カルチュラル・スタディーズ(読み)かるちゅらるすたでぃーず(英語表記)cultural studies

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

カルチュラル・スタディーズ
かるちゅらるすたでぃーず
cultural studies

1960年代にイギリスで起こり、やがてアメリカをはじめ世界各地に広がっていった多元的かつ批判的な視点からの文化研究の総称。

 1964年に設立されたイギリスのバーミンガム大学「現代文化研究センター」Centre for Contemporary Cultural Studies(略称CCCS)を中心として、労働者文化や若者文化についての一連の研究が生み出され、そこからこの名称がつけられた。スタディーズstudiesと複数形になっているように、ここには、単一の方法論による単一の学科ではなく、さまざまな文化領域や文化実践を対象とし、多様な方法論による、学際的かつ学科を超えた研究が含まれている。

 これが従来の文化論や比較文化論と異なる点は、正統的で支配的な単一の文化の研究でなく、むしろそれに対抗するポピュラー文化、対抗文化(カウンター・カルチャー)、若者のサブカルチャーなどを研究対象とし、それを権力や伝統との関係においてとらえようとするところにある。この研究が誕生したのが、いわゆる「高級文化」と「大衆文化」の対比が際だっているイギリスであるのもうなずける。この研究の理論的背景として、エーコやバルトの記号論(文化記号学)、フーコーのポスト構造主義、ラカンの精神分析、グラムシの文化ヘゲモニー論、デリダの脱構築論などがある。

[久米 博 2015年10月20日]

淵源

この研究の発端となったのは、リチャード・ホガートRichard Hoggard(1918―2014)の『読み書き能力の効用』(1958)とレイモンド・ウィリアムズの『文化と社会 1780―1950』(1958)の2著である。彼らはいずれも労働者階級出身で、伝統的な文学研究の方法を大衆文化の解読に適用した点で共通している。ホガートは1930年代イギリスの労働者階級の言語、信念、価値、家庭生活などと、彼らの儀礼、スポーツイベント、パブといった慣習との関係をたどり、それを民俗文化として評価する反面、第二次世界大戦後にアメリカのポピュラー文化の浸透によって生まれた労働者階級の文化をまがいものとして批判した。一方、ウィリアムズの『文化と社会』は文学史の本であるが、厳密なテキスト分析の方法を適用して、文化の生産物とその社会的関係性とを深く議論した。彼らは労働者階級の文化を、イギリス文化の一つのモデルとして示し、以後のカルチュラル・スタディーズに多大な影響を与えた。

[久米 博 2015年10月20日]

展開と成果

カルチュラル・スタディーズを実質的に推進し、それを全世界に向けて発信したのは、前述のCCCSである。初代所長ホガートは、マスメディアイデオロギー的機能の分析に重点を置いた。2代目所長スチュアート・ホールは、メディアを介しての受け手(オーディエンス)の「読み」による意味生産に焦点を当て、サブカルチャー、女性文化、若者文化の研究に関心を拡大した。文化現象をテクストとして「読む」分析は、社会学的分析へ、さらにメディアの送り手側がどのようにして構築され、機能し、オーディエンスといかなる相互関係をもってきたのか、という分析へ進み、さらにホールのメディア論はオーディエンスの新しい概念化へと発展していく。CCCSから始まったカルチュラル・スタディーズは、1960年代後半にはロンドン大学、レスター大学はじめ全英に広がっていった。

 1970年代にこのカルチュラル・スタディーズがアメリカに伝えられると、その関心や対象は人種問題、性差、植民地主義エスニシティ(民俗性、民族に固有の性質や特徴)に拡大し、それらに対しフェミニズム、ポスト植民地主義などの観点からの研究が多数生み出された。その代表として、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(1978)をあげることができる。

 スチュアート・ホールはジャマイカ出身でイギリスの高等教育を受け、サイードはパレスチナ出身でアメリカの大学に学んだ。彼らの研究は支配者の文化を被支配者の観点から見直すポスト植民地主義の視点に立ち、欧米の自民族中心主義(エスノセントリズム)の視座から生まれた従来の文化論を批判する。

 1990年代に入るとカルチュラル・スタディーズはアジア、アフリカに受け継がれ、たとえば少数者集団(マイノリティ)の文化を対象にした多元文化論的研究が生み出された。

[久米 博 2015年10月20日]

