翻訳|guild
一般的には中・近世ヨーロッパにおける商工業者の職種ごとの仲間団体をさすが,このような同職仲間的な団体は,広く前近代の日本,中国,イスラム社会,インドにもみられる。ドイツ語ではギルドGilde,ツンフトZunft,インヌングInnung,フランス語ではコンパニョナージュcompagnonnage,イタリア語ではアルテarteと呼ばれる。日本では,同職組合,同業組合と訳されている。
すでに古代ローマに,コレギウムとよばれる同職団体が存在したが,ギルドのヨーロッパにおける起源は,7~8世紀にさかのぼり,ゲルマン民族に共通の歴史的背景をもっていた。時代的背景を考察して区分するとおよそ三つの類型に分けることができる。
第1は,保護ギルドSchutzgildeの段階である。すでにアングロ・サクソンのイネ王(688-726)の法典にギルドgegildanの言及があり,それは人命金支払や受領の義務あるいは権利をもった人々の相互扶助団体であったとみられる。古ゲルマン語には供犠,貢納,税を意味したゲルトgild(貨幣)の語があり,それと同語源のギルドは〈貢納・供犠団体Zahl-und Opfergemeinschaft〉であったと考えられる。779年のヘルスタールの勅令においてカール大帝が契約ギルドを禁止し,契約を結ぶことなしに難破や火災の際に相互扶助を行う団体のみ承認している。これはフランク族におけるギルドに関する最古の文書史料であり,ギルドが相互扶助団体であったことを示している。この段階のギルドでは構成員の相互扶助,宗教的・社会的活動,供犠と宴会,埋葬への参列に主たる目的がおかれており,氏族集団の意義が消滅してゆく時期にそれに代わる機能を引き受けていたとみられる。この団体は交易のための旅の途中で一時的に結成されたものとみられ,北西ヨーロッパとイギリス並びにスカンジナビア諸国にみられる。この段階のギルドの特徴は兄弟団的結合にあり,その性格は以後のギルドにも伝えられてゆく。
第2の類型は,11世紀から13世紀にかけて北フランス,ベルギー,オランダ,北ドイツの商業圏に登場する古商人ギルドalte Kaufmannsgildeである。商人ギルドの形成にもいくつかの段階が認められる。まず商人集団が,自らの商人法ius mercatorumをもって国王商人として特定の場所で特権団体を形成する段階があり,ついで他の職種の人々が市場住民cives forensesとして移住してくる段階もある。第3の段階として市民共同体universitas civiumが結成され,共同体Genossenschaftとしての性格が明瞭になってくる。この段階は同時に最初の定住者である商人層による特権の独占や商人身分が閉鎖化してゆく傾向が芽生えてくる段階でもある。この傾向は他の職種の集団がそれぞれ閉鎖的団体を形成するきっかけともなり,こうして中世都市特有のギルドが形成されてゆくことになる。
ギルドの組織についてはギルド規制があり,それはギルド自身が作成し,市当局によって承認されたものであった。ギルドの主要な機能に新加入者の決定がある。新加入者はギルドが自ら許可したが,所によっては市参事会の承認が必要な場合もあった。ギルドに加入しようとする者には自由人の身分に属し,両親が賤民でない出生証明と,ドイツの場合はドイツ人であることの出生証明,さらに良い評判をもっていることが求められ,また市民権の取得が求められた。このほかに加入金が課されたが,ギルド構成員の子弟の場合は低額であった。これらのほかにギルドに属している教会に蠟などを寄進し,さらに宴会を開いて親方たちに馳走する定めもあった。ときには職業を異にする著名人もギルドに加入を許されたが,この場合も同じ身分か,より高い身分の者の加入しか認められなかった。16世紀ドイツのマイスタージンガー(職匠歌人),ハンス・ザックスがいくつかのギルドに加入していたのもこのような理由による。
新加入者の許可と並んで重要なのが,ギルド集会Morgenspracheと役員の選出であった。ギルドの役人は無給でギルドの組織を維持するための職務に当たったが,その職務は手工業製品の品質と量の管理や仕入価格・小売価格の決定などの職業に関する分野から,ギルドの規則に違反した者に対する裁判にまでわたる広範囲なものであった。
