基本情報
正式名称=エストニア共和国Eesti Vabariik/Republic of Estonia
面積=4万5227km2
人口(2010)=134万人
首都=タリンTallinn(日本との時差=-7時間)
主要言語=エストニア語(公用語),ロシア語
通貨=クローンKroon(2011年1月よりユーロEuro)
バルト海北東岸にある共和国。旧ソ連邦のもとでのエストニア・ソビエト社会主義共和国Eesti Nõukogude Sotsialistik Vabariik(ロシア語ではEstonskaya SSR)が,1991年独立したもの。バルト3国の一つで,南はラトビア共和国,東はロシア連邦と境を接し,北はフィンランド湾,西はバルト海とリガ湾に臨む。行政区は15の地区に分かれ,人口の70%が都市に集中している。言語をはじめ,この国の文化は,スラブ系のそれとは異なる性格をもち,古来特徴のある伝統を築き上げてきた。
国土は平たんで丘陵がゆるやかに波打ち,南東部にある318mのスール・ムナマキが最も高い。沿岸には1520もの島が散在し,西方のサーレマーとヒーウマーがとくに大きい。湖も1150を数えるが,ロシア連邦と国境を分けているペイプシ(チュド)湖が最大である。北岸は石灰台地の崖で,北部平野の土壌はうすく,岩石裸地もみられる。中部は低湿地が多く,南部はロームをかぶった丘がひろがる。月平均気温は1月のサーレマーで-2.3℃,北東端のナルバで-6.8℃,7月はそれぞれ16.3℃,17.4℃。雪は12月10日ごろから積もり始め,3月末に溶ける。年間降水量は平均550~650mm。森林は国土の37%を覆い,松,シラカバ,モミが多い。
エストニア人の自称はエーストラネEestlane。その祖先はフィン語系の人々で,前3千年紀にエストニアの地に現れたと考えられている。それらの人々はバルト系の諸族,スカンジナビア半島の諸族と混血し,紀元後にはさらに東スラブ系の諸要素も加えて今日のエストニア人になったと推定されており,ウラル系のバルト・フィン諸語の一つであるエストニア語を話す。全人口中エストニア人は61.5%で,ロシア人30.3%,ウクライナ人3.2%,ベラルーシ人1.8%,フィンランド人1.1%,その他2.1%という構成をなす(1989)。エストニアには六つの大学があり,古い伝統をもつタルトゥ大学をはじめ,タリンに美術,音楽,工業,教育の各大学等の高等教育機関がある。1990年の学生数2万4000,普通教育の生徒数約22万。新聞は1993年現在,日刊紙15を含む173紙(エストニア語129紙とロシア語紙など)発行されている。テレビ局は5局あり,エストニア語とロシア語で放送する。図書館は全国に約700,博物館は63に及ぶ。
第2次世界大戦後,農業と工業の比率は大きく変化した。1934年に農業67%,工業15.5%であったものが,76年には農業13.8%,工業74.3%となった。1993年の国内総生産のうち,鉱工業は26.3%,農業・漁業は11%を占めている。工業は魚と肉の加工,乳製品を主とした食品工業,織物,皮革製品の軽工業,木材工業などに特徴がある。工業は北部ことに北東部において発展をみた。コフトラ・ヤルベKokhtla-Yärveでは多量の油母ケツ岩が採掘され,これによる火力発電と石油精製がナルバで行われ,多種部門の工業が集中する。石油,ガス,電気はタリンにも送られる。第2の工業地帯はタリンで,機械製造,食品工場が多い。近郊には化学肥料工場,セルロース,建設資材製造の各工場がある。ソ連時代に農業集団化が進められ,1983年初めでコルホーズ150,ソホーズ154を数えた。大麦,エンバク,小麦などの穀類(57万t,1994年。以下同じ),ジャガイモ(70万t)を栽培。西部の農業は低湿地の排水と丘陵地の牧草循環種まきで発展し始めた。畜産は農業のなかで大きな位置を占め,中央部はビートを飼料とする集約畜産地帯で,南部はトウモロコシによる乳・肉牛地帯。全体で牛(46万頭),豚(42万頭),羊(8万頭)を飼養している。漁業もソ連時代には集団化されて,1983年には八つのコルホーズにまとめられ,ペルヌ港,サーレマー,ヒーウマー両島に漁業根拠地があり,冷凍,缶詰工場が設置された。
旧ソ連時代の末期に,連邦各国のなかでエストニアの1人当り所得は最高位にランクされるほどであった。
前500年ころのバルト海沿岸には,北方にエストニア族,その南の北ラトビアにもバルト・フィン系のリボニア族が住んでいた。さらに南側の住民はバルト・スラブ系のラトビア族とリトアニア族で,民族移動期(400-800)にはスカンジナビア人やスラブ人とも接し,キリスト教がしだいに浸透してきた。10世紀には自治的部族集団が大小12形成された。