日本の動向

日本でも1980年代からカルチュラル・スタディーズは、まずマス・コミュニケーション研究として紹介され、ホガートやウィリアムズらの著書が翻訳され、1990年代後半にいくつかの雑誌で本格的な特集号が出された。1996年には東京大学で国際シンポジウム「カルチュラル・スタディーズとの対話」が開催された。しかし本格的なカルチュラル・スタディーズの出現は今後に待たねばならない。

[久米 博 2015年10月20日]

『R・ウィリアムズ著、若松繁信・長谷川光昭訳『文化と社会』(1986・ミネルヴァ書房)』『R・ウィリアムズ著、大泉昭夫訳『文化と社会の語彙』(1989・南雲堂)』『R・ホガート著、香内三郎訳『読み書き能力の効用』(1986・晶文社)』『E・W・サイード著、今沢紀子訳『オリエンタリズム 上下』(1993・平凡社)』『フランツ・ファノン著、海老坂武・加藤晴久訳『黒い皮膚・白い仮面』(1987・みすず書房)』『テリー・イーグルトン著、大橋洋一訳『イデオロギーとは何か』(1996・平凡社)』

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大学事典 の解説

カルチュラル・スタディーズ

[知識人と文化]

カルチュラル・スタディーズ(以下CSと略記)を大学における「文化研究」一般と混同しないためには,それがある一定の理論的関心と方向性をもった研究潮流であると捉える必要がある。通常それは,1960年代のイギリスで形成された「バーミンガム学派」(英国CS)をモデルとし,オーストラリア,北米,インド,ヨーロッパや東アジア各地へと伝播していった,人文・社会科学分野の批判的潮流であると説明される。本項目もまたこの通例に従うが,それはCSが単一の起源から発展したと主張するものではない。

 社会批判の言説としての英国CSは,産業化・資本主義化とともに低俗な物質主義がはびこることへの,教養主義的知識人の危機感にその端緒を求められる。19世紀のアーノルドから20世紀前半のリーヴィス夫妻にいたる,こうした保守的でエリート主義的な知識人の「文化主義」は,1950年代,リチャード・ホガート,R.,R. ウィリアムズ,E.P. トムスンといったニューレフト知識人の登場によって,大きく書き換えられることとなった。彼らは自らの背景である労働者階級の生活世界に内在し,その有機的な全体と「感情の構造」(ウィリアムズ)を多面的で奥行ある記述において描き出すことで,文化を単なる物質的現実の反映ではなく,さまざまな社会的現実との重層的な相互作用や交渉を生みだす,独自の構造として捉えようとした。ホガートの『読み書き能力の効用』(1957年)はその模範的な著作であり,英国CSの嚆矢と評価されている。

[現代文化研究センター]

1964年,ホガートを所長として,バーミンガム大学に現代文化研究センター(イギリス)(Centre for Contemporary Cultural Studies: CCCS)が設立された時点をもって,CSは大学内に拠点を置いて組織化されはじめたと見ることができよう。この小さなセンターの際立った特色は,教員と大学院生が協働して研究を行い,ガリ版刷りのジャーナルを発行して,共著や共編の形で成果がまとめられていったことにある。学術的な価値を認められないサブカルチャーや若者の反抗的実践が積極的に取り上げられ,階級構造のみならず,人種・エスニシティ,ジェンダーといった差異に敏感な分析が次々と生みだされていった。

 このCCCSの理論的発展を牽引したのが,ジャマイカ出身のステュアート・ホール,S.(1932-2014)である。ホールはホガートらの「文化主義」に対して「構造主義」の側から理論的な接近を試み,とりわけA. グラムシの「ヘゲモニー」概念を発展させることで,イデオロギーや言説によって構造的に規定されつつも,それらと「交渉」する主体の実践の領域を探っていった。こうして「ポピュラーなもの」や「アイデンティティ」が,構造との交渉や闘争のプロセスの,言い換えれば政治の場として再定義されることになる。ホールたちの文化=政治的批判が主要な課題としていたのは「英国性」の帝国的編成であり,サッチャリズムであった。

 ホールは1987年にCCCS所長の座を退いてオープン・ユニバーシティの社会学教授となり,以後,オープン・ユニバーシティが新たにカルチュラル・スタディーズの拠点となる。一方,CCCSは1980年代になると研究機関としての運営が困難になり,カルチュラル・スタディーズ/社会学部へと改組されて,学部教育に力を注ぐこととなった。