このような規則をもつギルドは対外的独占と対内的平等という言葉に示されているように,ギルドに加入しない者に営業を認めず,ギルド構成員の数も限定し,中世後期には新加入者に対して厳しい枠を設け,対内的には平等の原則を貫こうとしていた。ヨーロッパ社会を貫く支配Herrschaftの原理に対し共同体Genossenschaftの原理がギルドという形で示されているが,ギルドにおけるゲノッセンシャフト的構造は大きく分ければ五つの特徴をもっていた。(1)身分の平等性 中世都市にはさまざまな身分の人物が定住したが,12~13世紀には市民共同体が結成され,古来の身分の不平等は解消されていった。しかし,商人ギルドと手工業ギルドの間で,あるいは各ギルド相互の間で特権に格差が生じ,横のつながりを特徴とするゲノッセンシャフト的性格のギルド相互の間に縦の序列が生じていった。(2)土地所有の平等 農村と異なって市民の間では土地所有に関して比較的平等の原理が貫かれていた。(3)特権団体 都市はインムニテート(不輸不入),市場法,商人法,人格的自由などの特権を有する点で特権的団体であり,その権利は市民全体の権利として意識され,市民共同体はその限りで総合的ゲノッセンシャフトGesamtgenossenschaftとしての特徴をもっていた。(4)用益団体Nutzungsgenossenschaft 都市共同体の諸特権は用益独占団体としてのギルドやアムトらの同職団体にゆだねられていた。(5)兄弟団 ギルドやツンフトは広義の兄弟団のなかに位置づけられる。兄弟団はゲルマン的・異教的な基盤の上でキリスト教を受け入れ,死者の供養,私闘の排除,宴会・祭りへの参加,相互扶助などを主たる行事とする団体であり,ここにもゲノッセンシャフト的性格がはっきり示されている。
具体的にみるとこれらのゲノッセンシャフト的性格はギルド構成員の数の制限(親方株の限定),共同仕入れ,販売価格の協定などに示されており,製品の品質や量についても細かく定め,それらは伝統的な製品の生産に限定されていた。新しい発明や発見によって,特定の個人が他の者よりも大きな収入を得ることがないよう配慮されると同時に,特定の者が極度な貧困に陥らないような配慮もなされていた。したがって夫をなくした未亡人もしばしば営業をつづけていたし,ケルンやフランクフルト・アム・マイン,パリなどでは婦人も親方として活躍していた。
商人にならってやがて手工業者のギルド(ドイツではとくに商人ギルドと区別してツンフトと呼ぶ)も各職種ごとに数多く結成され,13世紀以降商人層が都市内で市参事会を独占してゆく傾向が生ずると,これらの手工業ギルドが市政参加の運動を起こした。それがツンフト闘争と呼ばれる運動である。この頃ギルド内でも親方Meister,職人Geselle,徒弟Lehrlingの階層(徒弟制度)が生まれ,技術水準の維持が計られると同時に職人も兄弟団を結成し,親方に対抗する姿勢をとり始めた。この兄弟団はやがて職人組合Gesellenverbandへと発展してゆくことになる。14世紀以降中世都市経済の発展が限界に達すると,農村人口の流入による職人層の増加に対してギルドは親方株を制限してギルド制度を守ろうとし,自由競争を排除して技術面でも制度面でも保守的な性格を強めていった。
このような傾向は親方と職人組合との間の対立を生んだだけでなく,新たに農村から流入してくる人々と職人組合との間でも対立が生じ,そこにヨーロッパにおける賤民身分が創出されてゆくきっかけが生じてくる。新加入者に対して両親が賤民身分でない者という条件がつけられていることからわかるように,ギルドには賤民は加入できなかった。この原則は新しく生じてくる職人組合にも採用され,職人組合が農村から流入してくる人々を排除し始める。14,15世紀には親方になれない職人層が激増し,社会不安の種になっていたが,職人組合が宗教的な兄弟団から世俗的な権益を守る組合へと変質してゆく反面で,これらの組合は農村から流入してくる者との間に一線を画し,皮剝ぎ,亜麻布織工などの特定の職種の子弟を採用しないという原則をつくり,新規加入者を厳しく制限した。それにもかかわらず農村から多くの人々が流入しつづけたため,15世紀末には都市内部にギルドに加入できない住民が大量に増加し,この頃に賤民身分が固定化し始める。そういう意味では職人組合が閉鎖化していった状況のなかで,ヨーロッパの賤民身分が確立したということもいえる。ただしこのような傾向を最も顕著に示しているのはドイツであり,イギリスでは職人組合と賤民身分の形成との間にはそれ程はっきりとした関連はみられなかった。
