的なオスマン文化の浸透やミッレト制に保護されたギリシア正教会(ギリシア文化)の影響の増大というような一般傾向はあるが,局地的に各地域の社会状況をみると,さまざまな階層の次元で異質なエスニック集団,言語,文化,宗教の共生現象が見いだされ,それがバルカン社会の一つの特質をもなしている。 共生現象が最も特徴的に具現されていたのはオスマン帝国の首都イスタンブールであった。1453年のコンスタンティノープルの陥落によって第二のローマはイスラム化されたが,都市の経済機能の回復のためもあって,オスマン帝国スルタン,メフメト2世(在位1444‐46,51‐81)はモレア半島,アナトリア,エーゲ海の島々からギリシア人を首都に誘致し,また征服のたびに新領土の住民を首都に連れてくる習わしもあって,トレビゾンド,カフカス,シリア,エジプト,セルビアなどの人びとが首都に定住するようになった。…

※「イスタンブール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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