(1)ドイツ時代 この頃未開のバルト地方はドイツ商人と異教改宗を目ざすキリスト教の聖職者を引きつけていた。ラトビアのリガで司教のアルベルトは刀剣騎士団を結成し(1208),北方へ向かって本格的な伝道攻撃をしかけてきた。エストニアの部族集団は頑強に抵抗したが,デンマーク王バルデマール2世がアルベルトと結んで,1219年十字軍をエストニアの北岸に上陸させてタリンの市を築いたため,エストニア人は外敵に屈従することとなった。1346年デンマークはエストニアの領地をドイツ騎士修道会に売り渡した結果,上層階級がドイツ人,下層階級がエストニア人という社会構成ができあがった。やがて南方ではリトアニア王国が強大となり,ポーランドと組んでドイツ騎士修道会を打ち破ったので,エストニアの南半分はポーランド領となった。北方ではスウェーデンが隆盛期を迎え,エーリック14世がエストニアに兵を進め(1561),ポーランドと争ったため,戦場となったエストニアは荒廃した。
(2)スウェーデン時代 スウェーデンのグスタブ2世アドルフは大軍を率いてポーランドに攻め入り,1629年アルトマルクの講和によりエストニア全域とリボニアを手中に収めた。彼は外征ばかりでなく文芸の振興にも意を用い,32年タルトゥにドルパート大学を設立した。この大学はバルト地方での学術の源泉となり,エストニアは北欧文化に浸ることとなった。大学は後に北方戦争のため1710年閉鎖されたが1802年に再開され,現在のタルトゥ大学へと続いている。スウェーデンの支配下でドイツ貴族はかえって特権が強化され,エストニア農民は農奴化していった。
(3)ロシア時代 北方戦争でスウェーデンはロシア軍にポルタワで大敗し,1721年ニスタットの和約によりエストニアはロシア帝国に割譲された。とくに戦争中疫病が流行して人口が激減したため,農園主は農民を拘束し,その自由を奪ってしまった。しかし18世紀末バルト地方にも啓蒙思想が伝わり,農民法(1802)により農民にも自由が与えられたが,かえって小作化が促進された。エストニア北部では1816年に,リボニアでは1819年に農奴解放が,ロシア帝国内の他の地域に先がけて実施された。1858年には全国的農民一揆が発生し,1860年代に入り農民にも土地所有が認められるようになった。1860年代~80年代にエストニアの有識者はエストニアの人々に民族的覚醒を呼びかけた(後述の[文学]の項参照)。だが81年,ロシア皇帝アレクサンドル3世はロシア化を強行した。そこでドイツ貴族はある程度没落したが,エストニアの自立運動も閉塞させられた。
(4)独立時代 この重苦しい圧政がロシア革命により崩れ去るや,1918年エストニア人は議会を開き,2月24日独立を宣言した。ドイツ軍の援助によりソビエト勢力は一掃されたが,ドイツ軍が撤退すると赤衛軍が再度侵攻してきたので,エストニアは国軍を組織し,フィンランド義勇軍とイギリスの協力を得てこれを排除した。かくて20年ソビエト・ロシアとの間に和議(タルトゥ条約)が成立した。同年に憲法が制定され一院制の議会が召集されて連立内閣が出現した。24年に反乱謀議のため共産党は弾圧された。1919-34年の間,政府は平均8ヵ月という短命で,政治状況は不安定であった。34年にはパッツK.Pätsが初代大統領に就任し,反ソ親独政策に沿った独裁政治を行った。この間農地解放が実施され,国内の産業は目覚ましい発展をとげた。1934年にはラトビア,リトアニアとバルト協商を結んでいる。
(5)ソ連邦時代 ポーランド分割後,ソ連は40年6月16日エストニアに最後通牒を発し,その翌日軍隊を送りこんで政府の更迭を求めた。7月に共産党のみを公認とした総選挙が強行され,新議会は独立を捨ててソ連邦に加入する決議を行い,8月に連邦へ加盟した。一方では大量の非協力者が逮捕され,41年6月,1万人以上がシベリアへ強制移送された。41年エストニアはナチス・ドイツ軍に占領されたが,44年にはソ連軍により占領軍は掃討された。また,49年には農業集団化促進のために再び強制連行が行われている。やがてエストニアは工業地域としての役割を担い,ロシア人労働者が多数流入した。
(6)独立回復へ ロシア人の大量流入はエストニア人に危機感を生み,すでに1970年代末ころからこれに対抗する運動が起こっていたが,80年代後半以降のペレストロイカのなかで環境保護運動や伝統文化保存運動として発展し,88年10月にはエストニア人民戦線(E. サビサールらが主導)が結成された。バルト3国の連帯のなかで独立運動の方向に向かい,89年1月にはエストニア言語法の制定により民族語を公用語と規定して,90年3月には独立への移行宣言を発し,91年8月モスクワでの保守派クーデタ失敗を機に独立を宣言し,9月にはソ連邦からも承認され,国連にも加盟した。独立後もロシア語系住民の地位をめぐる紛争は続き,旧ソ連軍撤退を控えて94年7月に妥協が成立した。