北西ヨーロッパでは,ハンザ同盟との関係から,イングランド行き商人団とか,ゴトランド行き商人団など,交易先の土地の名前をつけた団体が生まれ,これらがヨーロッパ全域にわたる交通の担い手となってゆく。それと同時に,前述したようにギルドが独占団体となる傾向が顕著になり,ギルド発展の第3類型が生まれてくる。同じ頃に商人ギルドや手工業ギルドの職人たちも仕事を求めて,あるいは親方になるための修業を目的として遍歴の旅に出た。職人たちの遍歴は北はデンマーク,スウェーデンから南はイタリア,西はスペイン,東はノブゴロドにまで及び,これらの職人の遍歴によってヨーロッパ全域にわたる製品の品質の均質化,職人慣習の普及などが生じ,ヨーロッパ文化の一体性を最下部で担う集団としての職人の姿が浮かび上がってくる。東ヨーロッパから西ヨーロッパにかけて建築物を主体とする都市景観が均質化しているように思われるのも,まさにこれらの職人の遍歴の結果なのである。職人の遍歴はこうしてヨーロッパ文化の一体性をつくり上げただけでなく,生活慣習や信仰さらに伝説の流布などの面でも大きな意味をもっていた。実際職人の遍歴は,20世紀にいたるまで行われており,ドイツ社会民主党の活動家の多くは遍歴の経験をもつ職人であった。
営業の自由の原則が採用され,18世紀後半以降ギルドは解体されてゆくが,ギルドに体現されていたゲノッセンシャフト的特質は現在でもヨーロッパの各種団体のなかに生きており,ヨーロッパ文化を最深部において支える重要な人間関係の絆となっている。
→商人 →職人 →都市
執筆者:阿部 謹也
中国においても,ヨーロッパの宗教・社会・政治ギルド,および商工業の営業ギルドに類似した団体は広範に存在した。とくに10世紀宋代以後,19世紀の清朝末に至る間は,中国ギルドの果たした役割は大きい。古くから文献にみえる,社や会あるいは社会と称される共通の祭祀を中核とした擬制氏族的集会がいわば古式ギルドにあたるが,唐・宋以後になると,都市内部にも各種の社,会が出現する。それは科挙の同期会白蓮社や金剛会のような宗教・秘密結社から,政治的には胥吏(しより)や輸送業者の集団まで多種多様で,呼称も時代が下ると幇(パン)の字が多く使われた。さらに,宋以後の統一帝国の安定,全国市場を対象とした商工業の盛行とともに,各地に同郷集団の集会所である会館が出現したことが特徴的である。言語,習慣,文化程度が著しく異なり,官憲の保護などあてにできぬ広い中国で,本籍地を離れた人々は同郷集団を組まねば生きてゆけない。会館は明初北京にできた江西出身者の吉安会館が早いものだが,こうした会館の前身は唐・宋時代,国都に設けられた同郷官員の集会所と考えられる。19世紀の北京では360の会館があり,祭祀を中心として同郷人の結束をはかり,異郷での客死,病気の面倒をみるほか,宿泊所の提供,同郷貧窮者への慈善などに尽力した。
一方営業ギルドはヨーロッパと同じく行(こう)と呼ばれる商人ギルドと作と呼ばれる手工業ギルドに分けられる。行は北魏の洛陽あたりから史料にあらわれ,最初は同業者のならびを意味したが,やがて銀行,米行のように業種別のギルドの呼称に定着した。洛陽の豊都市には隋・唐時代120の行があったといわれる。宋代に入り市制が崩壊し商店が都市内の各所に分散しても行はますます発展する。宋代の行で特徴的なことは初期には行役(こうえき)と称して,官庁の必要物貨を各行が時に応じて納入し,政府もまたその徴収のために行の編成に介入していた点である。行役は1073年(熙寧6)に免行銭として銭納化されたが,政府と行の関係は南宋時代も続いている。明・清時代になると,商人たちは都市に公所と呼ばれるギルド・ホールを持つことが一般化する。そこでは董事(とうじ)を頂点とした組織や規約が作られ,商人たちは一般的にそれを厳守した。商人ギルドの中には広東13行のように政府特許商人のギルドもあり,専売の塩や重要貿易品の茶あるいは米など,国家権力とのかかわりが裏面では強かったと思われるが,表面的には宋代の行役のような負担は減少している。手工業ギルドは,一般に規模が小さく,また手工業者の富裕度が低いこともあって,終始商人の下風に立ち,前貸支配を通じて商人の動きに規制されがちであった。元代杭州に来たマルコ・ポーロは手工業ギルドに触れているが,明・清時代でもそれに関する史料は少ない。親方,職人,徒弟の階層に分かれ,徒弟は3年間親方のもとでほとんど無償で働くというのが清代の一例である。ギルドが都市の政治と関係する例は中国でも珍しくないが,権力に対抗して新しい時代をひらくような方向はみられなかった。