[カルチュラル・スタディーズの旅]

1990年4月,イリノイ大学に各国から約900人の参加者を集めて開催された5日間の国際会議「カルチュラル・スタディーズ―現在と未来」を皮切りに,CSは1990年代には国際的な広がりを見せはじめる。それは英国CSが練り上げた「理論」の導入や移植というより,各地域でそれぞれ独自に発展してきた文化研究を,国際的な対話の場に置き直して再評価するような動きでもあったといえる。

 日本におけるCSの受容には,はっきりした日付があるように見える。すなわち,1996年3月,東京大学で英国CSを代表する6人の研究者を招いて4日間にわたる国際シンポジウム「カルチュラル・スタディーズとの対話」が開かれ,これに合わせて『思想』(岩波書店),『現代思想』(青土社)でCSの特集が組まれたのである。それまでほぼメディア研究の分野でしか知られていなかったCSが,日本のアカデミズムに一挙に紹介された形である。むろん,このようにCSを「外来の」流行思潮と捉えることにはさまざまな批判がある。むしろそうした一過性の「ブーム」がいったん収まったかに見える2000年代以降,東京,沖縄,名古屋,仙台,神戸,広島といったローカルな知の現場を巡りつつ毎年開催される国際学会「カルチュラル・タイフーン」のような,持続的な議論の場が広がり「節合」され深化してきたことはたしかだろう。

[CCCSの閉鎖]

2002年6月,バーミンガム大学は突如,カルチュラル・スタディーズ/社会学部の閉鎖を通告した。衝撃は大きく,行き場を失った大学院生や,かつてのCCCSの卒業生らによる閉鎖撤回の署名呼びかけとともに,ニュースは世界各地を駆けめぐった。注意すべきは,イギリスにおける新自由主義的な大学再編のただ中で起こったこの突然の閉鎖劇が,CSの「政治性」が敵視された結果というわけではなかった点である。学部閉鎖の理由は,保守党政権時代から進められてきた研究業績評価(イギリス)(Research Assessment Exercise: RAE)による学部評価が,バーミンガム大学の設定する目標に届いていないというものであった。ところが同学部は,社会学分野の学部教育においては政府の査定で最高点を与えられており,教育機関としての名声を保っていたのである。

 このことは,RAEによる学部評価の問題性を浮彫りにしたのと同時に,CSが元来,大学を拠点に組織される学術的な知であったのかどうか,自問する契機になったともいえよう。ホールが強調するように,それは「いつも片足をアカデミーの外側に置き」,大学内のアカデミックな秩序に囲い込まれてしまうことがないところにこそ,その知的活力は由来していたのである。
著者: 浜邦彦

参考文献: Lawrence Grossberg, Cary Nelson & Paula Treichler(eds.), Cultural Studies, Routledge, 1992.

参考文献: 花田達朗,吉見俊哉,コリン・スパークス編『カルチュラル・スタディーズとの対話』新曜社,1999.

参考文献: ポール・ギルロイ著,小笠原博毅訳・解説「バーミンガム大学カルチュラル・スタディーズ/社会学部強制閉鎖について」『インパクション』インパクト出版会,133号,2002.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

カルチュラル・スタディーズ
cultural studies

社会制度が文化形成に果たす役割を研究する,領域横断的な学問分野。1964年に設立されたイギリスのバーミンガム大学現代文化研究センターに端を発し,リチャード・ホガート,スチュアート・M.ホール,レイモンド・ウィリアムズなどの研究者を中心に発展した。今日では多くの学術機関で独立した専攻分野として認められ,社会学人類学歴史学,文芸評論,哲学,美術評論に幅広い影響を与えている。おもな研究主題は,人種民族階級ジェンダーが文化的知識の生成にどのような役割を担うかなどである。(→文化

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百科事典マイペディア の解説

カルチュラル・スタディーズ

文化研究のことであるが,狭義には1970年代英国のバーミンガム大学に,英国労働者の文化を研究するために設立された現代文化研究センター(CCCS)の流れをくむ学問のこと。スチュアート・ホール〔1932- 〕が中心的理論家。文化を政治や社会と接続して動的にとらえ,メディア,コミュニケーション,大衆文化,若者文化,移民文化の研究にめざましい成果をあげた。オーストラリアや米国をはじめとして全世界に影響をあたえる。

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