エストニアに関する最初の記録はラトビア人ヘンリックによる《リボニア年代記》(1241)の中の人名と地名である。エストニア語による最古の文献は,バンラットの《教義問答》(1535)である。スウェーデン支配の下で布教活動が盛んとなり,南エストニア方言で賛美歌と新約聖書(1686),北エストニア方言で賛美歌が著された。ニスタットの和約でロシア領とされた後,ヘレンの手で北エストニア方言による聖書の完訳(1739)が出版され,これがエストニア文語の基礎となった。やがてフランス革命の余波を受け医師フェールマンF.R.Faehlmannはエストニア学術協会(1838)を組織し,エストニアの民族的覚醒を鼓吹した。彼の友人クロイツワルトは伝説的叙事詩《カレビポエク》を書きあげた。またヤンセンJ.V.Jannsenは最初のエストニア語新聞《パルヌの郵便屋》(1864)を発行し,ヤコプソンK.R.Jakobsonは急進的新聞《サッカラ》(1878-82)により民族の権利を主張した。ヤンセンを中心として1869年には最初のエストニア民族歌謡祭が開かれ,以後ほぼ5年ごとにこの行事が続けられて今日に至っている(近年のソ連からの独立に際して,1988年のタリン郊外での歌謡祭は大きな影響を及ぼした)。フルトJ.Hurtらによるフォークロア収集運動も民族文化の発展に寄与している。ヤンセンの娘コイトゥラは《野の花》(1866),《エマ川の小夜鳴き鳥》(1867)により祖国愛をうたいあげ,エストニア文学に真紅の花を咲かせた。次に詩人リーブJ.Liivは暗い世相を嘆き,ビルテE.Vilde(1865-1933)は自然主義的小説《寒い国》(1896)を発表した。新ロマン派のスイツG.Suits(1883-1956)が芸術至上主義をたたえ,女流詩人ウンテルは官能的な詩集《影からの声》(1927)を世に送った。散文ではトゥクラスF.Tuglas(1886-1971)が幻想的な《魂の放浪》(1925)を著し,エストニアの独立は文芸にも絶大な活力を与えた。国際的文豪タンムサーレは大河小説《真実と正義》5巻(1926-33)をまとめ,ルツO.LutsやメツァヌクM.Metsanukが活躍した。しかしエストニアが独立を奪われると文学の歩みも止まった。1940年国土がソ連に編入されると,すぐナチス・ドイツに占領された。44年再びソ連の手に戻る前に6万人のエストニア人が国外に亡命した。この中に著名な作家や詩人が含まれていて,彼らは主としてスウェーデンで創作活動を続けた。しかし57年ころからエストニア本土でも社会主義リアリズム文学が現れた。
執筆者:小泉 保+志摩 園子
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(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)
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バルト三国中最北の共和国。1242年に支配者のデンマークとドイツ騎士団の連合軍がロシアのアレクサンドル・ネフスキー公に東進をはばまれ,1561年スウェーデン領,1721年北方戦争の敗北でロシアに割譲された。第一次世界大戦後に共和国として独立したが,1940年ソ連に併合された。90年独立を宣言,翌年独立を回復した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…詩人クパーラ,コーラスYakub Kolas(1882‐1956)がその代表的作家である。
[バルト3国の文学]
北のエストニアは言語がウラル語族のフィン語派に属し,ラトビア,リトアニアはともにインド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属するが,歴史的・文化的には,エストニア,ラトビアの両国に共通点が多い。この両国は北欧諸国,ドイツ騎士修道会に領有されドイツ的影響を強く受け,18世紀のピョートル1世時代にロシアに併合されたが,1816‐19年にいち早く農奴解放が行われ,ロマン主義時代には近代文学の基が築かれた。…
※「エストニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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