執筆者:梅原 郁
前近代のイスラム都市において商人・手工業者は,タリーカ,ターイファṭā'fa,ヒルファḥirfa,サンアṣan`a,シンフṣinf,アスナーフaṣnāfなどと呼ばれる同職組合をつくっていた。しかし,これらの組織は中世ヨーロッパにみられる自治権をもった典型的なギルドとまったく同じものではなく,政府によって統制された組織であった。
7~9世紀においてギルドに類する組織はイスラム都市には存在しなかった。アッバース朝の中央集権体制が崩れる10世紀以降,ようやくギルドの存在をうかがわせる断片的な記事が出てくる。エジプト,シリアでみられるウラファー・アルアスワーク(市場の長)がそれである。しかし,これがギルドの長を意味するのか,ムフタシブ(市場監督官)の代理人として任命された政府の役人であったのかはっきりせず,ギルドの存在を立証する決め手とはなっていない。ライース・アルアティッバー(内科医の長)についても同様で,内科医の同職組織の長であったのか,政府の任命した役人であったのか確たる証拠はない。結局,10~12世紀のイスラム世界ではギルドの存在を暗示する名辞があるだけで,組織については何もわかっていない。
13~14世紀,アナトリアにアヒーヤ・アルフィトヤーン(青年同胞団)という組織が現れた。これは手工業者の子弟をメンバーにし,友愛と互助精神を理想の倫理規範とする宗教結社的な組織で,フトゥッワとも呼ばれた。これに属する団員は指導者(アヒーakhī)を選び,スーフィー教団の会堂に集まって会食し,歌ったり踊ったりした。入会するのに独特の加入儀礼があり,宗教教育もここで行われた。
フトゥッワは業種ごとに編成されることが多かったが,純然たる手工業者のギルドとみなすことはできない。手工業者の子弟に倫理規範を教える若衆組,ないしは青年団としての性格が強かった。各フトゥッワは共通の守護聖者を信仰していたので,宗教結社でもあった。エジプトではサルマーン・アルファーリシーを守護聖者の頂点に置き,各フトゥッワの守護聖者がこれとなんらかの関係を有して世系をつくっていた。こうして各フトゥッワを擬制的な親族関係に位置づけ,フトゥッワの連合組織をつくっていた。17世紀にフトゥッワの世俗化が始まり,職業ギルドに転換した。しかし,オスマン帝国の場合,なめし革業者のギルドの長はアヒー・ババと呼ばれ,依然としてフトゥッワ的伝統を残していた。彼はギルドの加入儀礼において入会者に帯を結ぶことを役目としていた。
18世紀以降,ギルドの国家への従属が強まった。オスマン帝国の場合,手工業者を確実に掌握するために,ムフタシブの権限を強化した。ギルドは長老会議をもち,自主的に組織を運営できる仕組みをもっていたが,指導者であるケトヒュダーkethüdāを選挙した後,必ずカーディー(裁判官)の承認を得なければならなかった。オスマン帝国のギルドは,営業許可権,裁判権,軽犯罪の処罰権,商品価格と品質管理,相互扶助など,自治的色彩の濃い機能をもっていた。しかし,ギルドは本質的に政府の行・財政の末端機関として位置づけられており,軍事遠征の際に兵員を出し,課税・徴税の単位と考えられていた。政府はギルドを政策的に特権化することによって統制を強めた。すなわち,ギルドの成員資格に制限を加え,店舗の賃借権にゲディクgedikという排他的な株を設定した。
19世紀になるとギルドの比重は低下した。エジプトのカイロの場合,1869年に198の業種別ギルドがあり,平均320人のメンバー数であったが,人口30万のうち,ギルドに組織されている者は1/5にしかすぎなかった。80年代には,カイロのギルドは次々とその機能を奪われ衰退していった。行政の中央集権化によって,ギルドを監督するムフタールが任命された。81年職業税がギルド税に代わって導入され,課税が個人単位になり,ギルドはもはや徴税単位ではなくなった。ギルドの人数制限,特権化のもとであったゲディク制は,87年独占権の禁止によって廃止された。労役提供も1919年にギルドの義務ではなくなった。イスラム世界におけるギルドの衰退は,19世紀末から20世紀の初めにかけてであった。エジプトではムハンマド・アリーの官営工業政策によって伝統産業とギルドは影響を受けたが,1869年のスエズ運河開通は,それまでの交易体系と貿易構造を根本的に変え,ギルドに決定的な打撃を与えた。オスマン帝国では,1910年にイスタンブールのギルド廃止令が出たのを皮切りに,順次廃止されていった。後進資本主義が成立することのなかったイランは,ギルドが後まで残り,第2次世界大戦後まで力を失わなかった。
→商人 →職人
執筆者:坂本 勉
インド古代の文献や碑文によると,商人や職人の間に一種の同業者組織が存在していた。この組織はサンスクリット語でシュレーニー(あるいはシュレーニśreṇi),パーリ語でセーニseṇiと呼ばれ,またガナgaṇa,プーガpūgaなどと呼ばれた。欧米やインドの研究者はシュレーニーに〈ギルド〉の訳語を与えている。パーリ語仏典によると,大工,鍛冶師,皮革工,絵師の各ギルドを含む18の主要なギルドが存在したという。ギルドはカーストを同じくする者の集団で,その構成員は一般に職業を世襲し,各ギルドは長老あるいは首長によって率いられた。ギルドにはそれぞれ慣習法が存在し,王といえどもその法を尊重せねばならなかった。都市の経済活動にギルドが果たした役割は大きく,貨幣を発行したギルドの存在も知られている。しかし,いずれのギルドも多かれ少なかれカースト的な排他性を備えていたため,諸ギルドを統合した組織は成立せず,またそうした組織が市政の実権を握ることもなかった。グプタ朝以後,都市と商工業が衰退するにつれ,古代のギルドはカースト的排他性をいよいよ強めた。
執筆者:山崎 元一
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西ヨーロッパの中世において、商人や手工業者などの自営業者が、キリスト教の友愛精神に基づき、生活のさまざまな面で相互に助け合うために結成した身分的な職業団体である。初期の商人組合の場合は、商人だけではなく、各種の手工業者も参加していたが、のちになって同種の手工業者ごとに同職組合が結成される。自発的な団体結成が普通であるが、都市の領主の影響力も認められる。ドイツ語ではツンフトともいう。なお、中国にも行(こう)や作(さく)とよばれる同業者の団体があった。
[寺尾 誠]
ローマ帝国やビザンティン帝国の地域的な商人、手工業者の強制団体に起源を求める説、北欧の義兄弟誓約関係の説などは、それぞれの地域には多少妥当しても、一般的には当てはまらない。また荘園(しょうえん)団体説のように、農村における荘園法の下での手工業者団体が都市に移植されたという説もあまり支持されていない。中世ヨーロッパの封建社会が整えられていくなかで、血縁的要素の、より少ない地縁的共同体として、中世都市が成立、発展する。その共同体の公権力である都市当局が、封建領主から自治の権力を徐々に獲得していく一方、商人や手工業者が自らの家父長的家政経営を物心両面で守る目的で、友愛的な相互扶助団体を自発的に結成したのである。それは中世都市に固有な身分的職業団体である。すでにカロリング時代の法令に誓約団体の存在が確認されている。それらの団体形成はフランク国家への危険とみなされていた。だが本格的にギルドが結成されていくのは、中世都市の成立が始まる11世紀以降である。
イギリスでは11世紀前半にケンブリッジなど3都市の友愛団体に関する法令がある。フランスでは12世紀に入ると、パリ、ルーアン、シャルトルに手工業者のギルドが存在しているし、ドイツでも11世紀末にマインツ、12世紀に入るとウォルムス、ウュルツブルク、ケルンに記録がある。そのほか北欧、南欧、東欧にもギルドの結成はみられ、13世紀以降ギルドの全盛時代を迎えた。時期的にみて先行したのは、商人ギルドで、のちに各職種別の同職ギルドが成立していく。
[寺尾 誠]
中世都市は各地方の間の交易に刺激されておこってきたから、最初に結成されたギルドは、それぞれの都市の対外的な交易の独占のためのものであった。国王や諸侯によって保証された商業の独占営業権により、他所者(よそもの)やギルドに属さぬ者との競争を避けるための団体であった。そこには遠隔地との商業を営む商人たちが加盟したが、それ以外に小売商人や手工業者も加わっている。ただし、後者はしだいに独立して同職ギルドを結成していくが、過渡期には商人ギルドと同職ギルドの両方に加盟していたこともある。そのうち都市の手工業が繁栄するにつれ、同職ギルドが独立した意味をもち、商人ギルドがかつて誇った勢力を失っていく。また小売商人さえ独自のギルドを結成するに至る。商人ギルドが盛んであったのはイギリスで、ヨーロッパ大陸はそれほどではない。
[寺尾 誠]
14、15世紀は都市手工業者の黄金時代として各職種別のギルド(工匠(クラフト)ギルド)が結成された。それは親方、職人、徒弟という身分制の手工業経営の経済的利害を守るとともに、それらの人々の社会生活、宗教生活の相互扶助をも目的としていた。もっとも重要な経済政策は、手工業者を外部からの競争からだけではなく、仲間同士のそれからも守るためのものであった。各成員が加盟にあたり守ることを誓う誓約条項には、技術や労働時間、製品価格や賃金などの規定、仕事場における生産手段や従事者の数の制限、品質検査、職人・徒弟の修業のための制度などが詳しく盛られ、それへの違反に対しては裁判や処罰の権限が都市当局によりギルドに認められていた。なお都市当局との関係は個々に異なるが、商人などの都市貴族が有力な勢力であるところでは、14世紀に同職ギルドの連帯によるツンフト革命が試みられ、場合によると都市当局の交代が実現した。また、これと並行して、中世後半の人口減少による市場の縮小のため、同職ギルドの完全成員権をもつ親方層が、徒弟期間の延長や職人が親方になる資格を得るための親方試作品masterpieceの要求の引上げ、親方になるときに支払わなければならぬギルド加盟金の値上げを実施した。このため職人たちはしだいに相互扶助や経済的利害の防衛を目的として結社をつくって対抗した。こうした職人団体は「職人ギルド」ともよばれる。
古い商人ギルドも、雑貨商、毛織物商、呉服商、ぶどう酒商、小売商、油商、塩商などに分化し、同職(工匠)ギルドも、パン屋、魚屋、肉屋、粉屋、果実商、靴屋、鍛冶(かじ)屋、皮革業者、仕立屋、指物師、大工、石工、左官、車大工、船大工、床屋、風呂(ふろ)屋、金細工師、画工、運送屋、園芸師、ブドウ栽培業者、ぶどう酒醸造業者、ビール醸造業者など多種の分化を遂げる。そのほか、宗教的ギルドと世俗的ギルドの分け方もある。
[寺尾 誠]
完全な成員権をもつのは、身分制の家政経営の長である親方層であり、それも加盟成員の承認と加盟希望者の誓約により効力あるものとされる。後世になると親方数が制限されたり、親方資格の入手が困難にされた。ただし親方に雇用されている職人やそこで教育されている徒弟も、ギルド制度の下に置かれており、彼らの労働条件はもちろん、社会生活、宗教生活もギルドに規制されていた。親方、職人、徒弟の家族も同様である。
なおギルドは、長老や参審員、執事などの役員を選出し、事業の遂行を任せたが、成員権をもつ者の集会を定期的に開き、役員の選出のほか、誓約条項の改正、新規加盟の承認、冠婚葬祭などの相互扶助を審議する。なお、成員は加盟金以外に年々の会費や礼拝用のろうそくなどを納入しなければならない。仲間の病気、死亡、不幸などに対しての相互扶助はもちろん、ギルド成員以外の者への慈善、都市のさまざまな施設への寄付、成員の宴会など、多様な活動が行われた。
[寺尾 誠]
すべての都市にギルドが組織されたわけではない。中世の後半以来中世都市に対抗して成立していった農村の小都市や市場町においては、商人も手工業者もギルドを結成しない場合が多い。彼らは、ギルドが都市当局に周辺の農村での商工業を禁止したり制限する独占政策をとらせたのに反対し、むしろ自由に競争しあう形で、より新しい市場経済を志向したからである。この背景には、ギルド成員の親方たちの伝統的な技術に対し、農村都市の手工業者たちの技術は水車の利用をはじめとする、より進んだものだったことがある。なお、16世紀以降に絶対王政の重商主義政策のなかで、これらのより自由な、ギルド規制の外にたつ手工業経営を、中世的な市場やギルドの制度に組み込もうと試みられたが、それにもかかわらず、17、18世紀と都市のギルドの影響力は衰えていった。
ただし、この過程は国々により異なる。最終的には19世紀前半に廃止されたとはいえ、農村の側の自由な経済がいち早く圧倒していったイギリスに対し、フランスでは絶対王政の政策がある程度効力をもたらし、18世紀末のフランス革命で、営業の自由とギルド制の廃止が決定された。ドイツは中世都市の影響力がもっとも強く、1869年ようやく全国的な営業の自由の確立によって、ギルド制の長い歴史が終わった。
[寺尾 誠]
『高村象平著『西洋経済史』(1971・有斐閣)』▽『伊藤榮著『西洋中世都市とギルドの研究』(1968・弘文堂)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
商品経済が発生した11~12世紀から近代資本制生産が成立する18~19世紀までの西欧諸都市において,商工業者間に結成された各種の職業別組合。国内市場の欠如,地方的小商品生産,小規模商品需要に対応する,同業者の共存共栄的団結が本質。それぞれ組合規約とその監督維持機構を有した。特に手工業ギルド(craft gild[英],Zunft[ドイツ])は,組合員の労働時間や製品の品質,規格,製造工程,価格などを厳しく取り決め,自由競争,個人的注文取引,農村での,あるいは非組合員の商品生産などを禁止した。また,徒弟,職人,親方の階層的構成をとった(親方のみが組合員)。都市成立の基礎をなした大商人(遠隔地商人)のギルド(gild merchant[英],Zunft[ドイツ])が,市参事会の主体となって市政を壟断(ろうだん)した。これに対し13~14世紀にツンフト闘争が諸都市に展開され(ことにフランデレン,北イタリア),手工業者,小商人の市政参加が実現した。中世末以降,農村工業の展開に対抗して閉鎖的な特権団体に転化し,しだいに形骸化した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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[社会構造]
家を起点とするアンシャン・レジーム社会は,さまざまな地縁的・職能的結合の網の目によって覆われていた。村落共同体や同職ギルドは,そのよく知られている例だが,これらの団体はそれぞれ法的地位を付与されて〈社団corps〉を形成する。このような多種多様な社団的結合に立脚しているところに,アンシャン・レジーム社会の特質があった。…
…【小林 襄治】
【労働運動】
産業革命がフランス革命期の政治反動と同時に進行し,労働者が階級的被差別の状態におかれたことから,イギリス独自の労働者階級意識が生じた。他方,賃労働者の雇用・生活条件改善のための労働組合は,国家やギルドの職人保護規制が後退した18世紀,これに代わるものとして始まった。1824‐25年の団結禁止法撤廃は自由主義経済思想の勝利だったが,27年には〈ソーシャリスト(社会主義者)〉という言葉がオーエン主義の機関紙に登場し,協同とコミュニティと組合が当時の労働運動を特徴づけた。…
…コンスタンティヌスの広場と牡牛広場との間の部分の〈中央大路〉,ことに〈ラムプの家〉とよばれている建物は一日中活気に溢れ,金角湾の船着場にはさまざまの国から来た船がいかりを下ろしていた。コンスタンティノープルが商工業活動の中心であったことを示す,《市総督の書》といわれる10世紀の法令集によれば,首都住民に食料品や生活必需品を供給する各種商人ギルドのほか,絹織物職人が専門工程の職種ごとにギルドに組織され,その他亜麻布や皮革の生産にたずさわる職人,そして登記所書記,両替商,貴金属細工職人までがそれぞれのギルドに組み入れられ,国家の細かい統制がこれらギルドを通して行われた。 コンスタンティノープルを訪れる外国商人は高額の関税に加えて,取扱商品,滞在条件について厳しい規制に服したが,その弛緩の端緒となったのは,1082年アレクシオス1世がノルマン人に対抗するため,艦隊援助を受ける代償としてベネチアに与えた経済的特権である。…
… ヨーロッパ中世都市は,さまざまな共同体から分離してきた市民の新しい共同団体として,多種多様な祭りと宴をもった。手工業ギルドに新規加盟する(組合員=親方となる)には,やはりエール宴を振る舞う必要があった。ギルドの語源は,古北欧語gialda(〈支払う〉の意。…
…兄弟団とは中世ヨーロッパ都市において,人と人の結びつきの根底をなしていた組織であり,歴史的には古ゲルマン時代の宗教的供犠と結びついた宴会にさかのぼるとみる者もいるが,通常は中世都市内に成立した団体をさす。兄弟団は北ドイツではギルド,オーストリアなどではツェッヒェZecheとも呼ばれ,死後の救いを確保するための宗教的行事と祭り,現世の楽しみを享受するための宴会への参加のほか,構成員の相互扶助などのためにつくられた組織である。狭義の商人ギルドや手工業ギルドはすべてこの兄弟団という範疇のなかに含まれる。…
…帝政後期には,国家の必要とする事業を営む統制団体としての性格を強め,そのため,成員は職業に拘束され,その身分,義務は世襲化されていった。古代末期のコレギウムを中世のギルドの前駆形態とみなすかどうかという問題については,ドイツ都市とイタリア都市との地域差が考慮されなければならない。ギルド【本村 凌二】。…
…ローマのコレギウムは,キリスト教の受容とともに相互扶助を行う兄弟団的結合に変わっていったとみられる。11世紀ごろロンバルディアのコモ地方にみられた石工の団体magistri commaciniは,すでに親方,職人,徒弟を擁するギルド的な組織をもち,教会建築に従事していた。マギステルを長とする石工の組織が修道院の組織を模倣したものといわれるのも,その関係によるとみられる。…
…これらは彼らの労働への報酬でもあった。商人,職人で構成されたギルドでは,職種によるギルドごとにそれぞれ特有の制服を持ち,他のギルドと明確に区別した。祭りの行列に組合員は制服を着て参加し,ギルドは仕着を着た組合〈リバリド・カンパニーliveried company〉とも呼ばれた。…
…これもいずれかといえば,一般教育,専門教育,諸能力の育成などの教育的機能を重視した規定である。【寺 昌男】
【大学の起源と歴史】
大学の起源は中世のヨーロッパにあり,教師・学生の一種のギルドに発している。〈大学〉をさすuniversity,〈教師〉をさすmasterなどの現代語は,本来は単に〈団体〉〈親方〉というギルドの用語であった。…
…15世紀に最もよく整備されたが,その後は同業組合からの圧迫,国王・貴族の保護をうける非組合員の建築家の発生,宗教改革などの影響をうけて衰退し,18世紀初めに消滅した。 中世末期の西欧では一般に,石工や大工も他の職業と同じく仕事を確保し,その質を保証するため都市ごとに同業組合trade guild(職人ギルド)を組織したが,城郭や教会堂の建築主は貴族や聖職者なので,同業組合の制約をうけず自由に石工などの工人を雇用できた。フランス,イギリスなどの教会堂は一般にこのように自由契約による工人たちによって建設され,ドイツのような広い地域にまたがる恒久的な組織は作られなかったといわれる。…
…これに反し,前近代的な身分制社会では,領主・農民関係において典型的にみられるように,人的な支配・隷属関係が経済的な生産関係と分かちがたく結びついている(領主制)。もともとは自由な誓約団体として発足した中世都市においても,初期のギルドからしてすでに商人と手工業者の間には身分上の差別があり,やがて手工業者の同職ギルド(ツンフト)がそこから分離しても,それぞれの同職ギルドの内部構造は,親方,職人,徒弟という,身分制的なものであり(徒弟制度),ここでも経済外的な共同体規制が行われていた。 身分制社会は,したがって,これを支配のシステムという意味で,権力の配分関係という見地から考察するならば,公的権力の私的な領有,より具体的には,権力の家産的把握によって特徴づけられる(家産制)。…
…労働の厳しさ,つらさは,むしろ生活の厳しさ,つらさとして意識されていたといえよう。
[ギルド職人の労働]
労働する主体の労働の対象に対する関係という点で,古代の農夫の場合と対照的な位置に立つのは手工業職人の労働である。静的な素材を,道具を手にした人間が,加工し,みずからの構想に従って物に作りあげていく手工業では,労働はもはや圧倒的な自然に従う行為ではなく,労働の対象と労働者との関係は対等である。…
※「ギルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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